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ラストシーンの風浦可符香とは何であったのか

2012.06.14 15:33|さよなら絶望先生
『さよなら絶望先生』が遂に最終回を迎えました。

今でも夢の中にいるようで実感が持てませんが、可符香の「おしまい」は事実を伝えています。
正直に言えば、やっぱり少し寂しいです。
しかし、「おしまい」は新たな始まりでもあります。
今こそ読み込んで、この作品を本気で考えようと思い立ちました。
「ん・・・・まぁ」、上等です!
妄想力全開で参りますが、もしよろしければお付き合い下さい。

テーマは「ラストシーンの風浦可符香は何であったのか」ということです。
これに関する、私の一意見を述べていこうと思います。
長い上に、最後の方は深夜テンションなのでお気を付け下さいw

追記からご覧ください。(4000字程度)




①生きる者としての可符香と、死んだ者としての可符香

ラストシーンに関して述べる前に、風浦可符香について考えを提示したいと思います。
私は可符香という少女に関して、一つの仮説に依拠しています。
「絶望少女たちの中に顕現する可符香とは別に、風浦可符香がいる」という仮説です。

何故そう考えたのかを以下に順を追って述べていきます。

まず、絶望少女たちに憑依している少女たちの状況を確認してみましょう。
彼女たちは依り代として、死んでしまった少女たちを憑依させていました。
ここで『さよなら絶望先生』という物語は、死後の存在を肯定しています。
肉体が死んでも、魂あるいは想いの集合のようなものは存在し続ける。
有り体に言えば、霊という存在が明確に認められています。

次に、可符香に話を戻すと、彼女は臓器移植によって、死んでいながら生き続ける存在です。
ゆえに、一方で可符香は絶望少女たちの中で有機体として生き続けていますが、
他方で死んでおり、霊体のようなものになったと考えることも可能です。
そして彼女の場合は、想いを残した霊として成仏できずに現世に留まっているのではありません。

赤木杏は、死して文字通りの「天使」になったのではないでしょうか。

私は天使の羽を無数にまとい、現れた可符香は、「天使」としての、この可符香だと考えています。
これは絶望少女の中に顕現する、人間としての「天使のような」可符香とは区別されます。
性格や姿を考えれば、両者は完全に一致しますが、別のものとして在るのです。

ここで再び、絶望少女たちに寄り添っていた、死んでいる少女たちのことを考えてみましょう。
彼女たちはそれ単体として、物語の中に登場しません。
絶望少女たちという、依り代があって初めて彼女たちは登場人物となれます。
あくまで死んだ存在は、物語が現世を描いている以上、物語の中の住人ではないのです。

風浦可符香の場合も、同じことが言えると考えます。
彼女の場合は臓器移植があるので、死してなお生き続けているという点で特殊ですが、
移植を受けた絶望少女たちがいるから物語の内の人物として存在できる一方で、
死んだ存在としては、物語の外に存在するのではないでしょうか。

すなわち、「天使のような」人間として、絶えずこっち側に、物語の中に顕現しながら、
「天使」として、向こう側で、物語の外で物語を見守っていた。


それが風浦可符香という少女であると、私は思うのです。




②「登場人物」としての可符香と、「書き手」としての可符香

絶望少女たちの中に現れる可符香とは別の可符香がいて、彼女は物語の外にいる。

これまでは以上の仮説について、可符香が死者であることから論じてきました。
今度は、物語の外の住人でもあることを、彼女の「書き手」というイメージから論じます。

まず、風浦可符香が「P.N.」であるということに注目してみましょう。
これには、300話で「パーソナリティ」という意味も込められていることが判明しました。
絶望少女たちの「共有人格」としての可符香を表す記号というわけです。

しかし、同時にこの「P.N.」には「ペンネーム」という意味も当初から込められてきました。
これは知恵先生曰く、風浦可符香が、ドナーの提供者である杏の雰囲気を、
断片的にでも絶望少女たちに伝えるために付けられた偽名だからですが、
同時に彼女に「書き手」としてのイメージが託されているとも取れます。
300話における命の発言に注目してみましょう。

「実際彼女と物理的接触をした者や彼女が書き記した文章や絵画が残っている」(300話)


彼女が文章や絵画の「書き手(描き手)」として、明確に示されています。
これまで随所に現れてきた、可符香の尻尾のついた特徴的な文字も、
彼女に「書き手」のイメージが託されている証左の一つと言えましょう。

つまり、P.N.はダブル・ミーニングであったわけです。
このうちの後者、すなわち「書き手」としての可符香は作中の行動にも表れています。

御存じのように、風浦可符香は作中において黒幕のような役割を演じることがあります。
時に彼女は、まるで物語を外部から操っているかのように見えるのです。
そのことを象徴的に示す一例が、彼女が徹底的に被害者にならないということです。
特に千里が暴走した場合、クラスメイトの多くは被害を受けますが、
可符香が可符香として被害を受けることは極端に少なくなっています。
131話では久藤准ですら埋められているように考えられるので、これは目立つ事実です。
風浦可符香が物語に登場しながら、その外部から物語を作る、あるいは操る、
「書き手」のような役割を担わされていると言えないでしょうか。


さて、これまでに可符香のP.N.の二つの意味について考えてきました。
ここで二つの意味を考えると、先の二つの可符香に重ねることができることに気が付きます。
つまり「共有人格」の方は、絶望少女たちを通して顕現する、物語の中の生き続ける可符香です。
そして「ペンネーム」の方は、物語の外部に存在する、死んでしまった可符香です。
「ペンネーム」を使う「書き手」という存在は、普通は物語の外にいる存在です。
ゆえに、「書き手」というイメージは、外部に存在する者であることと重ねることができます。

結論として、風浦可符香は「共有人格」として物語の中にいながら、
「ペンネーム」を使う「書き手」として、物語の外にもいます。


それは死んでいながら、絶望少女たちの中で生き続けているという状況と符号します。




③ラストシーン(風浦可符香と久藤准の類似から)

第一に、風浦可符香は生きる者として物語の内にいながら、
既に死んでしまった者、「天使」として物語の外にも存在している。

第二に、風浦可符香は登場人物(共有人格)として物語の内にいながら、
ペンネームを使う「書き手」として、物語の外にも存在している。

これまでに語られた以上のことを踏まえて、ラストシーンを考えてみましょう。

既述のように、私はラストシーンの可符香が「物語の外にいた可符香」であったと考えています。
それは、絶望少女たちの中に顕現してきた可符香とは異なる、
既に死んでしまったことで「天使」となった、あるいは「書き手」である可符香です。
換言すれば、「絶望少女たちのうちの誰か=風浦可符香」ではなく、
他ならぬ「赤木杏=風浦可符香」である風浦可符香であると言えます。

その根拠を、私は301話での一連の久藤准の言葉の中に求めたいと思います。

「僕は死んだ子とされてたんです 輸血を受けたから」
「僕は自殺も輸血も許されない教えの家に生まれたんです」
「この島は融合に寛容なんです」
「キリシタン神社やマリア観音なんてあるくらいですから」
「元々は隠れキリシタンのカモフラージュのためにあった神道や仏教の教えが
 時を経て融合し独特の教えと変化し伝承され受け継がれてきたんです」
「隠れる必要のない現代においても原点の教えに回帰するわけでもなく」
「僕はここでは生きることを許されたんです」(301話)


准は家によって、生きながらにして死んでいる存在として認識されました。
彼は融合によって、「疑似的に」、一つの存在に生と死が同居する状態になっていたと言えます。
これは、風浦可符香が置かれている状況にかなり似通っています。
准の場合は「もらった側」であり、可符香の場合は「あげた側」であるという差異はありますが、
可符香も臓器移植によって、生き続けながらも死んでいる状態でした。
彼女は融合によって、「実際に」、一つの存在に生と死が同居していたと言えます。
准と可符香は、生と死の概念で考えた場合、とても似通っていると考えることができます。

同時に、准と可符香は「書き手」であるという側面からも類似を見出すことができます。
久藤准は「天才ストーリーテラー」、すなわち「語り手」です。
「書き手」というイメージが託されている可符香と明らかに被ります。
この類似は、二人が死によって物語の外部にあることから生じているのだと思います。
可符香は実際の死によって、准は家による疑似的な死によって、外部にいられたのです。
書き手、あるいは語り手というイメージは「物語の外部」を暗に示しています。

ところで、准はこの島で生きる事を許されました。
それは死んだことにされ、物語から疎外され外部の住人となろうとしていた准を、
再び物語の内側に引っ張り込み、生きた人としてそこに住まわせたと解することができます。

となれば、准と似通っている可符香も、この島では「許される」のではないでしょうか。

ここで注目したいのが、「胸元の十字架」です。
准と同様に、可符香も髪留めを外して胸元に十字架を抱きました。
私はこれを「許された証」であると見ています。
融合によって生と死を両方抱いてしまった一存在が、生きることを許された証です。
だとすれば、結論は一つです。

ラストシーンの可符香は、死して物語の外部の住人となっていた可符香が、
許されて物語の内に、こっち側に帰ってきた姿ではないでしょうか。


それは「誰の中のカフカ」でもありません。
望が高校生だった頃に一度だけ出会ったことのある、「赤木杏である風浦可符香」です。
「物語の外部」を象徴する、可符香の「おしまい」という文字はそのことを暗に示しています。

BGMはトロイメライ、夢心地の調べ。
彼女を象徴するこのメロディは、下校時間に鳴り、
学校の昼と夜を分ける「境界」の旋律でもありました。
物語の内部にいる望と、外部にいた可符香が出会うのに、これ以上ない選曲だと思います。

「出会ってはいけない二人」は、今再び出会ったのです。

テーマ:さよなら絶望先生
ジャンル:アニメ・コミック

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