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「癒し」から「勇気」への物語 (浅田あみルート感想②)

2012.07.27 21:28|百合作品
先日書いた、『白衣性恋愛症候群』のあみルートの考察の続きです。
こちらと合わせてご覧ください。

今回は、個々のエンドを見比べつつ、あみルートを考えたいと思います。

それでは、しばらくお付き合いください。




○各選択肢の再確認:「癒し」と「勇気」の間の選択

前回も触れたところですが、もう一度、
あみ個別ルートの五つの選択肢から考え始めてみましょう。

この五つの選択肢は、最後のものを除いて、全てかおりが、
自己の中の少女の問いかけに答える際に提出されるものです。
直接あみに答えているわけではりませんが、質問はあみの抱える問題に関係し、
実際にそこの答えが最終的な結末に関わるので、
かおりは少女に答えながら、同時にあみに答えていると考えていいと思います。


まず、第一の質問は以下のようなものでした。

……ねぇ、友達って――何?


これに対して、①自分を助けてくれる人よ、②大人になったらわかるわ、で答えます。
次に、第二の質問は以下の通りです。

……ねぇ、人はどうして生きていかなくちゃいけないの?

この質問って、わたしに向けての質問……なんだよね?
うーん……。
昔、事故に遭ったわたしは、どうして生きていかなくちゃって考えたんだろう?
リハビリだってすごく辛かったし、
あのまま死んじゃった方が楽だったかもって病院で何度も思ったのに。


これに対しては、①死にたくなかったから、②周囲の人を悲しませたくなかったから、です。

この二つの選択肢は、比較的正解が分かりやすい類の選択肢です。
前者は①、後者は②が正解となります。
何となく分かりやすい選択肢であると思います。

しかし、何故もう片方の選択肢では駄目なのでしょう。

けだし、この二つの選択肢においては、もう片方が「逃げ」の答えであるからです。
第一の質問において、②大人になったらわかるわと答えることは、
少女の質問に対して答えることなく、答えることから逃げたのと同義です。
ゆえに、①こそが少女にとっても、あみにとっても正解だったと言えます。

第二の質問も同じです。
この質問は、かおりの実体験に置き換えられて、
どうして辛かったのに生きようと思ったのかという質問に微妙に変えられていますが、
ここで①死にたくなかったからを選ぶと、少女の疑問は払拭されません。
少女にとっては、死にたくない理由が何であるのかということが分からないために、
何故人は生きなくてはいけないのかと聞いているのです。

現に①を選ぶと、少女は「どうして?」と聞き返してきます。
死にたくないと思うのは何故かというところこそ、「生きる理由」に繋がる部分なのです。
ゆえに、①は少女にとって答えになっておらず、
かおりは何故死にたくなかったのかというところから逃げたと取れます。

以上から分かるように、第一、第二の選択肢は、
少女(そしてあみ)の抱える問題から「逃げるかどうか」が問われています。

ここで逃げた場合は、当然暗いエンドにしか辿り着けなくなってしまいます。

それに対して、第三、第四の選択は、趣きが大分異なります。
順番に二つ提示してみます。

好きだって気持ちを伝えるには、どうすればいいと思う?


①正直に、好きって言えばいい、②気持ちが伝わるまで待つ、です。

友達に『他人を不幸にする死神』って言われたら、どうしたらいいんだろう?


①そんなのひどい!、②それは才能だよ、です。

ここは前回の記事でも扱いましたが、非常に難しい選択肢です。
誤りの方を選んでも、少女は怒ったり呆れたりしません。
第三の質問では、むしろ正解である①を選ぶと怒られてしまいます。
第四の質問でも、正解である②を選ぶのには相当な勇気が要ります。

しかし、これらの選択肢は「癒しの契機」「勇気の契機」かを判定します。

あみが現実から逃避している最中に、かおりは「癒し」であり続けようとするのか、
現実に立ち向かう「勇気」になろうとするのか。
「勇気」となって、あみに一歩を踏み出させるためには、
友達との仲直りに繋がるであろう、
第三の質問での①と、第四の質問での②を選ぶ必要があるのです。


それぞれの他方は、少女(そしてあみ)を満足させる選択ではありますが、
それは彼女の「癒し」であることの選択でしかなく、
これまでの状況の延長であり、その継続を助長すると言えます。

ゆえに、あみとの関係において、「看護師からの逸脱」の中で、
「癒し」として関わってきた看護師であるかおりが、さらに関係を一歩進めるには、
ここで正解の選択肢を選んで、「勇気」を与えてくれる特別な存在になる必要があります。


そして、謹慎中にあみのもとへ駆けつけるか否かを問われる最後の選択肢ですが、
これは前回に申し上げた通り、あみのために、
「看護師からの逸脱」をするかどうかということの最後の判定です。
かおりはあみに必要なことを行ってあげることができるのかということが、
彼女は土壇場で裏切らないのかということが、最後に審査されます。

これまでの議論をまとめると、第一、第二の質問は少女やあみの抱える問題に、
かおりが逃げずにコミットできるのかということを問うものです。
そして、第三、第四の質問は、その上でかおりが「癒し」のままであろうとするのか、
それとも「勇気」の契機になろうとしているのかを判別します。
最後に、第五の選択肢で、かおりの気持ちがもう一度ふるいにかけられます。


あみルートの選択肢は、第一にあみから逃げないかということ、
そして第二に「癒し」以上に「勇気の契機」となれるのかが問われているのです。



○「Versetzung」(転院):かおりの裏切り

それでは今度は、上述の選択肢の意味を踏まえながら、
あみのそれぞれのエンドについて考えて見ましょう。

まずは、「Versetzung」エンドです。
これも「移動」や「転換」など、様々な意味があるドイツ語ですが、
何も解決していないのに病院から出てしまうエンドであることを考えると、
「転院」という意味で取っていいのではないかと思います。
あみは実際には退院するのですが、主任により転院の可能性が示唆されています。

それは百合ヶ浜総合病院からの「転院」であり、
信頼できなくなったかおりからの「転院」でもあります。


何故、あみはかおりを信頼することができなくなり、
かつての笑顔を失ってしまったのでしょうか。

それは、このエンドに辿り着くための選択肢から明らかに出来る気がします。
「Versetzung」に至るためには、最後の選択肢を間違えることが必要です。

屋上で開かれたあみのフォルテールの演奏会。
そこで患者の一人が倒れてしまい、演奏会は中止になってしまいます。
これでなぎさとかおりは謹慎になるのですが、
それ以上に辛い想いをしていたのは、あみだったでしょう。
友人に「死神の音」と言われていただけに、その辛さは想像に難くありません。
そのような状態のあみの元に駆けつけるか否か。
謹慎処分の身の上を考えて、駆けつけないと、
他の選択肢で如何に正解を引いていてもこのエンドです。


前にも述べましたが、これは最後の選択で、行かないを選ぶことが、
あみにとってかおりの裏切りを意味することだからです。

あみは「精神的なケア」を身体的なケア以上に必要としていた患者で、
それゆえに時にかおりに「看護師からの逸脱」を求めざるを得ないような患者でした。
そして、かおりはまさしくそうした看護を実施してきたわけです。
屋上のことを主任に伝えなかったのも、そのうちの一つでした。

最後の選択肢も、この延長で捉えられます。
謹慎なのに行くのか行かないのか。
これは、看護師の身の上であるから処分を守って行かないか、
再び「看護師からの逸脱」を経て、あみのケアをしにいこうとするかの選択と取れます。
ゆえに、ここで行かないのはあみにとって、
かおりが自分の看護を放棄したということであり、裏切りなのです。

そのため、彼女は笑顔を失ってしまったと考えられます。



○「singen」(歌う):看護師と患者という関係の継続

「singen」は、ドイツ語で「歌う」という意味です。
その名の通り、かおりの部屋でのみ歌う、
悲しいフォルテールの音が印象的なエンドとなっています。

かおりを庇った際に、右手にけがを負ってしまって、
フォルテールを演奏できなくなってしまったあみ。
よもやフォルテール奏者になるという夢を追うことすら敵わず、
友人とも仲直りをしないままに、学校も転校してしまいます。
この辺りは重要と考えられるので、かおりの語りを一部引用しておきましょう。

桜立舎の時のお友達とは街で時々、すれ違うことはあっても、
だからといって話すことなんて何もないってさみしそうに言ってたっけ……。
三年生からの転校だし、ずっと音楽を中心に生活してたこともあって、
クラスの子とも話が合わないらしくて、
あみちゃんは一層深くなった孤独を抱えてる。

……彼女の孤独を癒せるのは、わたしだけ。


お分かりでしょうか。
ここで再び、「癒し」というキーワードが出ていることが分かります。
屋上の閉鎖に関わるイベントに続いて、かおりがあみの「癒し」として、
現れていることを読み取ることができます。
これはもはや「癒し」ですらない「Versetzung」とは明らかに異なります。
かおりとあみの間の紐帯は、「Versetzung」よりは強かったと言えます。

しかし、「Normal」や「Zukunft」とは、あみに「勇気」を与える存在として、
かおりが立ち現れて来ていないという点に差異があります。

かおりからの「勇気」によって、現実と立ち向かうことを決めたあみと対比されるのは、
おそらく友人と仲直りすらできず、彼女の現実の舞台であった、
桜立舎から去り、かおりの部屋でフォルテールを奏でるあみの姿でした。

以上のことを鑑みると、「singen」は、
かおりがこれまであみの「癒し」としてしか機能できず、
かつこれからも「癒し」としてしか機能できないことを示すエンドと言えます。


これは、かおりとあみの関係が、看護師と患者のまま延長していることを示します。
「看護師からの逸脱」を果たしながらあみの「癒し」として立ちまわってきた、
看護師であるかおりと患者であるあみとの関係を、最後の立ち絵には見出すことができます。
あみは病院からは退院しました。
しかし、かおりの患者ではあり続けなければならないような状態に陥ってしまったのです。

確かに、あみは「辛い現実と向き合ってる」と言えます。
けれども、傷ついて、恒常的に「癒し」を必要とするような、
永遠に現実において傷をもたらされる状況の中に、あみは落ち込んでしまったのです。

そのことを示す一つの証左が、「かおりお姉ちゃん」という呼び方です。
これは「singen」のみで採用されています。
「Normal」や「Zukunft」でも、かおりはその呼び方を許可していますが、
このエンドにおいては少し事情が違うようです。
以下の引用を見てみましょう。

せめてもの罪滅ぼしとばかりに、あみちゃんにお姉ちゃん呼びを許したけど、
それでも、この胸の罪悪感は軽くならない。


「Normal」や「Zukunft」では、退院するからということで、
一度断っていた「かおりお姉ちゃん」呼びを許したのでした。
しかし、ここでは「罪滅ぼし」が許可の理由として挙げられています。
決して退院したからというわけではありません。
そして、そう書かれないところに、あみが実質的に、
未だにかおりの患者であることが暗示されているように思います。

「現実と立ち向かうあみ」に許された、「退院」の表象としてではなく、
「未だにかおりに依存しなければならないあみ」に許された、「患者」の表象として、
「かおりお姉ちゃん」という呼び名は、ここで使われています。


それでは、何故あみはこの状況に陥ってしまったのでしょうか。
あみにとってかおりが「癒し」にしかなれなかったのは何故でしょうか。
選択肢から考えて見ましょう。

「singen」は、ほとんどの選択肢を間違えた上で、
最後にあみの元に駆けつけるを選択すると、辿り着けるエンドです。
他のエンドとの選択肢の差異を考えると、特に最初の選択肢で間違えていることが、
このエンドに至る契機と考えることができます。

ゆえに、かおり自身が、あみの抱える問題に真摯に向き合わず、
「逃げる」選択をしたことが、契機であったと言えると思います。
かおりは、第一の質問に対して、少女からの問いから逃げることにより、
少女の抱える問題に答えないとともに、あみの問題からも逃げることとなったのです。

結果として、最後の場面で、あみはしっかりと少女に庇われず右手を折り、
同時に現実の問題を解決できないような状況に陥ってしまいました。

あみの「勇気」のためには、かおりが必要だったのにも係らず、
少女の、そしてあみの抱える問題に、かおりがしっかりと向き合って、
答えを示してあげることができなかったからこそ、
かおりは今まで通り「癒し」としてしか意味を成せなくなったのです。

かおりがあみと向き合って、あみにとっての「癒し」から「勇気」へ、
「看護師から逸脱」する「看護師」から、それ以上の「特別な存在」へ、
なれなかったからこそ、看護師と患者という関係が継続してしまう結果になったと言えます。




○「Zukunft」(未来)と「Normal」:看護師から「特別な存在」へ

それでは最後に、グッドエンドである「Zukunft」と、
ノーマルエンドである「Normal」について考えて見ましょう。

「Zukunft」は、ドイツ語で「未来」、「将来」、「これから」という意味で、
エンドは名前の通り、未来へ歩んでいくかおりとあみとを祝福するようなものとなっています。

まず、この二つのエンドで指摘しておかねばならないのは、
これらのエンドにおいては、かおりは「癒し」から「勇気」になることが、
一先ずはできたということです。

前述しましたが、ここが「singen」と明らかに異なります。
該当する部分を引用しておきましょう。

……かおりんさん。
かおりんさんに、お願いがあるんです……。

なぁに?

強い瞳が、ふっと戸惑うように揺れて、伏せられた。

わたしに……現実と戦う勇気をください。


「Zukunft」と「Normal」に共通するこの部分に、
かおりが「勇気」の契機となれていることが読み取れます。
それまでの単なる「癒し」をもたらす、「看護師」ではありません。
「勇気」を与えることのできる、それ以上の「特別な存在」です。
「看護師から逸脱」しながら、「癒しの看護」を行ってきた、看護師のかおりは、
この段階であみにとって、それ以上に大切な存在になっているのです。


それが、片や「恋人」に、片や「姉」に至ることになります。

ここで注目すべきなのは、やはり「呼び方」であると思います。
あみが当初からあだな、呼び方に拘っていたこともあるので、
このルートにおいて意味が込められたものと読むべきだと私は考えています。

かおりは、まず、「かおりお姉ちゃん」と呼ぶことを許可します。
先程も少し述べましたが、今度はしっかりと引用しておきます。

あと、個人的にはちょっと後悔しているの……
あみちゃんにお姉ちゃんって呼んじゃダメって言ったこと。
でも……もうあみちゃんも退院だし、
退院したら呼んでも怒られないかなって思うけど、……どう?


「singen」とは違う、「退院」の象徴としての「かおりお姉ちゃん」。
それは、これから現実と向き合って、頑張っていくあみに許された呼び名でした。
この「singen」との意味の差異は注目すべき部分です。

しかし、本当に重要なのは、実はここではないように思います。
むしろ、念願の「かおりお姉ちゃん」を許可されながら、
あみがその呼び名を長くは続けなかったことこそ、本当に重要な事実です。

ご存知のように、「Zukunft」では「かおりんさん」が使われ、
「Normal」では一時的な採用の後に、「かおりお姉さま」に移ったことが語られます。
何故、「かおりお姉ちゃん」は長く続かなかったのでしょう。

第一に、「Zukunft」においては、あみにとってかおりが「姉」ではないからこそ、
「かおりお姉ちゃん」と呼ばなかったと考えられます。
あみはかおりの「恋人」であり、「妹」ではありません。
このことは、はっきりと叙述されています。

それにしても……なぎさんに姉妹って言われちゃいましたねー。

仲良しって言われちゃったねー。

うふふとふたり、声を揃えて笑う。

でも、わたし、妹でもいいんですけど……妹じゃなくて……。


二人にとって、二人はもはや「姉妹」ではありません。
特にあみがそのことを意識していると取ることができます。
ゆえに、あみは意識的に「かおりお姉ちゃん」を使わなかったと考えられます。
「かおりお姉ちゃん」が断られたから、「かおりんさん」と呼ぶようになったのではなく、
もはや積極的に、「かおりんさん」を選択しています。

今までの「かおりんさん」とは違う、甘い「かおりんさん」。
ラストシーンに、それを見出すことができるでしょう。

第二に、「Normal」においては、最終的に「かおりお姉さま」が使われます。
これは、彼女の通っている学校をより思わせる呼び方です。
かおりの語りの中でも、あみが友達にかおりのことを話して、
その中で「かおりお姉さま」になっていったというような描写があります。

これは、あみの重心が、学校の方に移ったことを表しているのではないでしょうか。
それは二つのことを含意します。
まず、あみが「勇気」のおかげで現実と戦うことができるようになったことです。
次に、あみにとって、学校での生活が重要になっていったということです。
病院での「逃亡」に戻ることはないことを示しながら、
同時にかおりの存在があみの中で遠くなってしまったことも示しています。

その結果として、あみは別に恋人を見つけるわけです。
「かおりお姉さま」には、そのような意味があると思います。

さて、これまでは一絡げに語ってきましたが、
それでは「Zukunft」と「Normal」は、どこで分かれてしまうのでしょうか。

選択肢を見ると、第三、第四の質問が特に影響しているようです。
上述した通り、「癒し」「勇気」かを分ける選択肢です。
このことを鑑みると、あみの中でかおりが、
どれだけ「勇気」を与える存在になれたかということが関係しているように思います。
あみはどちらにせよ「勇気」を得て、現実と立ち向かっていくのですが、
そのときかおりが役に立てた度合いによって、二つのエンドは分けられています。
かおりが「勇気の契機」であればあるほど、それだけ「特別な人」になるはずです。

「Normal」は相対的に、「勇気」の契機として機能できなかった場合です。
この場合、かおりは「特別な人」ではあるのですが、「姉」として特別なのであって、
横に並んでともに歩いていく相手ではありません。
ラストシーンの電話での会話というのは象徴的です。
ときどき電話をして「癒し」を、「勇気」を与えてくれる人と言うわけです。

対して「Zukunft」は、隣に並んで「恋人」として歩んでいきます。
かおりがあみの中でより「勇気」を与えてくれる人であり、
現実と立ち向かおうとするときに大きな存在であったために、
退院したとしても、「Normal」のように遠ざかることはありません。

常に意識の上では傍にあって、離れないような存在であると想像できます。

結論として、かおりが選択肢において、より「勇気」を与えることができ、
あみにとって大きな存在になれていれば「Zukunft」ということになります。

ちなみに、「恋人」になった「Zukunft」では、
かおりがあみに一方的に「勇気」を与えるというわけではなくなっています。
水平的、相互的な印象のある「恋人」という関係にふさわしく、
あみもかおりに勇気を与える存在になれています。

証拠は屋上で行われるあみの演奏に対するかおりの語りです。

でも、演奏が始まっちゃえば、そんな緊張も何のその!
楽しそうにのびのびと演奏するあみちゃんに、わたしも勇気を貰った気分……!


また同時に、このエンドでは、かおりがあみの「癒し」であることを端的に示す、
かおりの「癒しの手」が消えたことも明言されているので、
「癒し」を核とする関係でもないことが示されていると取れます。

つまり「Zukunft」は、「癒し」に基づく関係でもなく、
かおりからあみに、一方的に「勇気」をあげるような関係でもなく、
二人で相互に「勇気」を与え合いながら、ともに歩んでいくルートと言えます。
これから待ち受ける、二人の「未来」に向かって。




以上で、あみルートの考察は終了です。
読んで下さった方はありがとうございました。

私自身として、出会えてよかった物語だと、心から思える作品でした。

まだまだ他のルートも残っておりますので、頑張っていこうと思います。

テーマ:百合
ジャンル:アニメ・コミック

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