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舞台裏の光景を舞台に上げる、その過程について ――ローラと同じ問題に直面したゆめ (アイカツスターズ!第二十五話考察)

2016.11.13 16:43|アイカツ!
今回は、『アイカツスターズ!』第二十五話について考えます。
ゆめがツバサの助手として、舞台を成功させるため奮闘した今回の話。
一つ面白いのは、アイドルのステージだけでなく、
そこに至るまでの舞台裏を重視して取り扱ってきた『アイカツスターズ!』という作品が、
作品中で舞台裏の光景をステージに上げる様を描いて見せたということです。
ゆめが、お客さんにとっても興味深いものであろうと考え、舞台に上げた舞台裏の光景は、
そのまま『アイカツスターズ!』という作品が作品中という舞台に上げてきたものでした。
この意味で第二十五話は、ゆめが舞台裏を舞台上にと考える展開は、
『アイカツスターズ!』という作品の自己言及であったと見ることができるでしょう。

しかし、第二十五話で、舞台裏を舞台に上げたことについては、
その結果と同様にそれまでの過程も重要であったという気がします。
つまり、本番ぎりぎりで変更する必要が生じて、咄嗟に対応をする。
その過程こそが主題の一つであったのではないかと思うのです。

というのも、本番ぎりぎりに機材トラブルのために予定どおりにいかなくなるという状況は、
第十六話でローラが直面したものそのままなのです。
今回、幸花堂初出の第九話を想起させるような面々が久々に登場したことを合わせても、
そこを描きたかったのではないかという感があります。

つまり、第二十五話は、第十六話でローラが直面した、
本番ぎりぎりで機材トラブルに見舞われるという問題を、
あのときローラがローラのやり方で乗り越えたように、今度はゆめが乗り越える話で、
その意味で第十八話や第二十三話に連なる面があったのではないかと思います。

考えてみると、第十八話はローラが第十六話で直面した二つの仕事に同時に当たらなければならない状況、
第二十三話はローラが第七話で直面した個性の問題に、今度はゆめが直面する話でした。
このように二クール目は、ゆめが歌組一年二位として、ローラを追いかける面が色濃くあったと思います。

それを受けて第二十五話は、ローラが既に直面した最たる問題である、
ぎりぎりのところでの機材トラブルを持ってきたのではないかと思うのです。
映像を舞台上での実演に切り替えたことは、
その過程をこそ描くためでもあったのです。
ゆめが舞台裏を舞台上に持ち出したことと同様に、
実際にそれを舞台上に持ち出すまでの過程もテーマの一つであった。

だから、第二十五話では、ひめとローラが他の面々に比べて、
相対的に目立っていない気がしないでもないんですよね。
今回は、ゆめがかつてローラの直面した問題に当たり、
それをローラのように自分で乗り越えることに焦点を当てるために、
ゆめの最大の助言者である二人が物語本筋には絡まず、
自分の仕事に集中していた感があったような気がします。

結論として、第二十五話は、舞台裏の光景を舞台に上げるという際立った結果の裏に、
ゆめが困難を乗り越えてそれを舞台に上げるまでの過程があったのであり、
それもテーマの一つであったと読むことができます。
ローラと極めて似通った状況に置かれたゆめが、
自分でそれを乗り越えるでもあったということを改めて強調しておきたいと思います。


テーマ:アイカツ!
ジャンル:アニメ・コミック

第五巻から第七巻にかけての穂乃花の気持ちの変化 ――言い出せないのは今や身分違いだからでなく (原悠衣『きんいろモザイク』第七巻)

2016.10.30 15:48|きんいろモザイク
今回は、先日発売された『きんいろモザイク』第七巻について考察します。
この巻で、穂乃花がカレンに二人で写真を撮ることをなかなか言い出せない修学旅行の話は、
第五巻で、メアドをなかなか聞き出せない話を彷彿とさせるものですが、
その両話を比較すると、穂乃花の気持ちの変化が表されていることを見出せる気がします。
この記事では、この側面を明らかにしていきます。

まずは、第七巻と第五巻の類似性が見出せる場面を確認します。

「何だかタイミング逃すと どんどん言い辛くなるね」
「まだ撮れてないのぉ?」
「だって想像の中の私がヘンタイっぽくなっちゃうの!」
「何で!?」 (第七巻、82ページ)


――考えすぎかもしれないけど・・・
 いきなりメアド聞くなんて 何かナンパっぽくないかなー (第五巻、10ページ)


写真の話を持ちかける自分が「ヘンタイっぽく」なってしまうためにためらう点は、
メアドを聞く自分が「ナンパっぽく」なってしまうためにためらう点と重ねられ、
ここにおいては両話は類似的であったと言えます。

両話が決定的に違うのは、第七巻では、第五巻において見出せた、
「身分違い」ゆえに話を持ち掛けられないといった意識が見出せないということです。
第五巻では、SPに断られると想像する点に表れているように、
カレンを高嶺の花と捉えた上で、「遠くから見つめるのがお似合い」と考えます。

「どうしよー カレンちゃんが警戒モードだよ――
 しかもメッセージ入れ忘れちゃった」
「ドジだわ」
――やっぱり私なんて遠くから見つめるのがお似合いだよ… (第五巻、11ページ)


この意識が第七巻では見出せないんですよね。
とは言え、カレンを高嶺の花と捉えることを止めたかと言うとそうではなくて、
穂乃花の中でカレンが憧れるべき高貴なイメージであり続けていることは、
使っているシャンプーを聞くシーン等(第七巻、80ページ)に表れています。

つまり、第七巻の穂乃花は、カレンを憧れるべき存在として捉え続けながらも、
そこで自分は彼女と住む世界が違うと考えることがなくなっているんですよね。
似たような構成の話の第五巻のメアドの話との対比において、
この事実が極めて明確に浮かび上がってきています。

この第五巻から第七巻への穂乃花の決定的な変化、その最大のきっかけは、
言うまでもなく、第六巻の末尾の話に他なりません。
一緒に遊ぶことが、カレンにとっても「幸せ」であると知ったあの日、
穂乃花はカレンの隣に並ぶことを目指し始めたのです。

「私も忘れていることも覚えていてくれたなんて
 ありがたき幸せ…」
「HAHAHA」

「今日はホノカと一緒に遊べて とっても楽しかったデス!
 ありがたき 幸せ…」
「私の真似!?」

「カレンちゃん 今度この服着て また一緒にお買い物行こう…!」
「! もちろんデス!」(略)

「さあホノカ 一緒にお茶会しまショウ!」
――私もいつかカレンちゃんみたいになれるかな (第六巻、115~118ページ)


カレンがお姫様のような憧れの存在であるならば、
一般市民としてそこから遠ざかるのではなく、
もう一人のお姫様としてその隣に並ぶことを志向して、
「私もいつかカレンちゃんみたいになれるかな」と思うに至っているんですよね。
だから第七巻では、「身分違い」が問題にならないのです。

結論として、第七巻で穂乃花がカレンにツーショットを持ちかけるのをためらう話は、
第五巻で穂乃花がカレンにメアドを聞くのをためらう話と類似性を持ちますが、
その中で決定的な差異が際立っていると考えられます。
その決定的な差異とは、穂乃花が「遠くから見つめるのがお似合い」とは考えていない点です。
ここに、穂乃花のカレンに対する気持ちの明確な進展を見出せるのではないでしょうか。


テーマ:漫画の感想
ジャンル:アニメ・コミック

同じ課題に直面した私たちから ――「アイカツ」における教えることの連続性 (アイカツスターズ!第二十四話考察)

2016.10.16 17:30|アイカツ!
今回は、第二十四話について考えていきたいと思います。
第二十四話は、ゆめたちがゆめの家に赴き、
母親とぶつかってしまったレイナの背中を押す場面が印象的です。
第二十四話で、ゆめたちがレイナに本当のキモチを伝えること等を教える場面は、
四人がそのことを教える点につっこみを入れ得るところであると思います。
つまり、ゆめたちは劇場版で「本当のキモチで臨むこと」を学び、
真昼は第15話で「本当のキモチを伝えること」を学び、
あこは第17話等を通してゆめたちに対して「素直」になり始めたという中で、
彼女たちがレイナにそれを教えることは、つっこもうと思えばつっこめるところでしょう。
しかし私は、そういった彼女たちが教える点こそ、極めて「アイカツ」らしかったと思います。
教える側と教えられる側を分断された二項で捉えていないのです。 
 
すなわち、「自分がかつて教えられ、学んだこと」、あるいは、
「自分にとっても課題であること」を誰かに教えるということは、
『アイカツ!』から続く教え方の描き方であると思うのですよね。
特徴は、教える側と教えられる側を規定し、両者を分断しないことです 
 
「教える者/教えられる者」、「先達/後進」という、
分断の図式でもって語るのではなく、
「教える者→教えられる者」、「先達→後進」という連続性の図式でもって語るのが、
アイカツシリーズにおける教え方の特徴であるのではないでしょうか。
今誰かに教える私は、誰かに教えられた私であるということ。

何かを教えるということは、それにふさわしい単純な傑物がそうするというわけではなくて、
かつてそれを教えられた人、学んだ人こそがそうするものなのです。
そしてそのとき教えられた人が、更に誰かに教えていく。
そういう繋がりの「ライン」でもって「教える」ということが描かれてきました。
 
 『アイカツ!』で言えば、第八九話のユリカとちまきの話が想起されます。
そこでユリカは、自分がかつて先達から学んだことを、ちまきに教えるに至っています。
まさしくああいった、「受け継ぐ」ということと同義の「教える」なのです。

『アイカツスターズ!』で言えば、第三話のツバサや第十八話の有莉が想起されます。
誰かが誰かに教えるときに、その教える側が、
教えるところのことを学んだ経緯がきっちり描かれていきます。
その意味で、先輩から後輩へと続く学びの連続性なのです。
 
第二十四話においては、大(ゆめの父親)が、要旨、
お客さんを笑顔にするような仕事をするべきということをゆめたちに教えますが、
大自身はそれを、幼少期のゆめから学んでいます。
大もまた、かつて学んだ者として、ゆめたちに教えているのです。

それで、第二十四話で、ゆめとローラは劇場版での経験を踏まえて、
真昼は第十五話の経験を踏まえて、
レイナに教えているということは言わずもがなですが、
そこで、あこはどうなのかということが問題になると思います。
あこが「素直が一番」と教える意味は、何であったのでしょうか。

ここには、分かりやすいゆめたちの影に隠れて、
非常に多くの含意があったのではないかと思います。
まず、あこが「素直が一番」と教えるのは、
一方でローラのつっこみのとおり「それ、自分で言う?」というところなのですが、
他方でこれほどの適任はいないと考えられるのです。 
 
というのも、確かにあこはゆめたちに対しては「素直」になり切れてはおらず、
第二十四話でも一度ゆめの家に行くのを断ってから付いてくるという塩梅なのですが、
すばるに対してはどうしようもないくらいに「素直」であって、
第十七話においては、本番中に卵料理を送ったりしています。
 
だから、レイナが「大切な人に自分の作ったものを送る」という文脈において、
「素直が一番」と伝えるのは、あこにこそふさわしくもあると言えます。
第十七話で実際にそれを実践してしまっているあこだからこそ、
レイナのキモチに共感してそう教えることに説得力があるのです。
 
つまり、「素直が一番」ということは、
一方で「それをあこが言うのか?」ということでもあるのですが、
他方で「それはあこだから言える」ということでもあると言えます。
その意味においてあこは、他の三人と同様にレイナに教えるのにふさわしい存在なのです。
 
また、あこがレイナに教える場面についてもう一つ言及しておくべきなのは、
あこの「ここは、それでいいんですの」というあこの言葉です。
この何気ない一言には、あこの成長が見い出せると思います。
というのも、こういった「選択」こそ、これまであこができなかったことだからです。 
 
あこは、ステージや演技や料理のスペックがことごとく高いにもかかわらず、
「素直でいることの選択」が上手くできず、
第十六話で応援を突っぱねたり(素直に応援を求められない)、
第十七話で本番中にすばるに猛アタックしてしまったり(過剰に素直であり過ぎる)しています。9月24日

劇場版においても、すばるに対してアタックしようとして、
小春に今はダメと静止されています。
こういう姿を鑑みると、そのあこが、第二十四話で「ここは、それでいいんですの」と、
自分で適当な選択を成し得ている点は、彼女の課題解決への一歩に他ならなかったと思います。
 
結論として、つい先日そのことを学んだゆめたちが、
レイナに本当のキモチであることを教えることには、
かつて学んだ者が今誰かに教えるという「アイカツ」式の教え方の描き方が見出せます。
また、その中であこが「素直が一番」と教える点には、
彼女が少しは素直でいることを選択できるようになったことを見出せます。
四人がそれぞれレイナに教える側に立つことによって、
四人が既に学んだ者であることを強調し、
それによって四人の成長を表す第二十四話であったのではないでしょうか。


テーマ:アイカツ!
ジャンル:アニメ・コミック

青葉と緑が警察の現実を知りながらそれでも警察官を目指す理由 (森永みるく『学園ポリーチェ』)

2016.09.25 16:32|百合作品
今回は、二〇一四年に発売した森永みるくさん『学園ポリーチェ②』について考えます。
この作品は、いじめやわいせつ事件等、学校における事件を念頭に、
学校に内偵のため配置している特殊な警察官「ポリーチェ」として、
事件の解決に当たっていく青葉と緑を描いたものです。
この作品の最大の疑問はおそらく、警察が必ずしも正義ではないこと、
警察以外の正義もあることを強調しながら、
青葉と緑が最終的に警察官を選ぶのは何故かということでしょう。
その辺りが、まさしく「刑事ドラマ」的なのですが、疑問として残る点であると思います。

最後に青葉は、「正義の味方なら何でもいいんじゃなくて…「警察官」になりたいんだ」(153ページ)と、
言っているのですが、そう考えた肝心の瞬間がすっ飛ばされて、
いきなり警察学校での再開なので、どうしてそう考えたのかしらということが問題となるのです。

この疑問については、次の二つが答えとして提示できます。
第一に、青葉が言うように、「悪い奴に手錠かけられるのはやっぱ警察だけだから」(153ページ)です。
彼女たちの「正義」を履行するための「権限」が、警察官にはあるんですよね。

しかし、「組織の正義」を優先する警察という組織においては、
「権限」があっても十全に「正義」の名の下に動けなくなるかも知れません。

そこで第二の理由として、警察組織を前にしても、
自分たちが自分たちの「正義」に沿って動けることを確認できたことが挙げられます。


本庁直々に接触禁止命令があったにも係らず、
紅梨が言うように、二人は「目の前で犯罪が行われているのを黙って見て」いることなく、
制止することができました。
ここで二人は、「組織の正義」を前にしても自身の正義で行動できることを確認しています。

つまり、二人は第一に、自身の正義の履行に際してポリーチェでは「権限」が足りないと確信し、
第二に、「組織の正義」を前にしても挫けず自身の正義を掲げて行動できることを確認したために、
最終的に警察官を選んだと考えられます。

それで先の疑問に答えたとして、次に浮かぶのは、
それでは何故、紅梨のようにポリーチェの権限拡大の方に加わらなかったかという疑問です。
ポリーチェとして、彼女といっしょに行動する道を取るわけにはいかなかったのでしょうか。

これは、ポリーチェの権限拡大の動きの中でも、
ポリーチェが扱う事件の範囲については多分変わらないためです。
紅梨はポリーチェが「学生警察官」なのには不満を持っていません。
しかし、青葉の正義にはそれでは不十分なのです(第6話、第7話)。
だからこそ、権限を拡大されたポリーチェとしてではなく、
警察官として歩む道を選択したのではないでしょうか。

結論として、青葉と緑が警察官を選択するのは、
第一に彼女たちの正義の履行には警察の持つ「権限」が必要であったためで、
第二に警察が組織の正義を追及するとしても、
二人であればそれに拘束されずに、
自分たちの正義を追及できることを確認できたためです。
その上で、ポリーチェではなく警察官である理由は、
彼女たちの正義が「学生警察官」の領分を超えるものであり得るためと考えられます。


テーマ:漫画の感想
ジャンル:アニメ・コミック

能力の代償以上の問題点としてのゆめのキモチの取り違え ――劇場版の物語の先の物語へ (アイカツスターズ!第二十一話考察)

2016.09.19 14:50|アイカツ!
今回は、『アイカツスターズ!』第二十一話を考えていきたいと思います。
第二十一話においては、ゆめがローラに勝ちたいというキモチで進んで、
それゆえに普段以上の力が出せる能力に頼ってしまう様が描かれていました。
結果的にローラに勝利したゆめではありましたが、
その勝利は危ういものとして示されていたように思います。

この第二十一話の物語が相当憎い点は、
「勝ちたいキモチ」というサブタイトルに表れているように、
この話がゆめの「勝ちたい」という本当のキモチを描いたに他ならない点であると思います。
劇場版で正しい道として示された、
「自分の本当のキモチで臨む」ということに、
早くもある程度の疑義が付されているように見えます。

あの劇場版の物語をやっておいて、そことの繋がりを意識させながら、
自分の本当のキモチで進んで、今にも陥穽に落ちそうなゆめを描くことの強烈さがあります。
ゆめは本当のキモチでローラと対峙したのに、
何故それが誤りであるかのように描かれたのかという問いが叩き付けられるのです。

しかし、第二十一話は、一見上述のように「本当のキモチで臨むこと」を描いた、
劇場版に挑戦する話に見えるのですが、その実そのことを否定する話ではないと思います。

本当のキモチで進んだゆめがここまで危うく描かれているのは、
彼女が自分の本当のキモチを「取り違えている」からです。

つまり、「ローラに勝ちたい」というキモチは、
確かにゆめの本当のキモチに他ならないのですが、
それは、「あのときみたいなステージを」、「今だけでいいから」やってみせて、
それでもって勝ちたいということではなかったはずなのです。
ゆめもローラに、本当は実力で勝ちたかったはずです。

しかしゆめは、目前のCDデビューのかかったオーディションのために、
自分の「ローラに勝ちたい」というキモチの奥にあるはずの、
「ローラに実力で勝ちたい」ということを、
「ローラに今勝ちたい」ということと取り違えてしまったと考えられます。

そこにこそ第二十一話のゆめの危うさがあったのです。

特に重要なのは、第二十一話は、一見そう見えもするのだけど、
「本当のキモチ」よりも優先すべきことがあることを提示する物語ではないということです。
それはおそらく、学園長がゆめを妨害する論理なのですが、
キモチよりも身体が大事だからキモチを否定すべきということではない。

第二十一話は、自分のキモチを取り違えて、代償を伴う力の行使を選択するゆめを描き、
「本当のキモチ」の重要性を念頭に置いて、
「本当のキモチを取り違えないこと」を提示していくきっかけの話であったのだと思います。
仮に代償がなくとも、ゆめがそれを選択するのは誤りであったはずなのです。

だからこそ、今回のひめの「ゆめちゃんは、なんのために歌っているの?」という問いがあります。
一番の問題は、「ゆめの力に代償があること」ではなく、
ゆめが「自分の本当のキモチを取り違えていること」なのです。
綻びは、その結果でしかないと言えます。

そして、ここでこそ、第二十一話は劇場版と接続され、同時に劇場版に挑戦するのです。
すなわち、「本当のキモチで臨む」大切さをテーマとして引き継ぎつつ、
「本当のキモチを取り違え得る」ことを描いていく。
その意味で、劇場版の物語の先を描いたには他なりませんでした。
しかし、それは、劇場版を「本当のキモチ以上に大事なものがある」と否定する形ではなく、
「本当のキモチを取り違えることがある」と示していく形であったのです。



○関連記事

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 「ミラクル☆バトンタッチ」というサブタイトルの意味
   ――ゆめとローラのできることの向こうに (第十六話)
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