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「コブリアワセ」からの飛翔 (宇河弘樹『二輪乃花』)

2013.02.08 17:23|百合作品
二輪乃花 (まんがタイムKRコミックス つぼみシリーズ)二輪乃花 (まんがタイムKRコミックス つぼみシリーズ)
(2012/09/12)
宇河 弘樹

商品詳細を見る


今回は、久しぶりに百合漫画を大真面目に考察してみました。
宇河弘樹さんの、『二輪乃花』に収録されている「コブリアワセ」についてです。
エリとミヤコの特殊な関係について考えていきます。

諸事情により、いつもとは異なり論文調で長いですが、よろしければお付き合い下さい。

それでは、追記からお願いいたします。



(1)問題提起

 「コブリアワセ」を、ミヤコがエリの母親になるまでを描いた物語と言い表したとき、それに反対する読者は少数であろうと思う。「コブリアワセ」というタイトル、ミヤコがエリの父親の後妻になることが決定するという物語の幕開け、そして後編の最後のエリの言葉が、多くの人にそう解釈させるのである。最後の言葉とはすなわち、以下の科白を指す。

「わたし 「お母さん」の顔を見るとお腹が空いてくるのよ。」(六三)


 これはエリがミヤコを新しい母として受け入れたことを示す、象徴的な言葉と言える。彼女の仏頂面がこの直前の告白を契機に溶けていく中、決定的な受容の現れとして、この言葉は提示される。母としてミヤコを認めるということは、土地の旧習であるコブリアワセを受け入れるということであるから、この瞬間エリは精神的にもこの土地に入ったと言える。その意味でも、彼女は物語の結論として「この家の子になった」(三九)のである。「後編」までを読み終えて、私はそう結論付けた。
 しかし、そう解釈し終えて一息つく暇もなく、私は描き下ろしが自分を別のところへ導くということに気付くことになる。すなわち、「後日談」においては、物語の結論として提出されたはずの「新しい母になった」というところから、ミヤコは明らかに跳躍して見せるのである。

「あとね… 普通のお母さんじゃ教えてあげられないことだって 私 教えてあげられるのよ。」(七〇)


 何を教えたのかはともかく、ここでミヤコは「普通のお母さん」を超えている。新しい母と娘という関係を超えて、端的に言えば、一気に百合らしくなる。「コブリアワセ」という物語において、この跳躍は異様なものに思える。というのも、この跳躍を含む展開はタイトルである「コブリアワセ」という陋習とはほとんど関係がない。換言すれば、コブリアワセは二人がこうした関係に至ることを想定してはいないのである。
 確かに、ミヤコの言う「普通のお母さん」ではないということは、コブリアワセによって母親になったという形式的な特殊性のことを含むのであろう。しかし、コブリアワセという習慣から必然的に、このときのミヤコの「教え」に繋がるとは考えにくい。コブリアワセが想定しているのは、あくまで前妻の妹などが「前妻の後を継ぐ者」になることである(七)。未亡人が独りであり続けるという不便な異常を解消するために、コブリアワセは存在する。だとしたら、跡継ぎに求められるのはそれこそ後埋めであり、換言すれば、前妻のような「普通のお母さん」になることではないだろうか。つまり、コブリアワセが形式的に「普通のお母さん」でない者を生むとしても、それがミヤコの「教え」までも想定しているとは考えられない。
 そのため後編までは、コブリアワセの想定したように、ミヤコが母としてエリに認められるまでを描いているとも読めるのだけれど、後日談においては、ミヤコとエリは習慣の想定を超える関係に至っていると取れる。この意味で、後日談の展開はコブリアワセという陋習に関係がないのである。それにもかかわらず、この物語は「親子関係を受容する」ところで終わらずに、「親子関係を超える」ところで終わっている。結局二人の関係がどのようなものに至ったのか、ここで混乱が生じることになる。親子なのか、そうではないのか。どちらにせよ、その内容はどのようなものなのか。
 ゆえに私は今回、二人の関係を洗い直していこうと思う。ミヤコが「普通のお母さん」でないとするのならば、少なくとも二人は「普通の親子」に至ったのではない。二人が「特殊な親子」になったのだとしたら、それはどのように特殊なのだろうか。この研究ではそのことを中心に明らかにしていく。そのためにまず、エリとミヤコ双方から見て、お互いがどのような意味を持つ存在であったのかを考える。その後で二人の関係を考えてみようと思う。


(2)エリにとってのミヤコ

 第一に、エリにとってミヤコがどのような存在であったのかを作中の表現から明らかにしていく。言うまでもなく、当初エリはミヤコに対して良い感情を抱いていない。その理由は、彼女が猫を家に繋ぎ止めていることへの、自責から来る嫌悪感に見えなくもない(二〇~二二)が、最大の理由はミヤコがコブリアワセという「おかしい」(五八)旧弊に不平も言わず従っているためであろう。以下の場面はそのことを示している。

「…わたしと同じくらいの年よね ミヤコさん。」
「そうね エリちゃんと同い年よ。」
「本気なの? お父さんの再婚相手って。」
「ええ。両親や親戚の皆が勧めてくださったから。あなたのお父さんのことは昔から存じ上げていたし エリちゃんのことも姉から――」
「…じゃあ 親や親戚の言われるまま この先 死ぬまでこの家の中で生きていくの?」(三九~四〇)


 ここでエリは、親族の勧めにあまりにも素直に従うミヤコに苛立っている。彼女が苛立つのは、そのミヤコの従属が母親とエリの家猫を思い出させるからである。家への従属は、一方で身内の求めに従うという意味を持ち、他方で家に繋がれるという意味を持つ。そして前者がエリの母親に、後者がエリの家猫に繋がる。このことをもう少し具体的に論じることにする。
 まず、身内の求めに従うということは、まさしくエリの母親が死んだ原因である。「空襲の日 母はわたしの我が侭を聞いて猫を捜しに戻りました。わたしは取り残された猫が心配で必死で母にせがんだのです。」(九)という独白には、娘である自分の求めに従ったからこそ、母親は死んだという罪の意識が現れている。親族の求めに従いコブリアワセという理不尽を受容したミヤコに、エリは自分のために死んだ母親に近いイメージを感じ取ったのではないだろうか。「死んだ母の妹だというその女の人は――息がとまるほどに母の面影を残していました。」(八)という導入に、母親とミヤコの外見上の類似を見出すことができるが、同時に「身内に従ってしまう」という内面上の従順さにも、母親とミヤコの類似を見出すことができるのである。このミヤコに付きまとう母親のイメージがエリを苛立たせたと考えられる。
 次に、家に繋がれているということは、事実上エリによって閉じ込められていた結果、逃げ果せることができなかった彼女の家猫を想起させる。この側面に関しては、「この子。ミヤコさんに似ているのね。」(四二)というエリの科白に明らかに現れている。ここから、自分が家から出さなかった家猫に似た、目の不自由なポン子と、家に繋がれているミヤコが重ね合わされて語られていることが分かる。エリは金太の「白い幽霊」(三)の話から、ミヤコが日中は滅多に家から出ないということに薄々勘付いていたのかも知れない。ミヤコは母親を想起させると同時に、かつて家に繋いで飼っていた家猫をも想起させる存在なのである。
 そのため、エリのミヤコへの静かな反抗は、二重の八つ当たりであったと捉えられる。すなわち、最終的には自分の要請に従って死んでしまった母親と、ずっと閉じ込められていた結果、逃げられなかった家猫への、完全に感情的な抗議である。どうしてあの時、私の言葉など冷やかに無視をして、一緒に逃げて生きてくれなかったのか。どうしてあの頃、私の顔を引っ掻くでもして、自由を熱望してくれなかったのか。想像ではあるが、その類の「我が侭」(五一)な想いが、ミヤコに向けられた感情の正体であったと考えられる。「生意気を言うけれど…ミヤコさんはこんな家から出た方がいいと思うわ。」(四二)という言葉は、死んだ母親と家猫にも向けられていたはずである。母親と家猫のイメージを宿したミヤコを媒体として、エリは過去の自身の罪を見ている。
 だからこそ、ミヤコはエリにとって「許し手」と成り得る。どこか母親のようでもあり、家猫のようでもあるミヤコだけが、エリのことを許すことができたのである。ミヤコは、自分の体質を明かした上で次のように続ける。

「昼間出れないなんて 幽霊、みたいでしょう? でもね 生まれてからずうっとこの家で両親や親戚に守られてきたんですもの。私が皆の為に出来る事があるのなら嬉しいわ」

――私は外では生きられない。その代わりね この家の事なら何でも知ってるわよ。三和土の濡れる匂い 冬に回り廊下が歌う音 三段目が少しずれてちょっぴり怖い一間階段 へそ曲がりのボンボン時計 お婆様がくださった椿の夫婦茶碗に ぴかぴかの漆塗りのお箸

「古いけれど悪くない処よ 電灯代が余計に掛かるのが一寸大変だけれどね。もしエリちゃんも気に入ってくれたら私も嬉しい。ポン子も歓迎するわ。」(四五)


 親族に従い、かつ家に半ば閉じ込められることを余儀なくされているミヤコが、自分の今の幸福を語るのである。ここにエリの救済がある。エリは、鎖を解いたにもかかわらず、ミヤコの腕の中へと戻っていくポン子のように(四二~四六)、ミヤコにもそこにいるだけの理由があることを知るのである。従わせ、閉じ込めてしまったという罪悪感を持つエリにとって、このことほど、彼女の心を軽くするものはない。「いいのよ。もう苦しまなくたって。エリちゃんの事は私が全部許して全部守ってあげる」(五三)とミヤコが述べるとき、エリは疑似的に母親と家猫に許されたのである。許すだけの理由を持ち、かつエリが潜在的に許して欲しいと望む相手の面影を有しているという点で、ミヤコが許す資格を持っているからこそ、実の母親にも成し得なかったであろう「許し」をもたらすことに成功することになる。告白と許しを経て、エリの表情は目に見えて明るくなる。
 よって、エリにとってミヤコとは、母親と家猫の面影を宿した「許し手」であると言える。そして、許された後には、ミヤコが「お母さん」になることを認めている。「わたし「お母さん」の顔を見るとお腹が空いてくるのよ」(六三)という言葉に、母としてのミヤコを、エリが受容したことを見出すことができる。
 しかし、注意すべきなのは、エリがミヤコとの関係について、ある程度は保留しているということである。

「…でも 私なんかじゃ嫌かしら?」
「そうじゃないけど… 分からない、こんなこと。やっぱり…やっぱりおかしいもの。」
「そうかしら? だって私はエリちゃんが大好きよ。私の子供にはエリちゃんが欲しいわ。ねえそれじゃ駄目?」
「わ…分からないわよ 分からない… …だから この家のことポン子のことミヤコさんのこと 知らないことを沢山聞きたい。そうしたら多分――」(五八~五九)


 この保留の後に、エリは暫定的に母と子の関係を受け入れたと考えることができる。保留の理由は、コブリアワセという習慣が彼女にとってまだ「おかしい」ことと、彼女がミヤコたちについてよく知らないことである。ここに、暫定的な親子関係から進んで、深化させていくことを可能とする余白がある。特に、コブリアワセを「おかしい」と思うエリの意識は重要である。そのことがエリはコブリアワセの想定に従い、ミヤコと親子になったわけではなく、ミヤコが「大好き」と言ってくれたことに対して、暫定的に親子になったことを示している。この意識があるからこそ、余白にコブリアワセの想定以上のものが来たとしても、エリはそれを受容し得る。ミヤコたちをより知った結果、そこに来るのがコブリアワセの望む一般的な親子関係でないと分かれば、新しい関係が入れ替わり得るのである。
 そしてこの余白に、後日談で示されるような関係が敷き詰められることになる。しかし、彼女は専らその関係を受け入れる側であるために、その内容は、彼女の側からのアプローチでは窺い知ることはできない。エリにとってのミヤコを考えて分かるのは、エリにとってミヤコが代替できない「許し手」であったということと、エリがミヤコと親子以上の関係になる、あるいは「特殊な親子」になる余白を残していたということだけである。二人が最終的にどのような関係に至ったかを知るためには、ミヤコにとってのエリを考える必要がある。


(3)ミヤコにとってのエリ

 第二に、ミヤコにとってのエリを考えていく。ミヤコはエリに対して、一貫して母になろうとしている。その理由で何よりも大きいのは、「エリちゃんが好き」(二四)だったからと考えられる。ミヤコが出会いの場面で「エリちゃんって私が想像してた通りの子だわ」(一四)と述べて嬉しそうに微笑む箇所や、「だって私はエリちゃんが大好きよ」(五八)と伝える箇所は、そのことを示している。エリがミヤコの従順さを非難したとき、一度だけ「両親や親戚の皆が勧めてくださったから」(四〇)と理由を述べているが、文脈を考えるに、これはエリの父親の再婚相手になる理由であると読み取れる。コブリアワセを受け入れ、エリの父親の再婚相手になるのは親族の勧めがあったためだが、エリの母になりたいのは、コブリアワセとは関係なく、「エリちゃんが大好き」であったためなのである。ミヤコはエリの母になりたい理由に関しては、コブリアワセを持ち出していない。自分の好意を持ち出している。そして、その好意は、コブリアワセの必要が生じる前に既に抱かれていたものである。

「私ね 姉にせがんであなたの話を何回も何回もしてもらったわ。」
「お母さんに?」
「ええ。蔵の中で暮らしてた私はポン子と一緒に エリちゃんのことをたくさん想像したわ。私と同い年の子はど んな眼や髪をしてどんな声で話をするのだろう。好きな食べ物だとか猫は好きかしらとかたくさんのことをね。」
「……。」
「いつか逢えるのをずっとずっと楽しみにしてたのよ。」(五四~五五)


 ここでミヤコのエリへの思慕は、エリの母親に話を聞いたときに培った感情が基礎になっているということが分かる。ゆえに、ミヤコは元々、エリの母親になりたいと望んでいたわけではない。ミヤコはエリのことをあくまで「同い年の子」として考えている。母親がその後に亡くなったため、ミヤコはエリと親子になることを望むことになるが、その根底にある好意は、コブリアワセとは無関係に存在していたものなのである。けだし、そのためにミヤコは後日談で、コブリアワセの想定する「普通のお母さん」のその先へと向かうことになる。ミヤコのエリへの好意は、コブリアワセという習慣により構築されたわけではなく、それ以前から存在していた。コブリアワセから自由なその好意が、「普通のお母さん」の位置から離れたところに彼女を導いたとしても、何ら不思議ではないのである。
 それでは、ミヤコがエリに求めることになる関係とは、どのようなものであったのだろうか。次の言葉が全てであると思う。

「きっと私たちうまくいくわよ。月と太陽みたくね。」(六〇)


 「月と太陽」という比喩は、必ずしも「親子」に結び付くものではない。ミヤコは、形式的に親子と名付けられる関係になるエリと、実質的には「月と太陽」のような関係になりたかったのではないだろうか。ここで、どちらが月でどちらが太陽であるかは明示されていないが、作中の表現から窺い知ることができる。すなわち、「コブリアワセ」ではエリを光の中に置き、ミヤコを影の中に置くという対比がそこかしこに存在する(二四、三六、三八~四六)。ここから推測すれば、エリはより光を想起させる太陽ということになる。そして、影の中に浮かび上がるかのように立っているミヤコが月である。ミヤコが太陽湿疹を持ち、自身を太陽と重ねることがなさそうであることも、エリが太陽であると推定する根拠となろう。「白い幽霊」という言葉もどことなく、夜の闇に浮かび上がる月を連想させる。
 唯一、エリの告白に対して「こんな柔らかな光をもっていて傷ついて綺麗な涙を零せる子だったんですもの。」とミヤコが言う場面だけは、エリと月が重ね合わされているように見える。ここでは涙を零すエリの後ろに、月が大きく描かれている。しかしこの場面において、エリがまず「柔らかな光」を持っていると言い表されているところに注目して欲しい。「柔らかな光」という限定を伴う表現は、ミヤコが受け付けない「強い陽」(四三)と対照的なものである。ここに着目して解釈すれば、エリはやはり、ミヤコも受け入れることができる太陽として考えられているのではないだろうか。エリが背負う月は、あくまで「柔らかな光」を視覚的に説明するために描かれたものに過ぎない。エリに本当に託されているのは、月のような「柔らかい光」を持つ太陽のイメージである。ミヤコは、本来自分が傍で見ることのできない太陽を、エリの中に見ている。
 けだし、「月と太陽」の関係というのは、いかようにも解釈できるものである。すなわち、太陽の方が優位に立つ関係としても考えられるだろうし、水平的な関係としても捉えられるだろう。しかし、ミヤコ本人が言い表したものではないものの、作品の別の箇所で二人は「花差しの牡丹二輪」(二九)に喩えられている。このことを鑑みると、「月と太陽」の関係というのも、それに近いものと考えられるのではないだろうか。つまり、「月と太陽」の関係とはどちらが上位と考えられるでもなく、水平的で二つで一つと考えられるような関係である。ミヤコはそうした関係をエリとの間に望んだのではないだろうか。その願いが叶ったことを示すように、二人を隔てていた光と影の対比は、エリの告白の後に消滅している(五二)。二人はコブリアワセの結果として親子になると同時に、同居する「月と太陽」の関係に収斂していくのである。


(4)まとめ ――「特殊な親子」への帰着――

 以上を踏まえて、後日談のことを考えてみよう。後日談は明らかに「普通の親子」の範疇を超えているが、それは、エリから見れば関係が変化する余地を残していることから、ミヤコから見れば以前よりエリと親しくなることを望んでいたことから説明できる。エリはコブリアワセの結果としてミヤコが母親になることを受け入れるのではなく、他に至るべき関係があるのであればそこに赴く可能性を残しているのであり、ミヤコは元々望んでいたのがコブリアワセの想定する「普通の親子」ではなかったのである。両者とも、コブリアワセによって予定されている親子という関係のその先に至ることを否定する理由は持っていない。エリは受容するだろうし、ミヤコは「月と太陽」を想起させる関係へと、むしろ進んでいくかも知れない。
 それでは後日談で描かれた関係は、どのようなものだったのか。それは教え教えられるという点で、どこか「親子」のイメージを残しながらも、「普通の親子」からは逸脱した内容を教える点で、「親子」を超えているという「特殊な親子」の関係であると言える。「普通の親子」を超えた部分にある関係を比喩で言い表すのならば、「月と太陽」のような関係か、あるいは「花差しの牡丹二輪」(二九)のような関係と言えよう。端的に言えば、二人で一人と見なせる関係であって、ここにおいて二人は「普通の親子」から跳躍していくのである。



以上です。
ここまで読んで下さった方がいらっしゃいましたら、本当にありがとうございました。
何かご意見などがあれば、コメントを残して行って下さると喜びます。

『二輪乃花』はいつ読んでも新しい発見があり、その意味で何度読んでも面白い作品です。
後日、「Walk wit me」についての考察も上げようと思います。
もし興味があれば、そちらもよろしくお願いいたします。

テーマ:百合
ジャンル:アニメ・コミック

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アニメや漫画など、好きなものについて考えたことを書き込みます。
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