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同じ課題に直面した私たちから ――「アイカツ」における教えることの連続性 (アイカツスターズ!第二十四話考察)

2016.10.16 17:30|アイカツ!
今回は、第二十四話について考えていきたいと思います。
第二十四話は、ゆめたちがゆめの家に赴き、
母親とぶつかってしまったレイナの背中を押す場面が印象的です。
第二十四話で、ゆめたちがレイナに本当のキモチを伝えること等を教える場面は、
四人がそのことを教える点につっこみを入れ得るところであると思います。
つまり、ゆめたちは劇場版で「本当のキモチで臨むこと」を学び、
真昼は第15話で「本当のキモチを伝えること」を学び、
あこは第17話等を通してゆめたちに対して「素直」になり始めたという中で、
彼女たちがレイナにそれを教えることは、つっこもうと思えばつっこめるところでしょう。
しかし私は、そういった彼女たちが教える点こそ、極めて「アイカツ」らしかったと思います。
教える側と教えられる側を分断された二項で捉えていないのです。 
 
すなわち、「自分がかつて教えられ、学んだこと」、あるいは、
「自分にとっても課題であること」を誰かに教えるということは、
『アイカツ!』から続く教え方の描き方であると思うのですよね。
特徴は、教える側と教えられる側を規定し、両者を分断しないことです 
 
「教える者/教えられる者」、「先達/後進」という、
分断の図式でもって語るのではなく、
「教える者→教えられる者」、「先達→後進」という連続性の図式でもって語るのが、
アイカツシリーズにおける教え方の特徴であるのではないでしょうか。
今誰かに教える私は、誰かに教えられた私であるということ。

何かを教えるということは、それにふさわしい単純な傑物がそうするというわけではなくて、
かつてそれを教えられた人、学んだ人こそがそうするものなのです。
そしてそのとき教えられた人が、更に誰かに教えていく。
そういう繋がりの「ライン」でもって「教える」ということが描かれてきました。
 
 『アイカツ!』で言えば、第八九話のユリカとちまきの話が想起されます。
そこでユリカは、自分がかつて先達から学んだことを、ちまきに教えるに至っています。
まさしくああいった、「受け継ぐ」ということと同義の「教える」なのです。

『アイカツスターズ!』で言えば、第三話のツバサや第十八話の有莉が想起されます。
誰かが誰かに教えるときに、その教える側が、
教えるところのことを学んだ経緯がきっちり描かれていきます。
その意味で、先輩から後輩へと続く学びの連続性なのです。
 
第二十四話においては、大(ゆめの父親)が、要旨、
お客さんを笑顔にするような仕事をするべきということをゆめたちに教えますが、
大自身はそれを、幼少期のゆめから学んでいます。
大もまた、かつて学んだ者として、ゆめたちに教えているのです。

それで、第二十四話で、ゆめとローラは劇場版での経験を踏まえて、
真昼は第十五話の経験を踏まえて、
レイナに教えているということは言わずもがなですが、
そこで、あこはどうなのかということが問題になると思います。
あこが「素直が一番」と教える意味は、何であったのでしょうか。

ここには、分かりやすいゆめたちの影に隠れて、
非常に多くの含意があったのではないかと思います。
まず、あこが「素直が一番」と教えるのは、
一方でローラのつっこみのとおり「それ、自分で言う?」というところなのですが、
他方でこれほどの適任はいないと考えられるのです。 
 
というのも、確かにあこはゆめたちに対しては「素直」になり切れてはおらず、
第二十四話でも一度ゆめの家に行くのを断ってから付いてくるという塩梅なのですが、
すばるに対してはどうしようもないくらいに「素直」であって、
第十七話においては、本番中に卵料理を送ったりしています。
 
だから、レイナが「大切な人に自分の作ったものを送る」という文脈において、
「素直が一番」と伝えるのは、あこにこそふさわしくもあると言えます。
第十七話で実際にそれを実践してしまっているあこだからこそ、
レイナのキモチに共感してそう教えることに説得力があるのです。
 
つまり、「素直が一番」ということは、
一方で「それをあこが言うのか?」ということでもあるのですが、
他方で「それはあこだから言える」ということでもあると言えます。
その意味においてあこは、他の三人と同様にレイナに教えるのにふさわしい存在なのです。
 
また、あこがレイナに教える場面についてもう一つ言及しておくべきなのは、
あこの「ここは、それでいいんですの」というあこの言葉です。
この何気ない一言には、あこの成長が見い出せると思います。
というのも、こういった「選択」こそ、これまであこができなかったことだからです。 
 
あこは、ステージや演技や料理のスペックがことごとく高いにもかかわらず、
「素直でいることの選択」が上手くできず、
第十六話で応援を突っぱねたり(素直に応援を求められない)、
第十七話で本番中にすばるに猛アタックしてしまったり(過剰に素直であり過ぎる)しています。9月24日

劇場版においても、すばるに対してアタックしようとして、
小春に今はダメと静止されています。
こういう姿を鑑みると、そのあこが、第二十四話で「ここは、それでいいんですの」と、
自分で適当な選択を成し得ている点は、彼女の課題解決への一歩に他ならなかったと思います。
 
結論として、つい先日そのことを学んだゆめたちが、
レイナに本当のキモチであることを教えることには、
かつて学んだ者が今誰かに教えるという「アイカツ」式の教え方の描き方が見出せます。
また、その中であこが「素直が一番」と教える点には、
彼女が少しは素直でいることを選択できるようになったことを見出せます。
四人がそれぞれレイナに教える側に立つことによって、
四人が既に学んだ者であることを強調し、
それによって四人の成長を表す第二十四話であったのではないでしょうか。


テーマ:アイカツ!
ジャンル:アニメ・コミック

能力の代償以上の問題点としてのゆめのキモチの取り違え ――劇場版の物語の先の物語へ (アイカツスターズ!第二十一話考察)

2016.09.19 14:50|アイカツ!
今回は、『アイカツスターズ!』第二十一話を考えていきたいと思います。
第二十一話においては、ゆめがローラに勝ちたいというキモチで進んで、
それゆえに普段以上の力が出せる能力に頼ってしまう様が描かれていました。
結果的にローラに勝利したゆめではありましたが、
その勝利は危ういものとして示されていたように思います。

この第二十一話の物語が相当憎い点は、
「勝ちたいキモチ」というサブタイトルに表れているように、
この話がゆめの「勝ちたい」という本当のキモチを描いたに他ならない点であると思います。
劇場版で正しい道として示された、
「自分の本当のキモチで臨む」ということに、
早くもある程度の疑義が付されているように見えます。

あの劇場版の物語をやっておいて、そことの繋がりを意識させながら、
自分の本当のキモチで進んで、今にも陥穽に落ちそうなゆめを描くことの強烈さがあります。
ゆめは本当のキモチでローラと対峙したのに、
何故それが誤りであるかのように描かれたのかという問いが叩き付けられるのです。

しかし、第二十一話は、一見上述のように「本当のキモチで臨むこと」を描いた、
劇場版に挑戦する話に見えるのですが、その実そのことを否定する話ではないと思います。

本当のキモチで進んだゆめがここまで危うく描かれているのは、
彼女が自分の本当のキモチを「取り違えている」からです。

つまり、「ローラに勝ちたい」というキモチは、
確かにゆめの本当のキモチに他ならないのですが、
それは、「あのときみたいなステージを」、「今だけでいいから」やってみせて、
それでもって勝ちたいということではなかったはずなのです。
ゆめもローラに、本当は実力で勝ちたかったはずです。

しかしゆめは、目前のCDデビューのかかったオーディションのために、
自分の「ローラに勝ちたい」というキモチの奥にあるはずの、
「ローラに実力で勝ちたい」ということを、
「ローラに今勝ちたい」ということと取り違えてしまったと考えられます。

そこにこそ第二十一話のゆめの危うさがあったのです。

特に重要なのは、第二十一話は、一見そう見えもするのだけど、
「本当のキモチ」よりも優先すべきことがあることを提示する物語ではないということです。
それはおそらく、学園長がゆめを妨害する論理なのですが、
キモチよりも身体が大事だからキモチを否定すべきということではない。

第二十一話は、自分のキモチを取り違えて、代償を伴う力の行使を選択するゆめを描き、
「本当のキモチ」の重要性を念頭に置いて、
「本当のキモチを取り違えないこと」を提示していくきっかけの話であったのだと思います。
仮に代償がなくとも、ゆめがそれを選択するのは誤りであったはずなのです。

だからこそ、今回のひめの「ゆめちゃんは、なんのために歌っているの?」という問いがあります。
一番の問題は、「ゆめの力に代償があること」ではなく、
ゆめが「自分の本当のキモチを取り違えていること」なのです。
綻びは、その結果でしかないと言えます。

そして、ここでこそ、第二十一話は劇場版と接続され、同時に劇場版に挑戦するのです。
すなわち、「本当のキモチで臨む」大切さをテーマとして引き継ぎつつ、
「本当のキモチを取り違え得る」ことを描いていく。
その意味で、劇場版の物語の先を描いたには他なりませんでした。
しかし、それは、劇場版を「本当のキモチ以上に大事なものがある」と否定する形ではなく、
「本当のキモチを取り違えることがある」と示していく形であったのです。



○関連記事

 天才と凡人の狭間に位置する主人公としてのゆめ (第二話)
 役者としてのツバサと先輩としてのツバサ (第三話)
 ロックでの成功譚が一般化されていたことの意味 (第六話)
 みんなを気遣うひめとひめを気遣うツバサたち (第十一話)
 リトルフェアリー物語においてゆめが散在する物語と邂逅する意味 (第十三話)
 自ら立ち込める雲を晴らした真昼と夜空――七夕の物語を超えて (第十五話)
 「ミラクル☆バトンタッチ」というサブタイトルの意味
   ――ゆめとローラのできることの向こうに (第十六話)
 演技ができるからこそのあこの問題
   ――すばるのファンからアイドルに転換する過程において (第十七話)


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「ミラクル☆バトンタッチ」というサブタイトルの意味 ――ゆめとローラのできることの向こうに (アイカツスターズ!第十六話考察)

2016.09.11 14:53|アイカツ!
今回は、『アイカツスターズ!』第十六話「ミラクル☆バトンタッチ」を考えます。
劇場版でゆめとローラの関係性が掘り下げられ、
第二十一話でその先を描き始めようとしている今だからこそ、
この話を考えていくことは意味があることであると思います。

第十六話において気になるのは、サブタイトルで、
何故二人の「バトンタッチ」「ミラクル」なものとして表現されたのかということです。
バトンタッチが生じた要因自体は、
「ミラクル」という言葉で飾るにふさわしいということはない、
偶然の事故の積み重ねでした。
もちろん、「ミラクル」という語がローラのCMとかけて使われていることは疑いがないことですが、
それを「バトンタッチ」の修飾語として使った意味は何なのかということです。
少なくともローラを襲った不幸な偶然は、バトンタッチをミラクルなものとして呼ぶ理由足り得ません。

それならば、バトンタッチの後、ゆめがステージを成功させたことを踏まえて、
「ミラクル」バトンタッチと呼んだのでしょうか。
おそらく半分はそのとおりでしょう。
しかし、ゆめのステージのみを指すなら、
「ミラクル」は、バトンタッチよりステージにかけられるべきです。

まさしくこの点、ミラクルであったのはゆめのステージというより、
ゆめとローラのバトンタッチであったとされている点こそ、
この話のテーマに繋がる重要な部分であると思います。
ステージを成功させたゆめだけでなく、
託したローラもその「ミラクル」という言葉の範疇に収めているのです。

けだし、あのバトンタッチとステージは、
これまでそれぞれの固有の活動を行ってきた、
他ならぬゆめとローラだからこそできたということが肝要なのだと思います。

まずゆめは、一位であるローラの代理というプレッシャーの大きい役割でありながら、
心理的にそこはほとんど問題になりませんでした。
それは何故でしょうか。

それはもちろん、一つにはローラの気持ちに答えたいという気持ちがあったからで、
二人の繋がりあってこそでもあったでしょうが、それだけではないでしょう。
ゆめは、第十話で既にひめの代理をやりきっていて、
その問題を乗り越えているからこそ、そこがほぼ問題にならなったのです。

次にローラは、何故ゆめへとバトンタッチができたのかと言えば、
それはローラが頑張ってきたゆめを誰より知っていて、
ゆめとの繋がりがあったからなのですが、
それ以前にローラだからできたことがもう一つあります。
それは、CMの撮影を最後までやりきることです。

ローラはライブの時間が迫り、CM撮影は後日にすることを勧められながらも、
それも自分のアイカツに他ならないからとして、撮影の続行を選択しました。
これは、他の一年生に先んじて、企業のオーディションに受かり、
学校以外の活動場所を獲得していたローラだからこそであったと思います。

つまり、普通だったら、極めて重大なライブの機会を前に、
諦めずに両方やりとげようという選択をすることは難しかったのではないかと思います。
現にゆめは、このときローラが乗り越えていた問題に、後になって直面しました。

それが第十八話の幹部である有莉の仕事を手伝う話でした。
そこでゆめは、有莉の仕事を手伝っていて、
投票のための活動ができず、順位が芳しくなかったことについて悩みます。
そして、そこで有莉から助言を受けて初めて、両方のアイカツを頑張るという答えに至ったのです。

このときゆめが直面した問題は、第十六話でローラが直面した問題に他なりませんでした。
しかし、ローラは、この問題を自力ですんなり乗り越えてしまいます。
これができたのは、ローラが企業のオーディションに受かって、
既に「たくさんのアイカツ」を持つことを経験していたからだと思います。

これらを鑑みると、二人のバトンタッチは、
あの時点でいずれの仕事もやり遂げようとすることができたローラと、
誰かの代打に立つということの重さを乗り越えていたゆめだからこそできた、
バトンタッチであったと言えると思います。
この側面を表しての「ミラクル」なのではないでしょうか。

すなわち、バトンタッチの前提としてのローラの決断と、
バトンタッチの結果としてのゆめの奮闘、そして二人の友情の全てを合わせての、
「ミラクル☆バトンタッチ」なのではないでしょうか。
それは確かに、ゆめとローラだからこそできることの向こうに側にあった、
一つの奇跡としてのバトンタッチであったのです。


テーマ:アイカツ!
ジャンル:アニメ・コミック

演技ができるからこそのあこの問題 ――すばるのファンからアイドルに転換する過程において

2016.08.21 16:32|アイカツ!
今回は、第十六話、第十七話にかけてのあこに注目してみたいと思います。
第十七話では、あこに焦点が当てられて、彼女のすばるへの想いと、
アイドルとして一歩前進する様が描かれていました。
この記事では、そこで描かれたあこの直面した問題が、
どのようなものであったのかを改めて考えていきたいと思います。
あこは、すばるへの想いが先行するあまり、アイドルとして振る舞うことができませんでした。
この問題の奥にあったものは何であるのか、第十六話との連続性の間に考えていきます。
もしよろしければお付き合いください。

ここ二話のあこに注目してみると、彼女の課題の一つとして、
「演技が上手いこと」が逆にあったのかも知れないと思います。
演技が上手いということは、自分が在ろうとするもののように在れるというわけで、
その選択可能性が強みにもなれば弱みにもなります。
つまり、自分が在ろうとするもののように在れる中で、
その場にあった、適切なものを選択できれば強みになるのですが、
その場にあった、適切なものを選択できなければ弱みになってしまうと考えられるのです。
ここ二話のあこは、そういう「何を選ぶか」という問題に直面していました。

ドラマ等の役が与えられる仕事においては、その場にあった、
適切なものが既に規定されており、
そこから外れることが原則としてあり得ないために、
この選択の問題は顕在化しません。
演技が上手ければいい。
しかし、自分のある程度の自由が利く場合においては、問題となるのです。

ここ二話のあこの仕事は、
まさしくその演者側のある程度の自由が利く場合に該当していました。
第十六話では、ステージ前の劇組パフォーマンスについて、
ツバサと打ち合せをして決められたでしょうし、
第十七話では、台本ががちがちで決まっておらず、
出演者の側の裁量がある程度認められていました。

そして、あこは、そういう連続した自由な状況下において、
いずれも適切な選択をできなかったのではないかと思うのです。
第十七話は、言うまでもなく、M4と同じ舞台に立つ「アイドル」であるべきところ、
「すばるのファン」であってしまいました。

しかし、特筆すべきは、あこがかなたの指摘とゆめの努力を受けて、
最終的に気持ちを入れ替えたときに、彼女が極めて円滑に、
ファンからアイドルへとスイッチを成し遂げたということです。
演技の範疇からやや外れているとは言え、
この部分は、演技が上手いあこだからこそであったとも考えられます。

つまり、あこは、アイドルであろうとすればそうあれるのに、
それを選択できないことが問題であったのであって、元々の技術は高いにも関わらず、
その技術を生かせないというところが取り上げられているのです。
そして、それが直接的な演技の領域でも顕在化したのが第十六話です。

というのも、第十六話であこが演じたとされる、おどおどしている一年生の役は、
彼女の演技が秀逸であればあるほど、
そういった一年生であると本気で受け取られることとなるので、
決して良い評価を勝ち取りえないものではないかと思うのです。
そこが劇組が四位であった一因であったような気もします。

「アイドルとしての意識」と一口に言っても、それには色々な側面があると思いますが、
あこにやや欠けていたのは、そういう「ファンに対する想い」なのかもしれません。
第十五話で、あこは生徒たちに「応援は不要」と突っぱねました。
そこには、この想いが欠けていたことを見出せるかも知れません。
もしファンを想うことができれば、ファンがアイドルに求める、
その場にあったものを演じられたとも考えられます。
すばるを見る者からファンに見られる者への転換において、
こういった問題が明らかになっていたのではあいでしょうか。


テーマ:アイカツ!
ジャンル:アニメ・コミック

自ら立ち込める雲を晴らした真昼と夜空――七夕の物語を超えて (アイカツスターズ!第十五話考察)

2016.08.07 16:23|アイカツ!
今回は、『アイカツスターズ!』第十五話の物語について考えてみたいと思います。
真昼と夜空が和解に至り、ステージで成功するまでを描いた本話。
真昼の本心は、夜空と夜中に出会う場面においてようやく直接的に示されましたが、
その実前半の二人の打合せの場面において、既に仄めかされていたと思います。

というのも、第十五話前半で、夜空が打合せのために真昼のところに来ていた場面で、
夜空の話に真昼がにべもなく返答していたところ、夜空が仕事で立ち去ろうとした途端、
真昼から「ちょっと待って!」と呼びかけた点には、
真昼の本心がよく仄めかされていたのではないでしょうか。

つまり、真昼は夜空ににべもなく答えていたのですが、
夜空が仕事で立ち去ろうとしたときには、かつて置いてかれたときのことを念頭に、
半ば無意識的に「ちょっと待って!」と呼びかけたと推量できます。
そこには、既に「見返したい」という心情以上のものが表れていました。

本当に真昼が夜空の仕事を見学したいと予め思っていたなら、
対抗心という建前の下にもっと前に示せたはずなのです。
立ち去る直前である必要性がない。
だとすれば、あの「ちょっと待って!」は、実力を確認するという建前の裏に、
咄嗟の真昼の本心を持つものであったと読めます。

また、第十四話のステージ前で、真昼がステージに駆けていく直前、
扉の前に立っている場面で、真昼が扉の正面に立たずに、
左側を開けて右側に立っている部分があります。
そこにも、もう片側に夜空に立って欲しいという本心が見出だせるかも知れません。
第十五話においては、これと対照的に、
真昼が扉の前で夜空と一緒にポーズを決めています。

第十五話は、このように一つ一つの場面に着目しても面白いのですが、
この記事では特に、第十四話から第十五話への連続した流れの中で、
二人の和解までの物語が「七夕の物語」に重ねられていたことを指摘したいと思います。
第十四話から二話にわたって続いた夜空と真昼の物語は、季節と合わせて、
七夕の彦星と織姫の物語と重ねて描かれたものであったと思います。
離れていた二人が、一緒にステージに立つまでの物語。
その中で、二人の行動によって「雲が晴れていく」表現は決定的な意味を持ちます。

つまり、第十四話では冒頭の真昼の登場とともに、
曇り空に日が差し込んでいく表現があって、
第十五話では中盤のひめが夜空の背中を押す場面で、
月にかかっていた雲が次第に晴れていく表現があり、両話間で対照的になっていました。
「雲が晴れていく」という表現は、事態が好転することを示すものとして、
一般的によく使われるものですが、第十四話と第十五話においては、
そればかりの意味を持つものでなく、七夕の物語であることを踏まえて使われていたと思います。

すなわち、七夕の物語の中で彦星と織姫は、
主に、雨が降ると七夕の日にすら会えなくなるとされているのであり、
真昼と夜空がそれぞれ「雲を晴らす」のは、お互いがお互いに会うために、
つまり第十五話での月下における邂逅のために、
道を自ら切り開いていることを象徴していると考えられるのです。

彦星と織姫は、客体的に天気という運命を享受するほかないのですが、
夜空と真昼は、自分の行動によって道を切り開いて、
本当の意味での再会を果たすという点で、
七夕の物語に重ねられながら、それを超えています。
二話にわたる雲が晴れていく表現は、このことを示していたのではないでしょうか。
それぞれ具体的に考えてみましょう。

第一に、第十四話冒頭の「雲が晴れる」描写により象徴される、真昼からのアプローチです。
真昼は、夜空と離れてしまった後、また会えるよう笹に願い事を吊るすだけでなく、
自ら打倒夜空を掲げて学園入学を果たし、実際に夜空とのステージにまでやって来ました。
オープニングで歌われているように、
夢は見るものでなく叶えるものとして、自ら道を切り開いてやって来たのです。。

第二に、第十五話の「雲が晴れる」描写により象徴される、夜空からのアプローチです。
夜空は、そうして自分に会いに来てくれた真昼に対して、今度は自分から会いに行って、
自分がS4以前に真昼の姉であることを伝えるのです。
こうして相互に道を切り開いて会いに行く構図が表されています。

第十五話で会う場所が真昼の部屋でなく中庭なのは、
第十五話単体で見れば、夜空から真昼に会いに行っているのですが、
更に大きく見れば、お互いにお互いへと会いに行っているに他ならないので、
夜空が会いに行った印象が強くなるだろう真昼の部屋を避けたのだろうと思います。

結論として、第十四話から第十五話にかけて描かれた、
真昼と夜空の和解までの物語は、七夕の物語と重ねられたものと考えられます。
しかし、七夕の物語と重ねられながら、二人は彦星と織姫を超えて、
それぞれ自ら道を切り開いて、あの月下の和解の場面に行き着いたのです。
二つの雲が晴れていく描写は、このことをこそ示していたと思います。

最後に、この二人の和解の物語の結論として、
第十五話の末尾に掲げられたお絵かきコーデの二人の絵に触れておきましょう。
第十五話のステージ上では、二人は対照的な「白」と「赤」のドレスで、
そこには、真昼の「打倒おねえちゃん」のスタンスを維持したことを見出せるのですが、
他方で真昼は、未完成の絵を「ピンク」を基調にしたドレスに塗っていたんですよね。

この「ピンク」のドレスの意味には、幅広い解釈の可能性を感じますが、
個人的には、対照的な「白」と「赤」のドレスの二人が、一つステージに立つことを踏まえて、
その中間である「ピンク」で塗ったのではないかと思料します。
夜空だけでなく真昼だけでもない、二人の作品である象徴としての、ピンク色であったのです。


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