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一期、二期と対比して見る劇場版のスクールアイドル ――「意志」で「いま」と「学校」を越えて (『ラブライブ!The School Idol Movie』考察)

2015.06.21 23:20|ラブライブ!
今回は、先日から上映中の『ラブライブ!The School Idol Movie』について考えます。
論題とするのは、スクールアイドルが一期、二期、そして劇場版への流れの中で、
主に通常のアイドルとの対比の中で、どのようなアイドルとして描かれてきたかということです。

劇場版が、『ラブライブ!』はあくまでスクールアイドルの物語であって、
アイドルの物語では決してないということを示していたことは疑う余地がありません。
だからこそ、劇中では、μ'sがスクールアイドルであることに非常に拘っていたと言えます。
それではスクールアイドルは、一期から劇場版までの流れの中で、
どのような軸において、アイドルとは区別されるものとして描かれてきたのでしょうか。
そしてその描かれ方は、一貫して変わらなかったのでしょうか。
このような問いから始めることで、劇場版で描かれたスクールアイドルを一層理解し、
結果として、劇場版までの物語を一層楽しむことができるようになるのではないかと考えます。
このような趣旨ですので、当然劇場版のネタバレを含みますが、
それでもよろしい方は、一期、二期を振り返りつつお付き合いいただければ幸いです。
以下、一期、二期、劇場版の順番で、スクールアイドルが如何に描かれていたかを論じます。



私は、一期、二期、劇場版への流れの中で、主に三つの軸でもって、
『ラブライブ!』がアイドルでなくスクールアイドルの物語であることを提示してきたと思います。
つまり、第一に「意志」、第二に「いま」、第三に「学校」の軸で、
μ'sがスクールアイドルであることが強調されていたのです。
とりわけ一期では、スクールアイドルが「意志」のアイドルであることを、
二期はこれに加えて、「いま」と「学校」のアイドルであることを表現していたと思います。
それぞれ順番に考えてみましょう。

(1) 一期のスクールアイドル:「意志」のアイドル

第一に、「意志」の軸についてです。
これは一期が、終盤で廃校阻止やラブライブ出場をさらっと片付けて、
最後まで強調し続けていたものと言えます。
スクールアイドルは、アイドルよりも「意志」が問題となるのです。
一期第四話におけることりの台詞は、象徴的なものかと思います。

「小泉さん」
「スクールアイドル本気でやってみない?」
「ええ!? でも、私、向いてないですから」
「私だって、人前に出るのは苦手です。向いているとは思いません」
「私も歌忘れちゃったりするし、運動も苦手なんだ」
「私はすごくおっちょこちょいだよ!」
「でも……」

プロのアイドルなら、私たちはすぐに失格。
 でも、スクールアイドルなら、やりたいって気持ちを持って、
 自分たちの目標を持って、やってみることができる!

「それがスクールアイドルだと思います」
「だから、やりたいって思ったら、やってみようよ」 (一期第四話)


つまり、スクールアイドルはプロのアイドルでないので、
始めるに際しては才能や努力の結果としての実力が相対的に問題となりません。
そのため、始めるに際してはより「意志」が重要となるアイドルと言えます。
これは辞めるに際しても同様で、義務や責任が相対的に問題にならないため、
いずれにしても「意志」が特に問題として浮き上がります。
以上二点を鑑みると、スクールアイドルは、
他の何かではなく「意志」によるアイドルなのです。

だからこそ一期はしつこいまでに、九人がスクールアイドルになろうと決意する姿を描いていました。

すなわち一期が最後に持ってきたのは、廃校阻止に至る劇的な展開でもなければ、
ラブライブ出場による華々しいステージでもなく、穂乃果が一度辞めて、
再びスクールアイドルになろうとする、その「意志」する姿でした。
第八話までに、メンバーのそれぞれがスクールアイドルを始めようとする、
その「意志」を描いた上で、最後にもう一度、穂乃果の「意志」を描いて終わるのです。

「私ね、ここでファーストライブやって、ことりちゃんと海未ちゃんと歌ったときに思った。
 もっと歌いたいって、スクールアイドルやっていたいって。
 辞めるって言ったけど、気持ちは変わらなかった。
 学校のためとか、ラブライブのためとかじゃなく、あたし好きなの、歌うのが!
 それだけは譲れない。だから……ごめんなさい!
 これからもきっと迷惑かける。
 夢中になって誰かが悩んでいるのに気付かなかったり、入れ込み過ぎて空回りすると思う。
 だって私、不器用だもん!
 でも! 追いかけていたいの!
 わがままなのは分かっているけど、私!」 (一期第十三話)


この穂乃果の台詞の中には、何故一期が廃校阻止の問題をあっさりと解決させ、
またラブライブ出場という目標をあっさりと取り下げたのかということが表れています。
それ以上に描くべきことが、一期にはあったに違いないのです。
学校のためでもなく、ラブライブのためでもなく、
純粋に歌を歌いたい、スクールアイドルをやっていたい。

この穂乃果の想いこそ、一期が取り上げたかったものでしょう。
スクールアイドルを描く作品として、一期は「意志」をひたすら強調していました。

このように、一期が廃校阻止やラブライブ出場を廃してまでも、
「意志」のアイドルとしてのスクールアイドルを強調したのに対して、
二期は、別の二軸でアイドルでなくスクールアイドルであることを強調しました。
すなわち、三年生の卒業を前にして、それを受け止めていく流れの中で、
スクールアイドルは「いま」のアイドルであることを、
学校のみんなの力を借りて、ラブライブ優勝を果たす流れの中で、
スクールアイドルは「学校」のアイドルであることを描いたのです。
一期において表れていた「意志」の軸に加えて、
二期においては第二、第三の軸が表れてきます。
それぞれを確認してみましょう。

(2) 二期のスクールアイドル:「いま」と「学校」のアイドル

それでは第二に、「いま」の軸についてです。
これは、三年生の卒業への流れと関連して表れてきます。
二期は、第一話から三年生の卒業をテーマとして扱うことを明示していました。
絵里は次のように述べています。

「そうよ。三月になったら、私たち三人は卒業。
 こうしてみんなと一緒にいられるのは、あと半年」
それに、スクールアイドルでいられるのは、在学中だけ
「そんな……」
「別にすぐ卒業しちゃうわけじゃないわ。
 でも、ラブライブに出られるのは、今回がラストチャンス」
「これを逃したら、もう……」
「本当はずっと続けたいと思う。
 実際卒業してからも、プロを目指して続ける人もいる。
 でも、この九人でラブライブに出られるのは、今回しかないのよ」 (二期第一話)


九人での活動がやがて終わるものであることが確認されたことによって、
スクールアイドルは「いま」だけのものであることが強調されています。
より「意志」の産物であるという側面とは異なる、
より「いま」であるという側面が取り上げられているのです。
スクールアイドルは限られた「いま」しかできないという点で、
(プロの)アイドルとは明白に区別されます。

二期においてはまず、この「いま」の軸が新たに浮上しているのです。
二期第十一話で九人がμ'sを終わりにすることを選び取ったとき、
彼女たちはアイドルでなくスクールアイドルであることが、
一際強く表れてはいなかったでしょうか。

そしてもう一つ、第三に、「学校」の軸についてです。
これは、ラブライブ優勝への流れと関連して表れてきます。
一期から二期の序盤にかけては、μ'sの物語はあくまでメンバーの九人の物語であって、
彼女たちが進んでいくに当たっては、その九人の中での支え合いが鍵となっていました。
二期第二話の合宿における、穂乃果の言葉に注目してみましょう。
ラブライブの予選という大舞台を控え、
ことりが衣装づくりについてスランプに陥ったことを受けての言葉です。

「私、まだできてない……」
「できるよ!」
「でも……」
だって、九人もいるんだよ!
「穂乃果ちゃん!?」
「誰かが立ち止まれば、誰かが引っ張る。誰かが疲れたら、誰かが背中を押す。
 みんな少しずつ立ち止まったり、少しずつ迷ったりして、それでも進んでるんだよ!
 だからきっと、できるよ! ラブライブの予選の日は、きっと上手くいくよ!」
「うん!」
「そうだね」 (二期第二話)


重要なのは、ここでいう「みんな」がμ'sの九人のみを指していたということです。
この時点では、一緒に歩みを進めて、その最中において支え合う「みんな」の中に、
九人以外の人たちが入るということは意識されていませんでした。
しかし、この意識はラブライブの予選を経験する中で変わっていきます。
A-RISEという強敵を前にして、また、どうにもならない悪天候を前にして、
μ'sとともに歩み、九人を支えたのは学校のみんなに他なりませんでした。
第三話で、μ'sのステージの直前に駆けつけ、
第九話で、吹雪の中、雪をかき除け続けてくれた仲間たち。
彼女たちが、「みんな」の中に入ってくることになるのです。
穂乃果は、二期第十話において、次のように語っています。

「そっか! 分かった! そうだ、これだよ!」
「何なのよ、いきなり」
「μ'sの原動力! 何で私たちが頑張れるか!
 頑張ってこられたか! μ'sってこれなんだよ!」
「これが?」
「うん! 一生懸命頑張って、それをみんなが応援してくれて、
 いっしょに成長していける。それが全てなんだよ!
 みんなが同じ気持ちで頑張って、前に進んで、少しずつ夢を叶えていく。
 それがスクールアイドル! それがμ'sなんだよ!」 (二期第十話)


ここでは、最初の「みんな」において学校のみんなのことが指示され、
次の「みんな」において、μ'sの九人と学校のみんながともに指示されていると考えられます。
九人だけでは全員揃っての予選参加すら怪しかったときに、
学校のみんなに助けてもらったことを受けて、
彼女たちはただのファンではなくなりました。
九人と同じ気持ちで頑張り、前に進み、少しずつ夢を叶えていく仲間となったのです。
二期第二話の時点で九人だけであったものに、学校のみんなが含まれています。

この「みんな」の拡大の流れの中に、「学校」という軸を見出すことができます。
そもそも学校のみんながμ'sとともに歩み、μ'sのために頑張ってくれたのは、
μ'sが学校と深く結びついているアイドルであったためです。
二期第九話で、ヒデコ、フミコ、ミカの三人は、次のように語っています。

穂乃果たちは、学校のためにラブライブに出て、
 生徒会もやって、音ノ木坂のために働いてきたんでしょ
だから、今日は私たちが助ける番
私たちも協力したいから
「私たちだけじゃない。みんなもだよ」

「ここは私たちに任せて」
「穂乃果たちは、説明会の挨拶と、予選のことだけ考えてて。ね」 (二期第九話)


廃校阻止に向けて立ち上がり、これまで学校のために頑張ってきたからこそ、
学校のみんながμ'sとともに歩もうと思ったのです。
そのため、学校のみんながともに歩む仲間になっていくことの裏側には、
μ'sが「学校」のアイドルであるということを見出すことができます。
それは、「学校」のアイドルであるために、学校のみんなはファンとしてだけでなく、
同じ気持ちで頑張り、前に進み、少しずつ夢を叶えていく仲間として関わってくれたのです。

結論として『ラブライブ!』は、「意志」と「いま」と「学校」という軸でもって、
通常のアイドルとは区別されるスクールアイドルを描いて来たといえます。
限られたこの「いま」「学校」のみんなとともに、「意志」でもって活動するアイドル。
それがこの作品が二期の最終話までに描いてきたスクールアイドルです。

しかし、劇場版は更にその先に向かいました。
というのも、スクールアイドルを「いま」と「学校」のアイドルとして維持して描くと同時に、
それを越えたものとしても描いていたのです。
つまり、確かにスクールアイドルは、「意志」と「いま」と「学校」のアイドルですが、
同時に「意志」で「いま」を越えて行くアイドルでもあり、
また、「意志」で「学校」を越えて行くアイドルでもありました。

これが劇場版が再定義した、スクールアイドルの姿です。
それでは、このことを確認してみましょう。

(3) 劇場版のスクールアイドル:「意志」で「いま」と「学校」を越えて

まず、先述のようにスクールアイドルを「いま」と「学校」のアイドルと述べるとき、
彼女たちはあくまで高校三年間「だけの」アイドルであり、
学校の人たちと「特に」ともに在るアイドルであるというような、
時間的、空間的制限の下にあることが認められます。
こうした制限は、確かにスクールアイドルの特徴的な要素でした。

劇場版は、こうした要素を維持していたには違いないのです。
現に九人は、「限られた時間の中でせいいっぱい輝こうとする」、
スクールアイドルが好きなことを確認して、改めてμ'sを終わらせる決断をしました。
また、現に九人の想いは、音の木坂学院の部室において受け継がれようとしていました。
このような箇所には、スクールアイドルが「いま」のアイドルであり、
「学校」のアイドルであることが維持されていることを見出すことができるでしょう。

しかし、劇場版は、「いま」と「学校」のアイドルであることだけを、
描き続けたわけではありませんでした。
同時にスクールアイドルが、「意志」でもって三年間を越え、
「意志」でもって学校という括りを越え得るアイドルでもあることを描いていたのです。

第一に、雪穂と亜里沙が後輩にμ'sのことを紹介している場面があります。
ここで雪穂は、μ'sの「想いを受け継いで」活動していることを語っていました。
かつてスクールアイドルになろうという「意志」を抱いて、
ラブライブ優勝、ドーム大会実現まで突き進んだμ'sの九人。
その「意志」を受け継いで、同じくスクールアイドルとなった二人の姿が示されています。
スクールアイドルは、確かに高校在学中の三年間しか活動できない「いま」のアイドルです。
しかし、スクールアイドルが「いま」のアイドルであり、その活動が三年きりであったとしても、
彼女たちは彼女たちの「意志」でもって、「いま」を越えて受け継がれていくのです。

これが、劇場版の描いていた、スクールアイドルの姿であったと言えます。

第二に、各地のスクールアイドルが一つになってライブを行う場面があります。
ここでμ'sは、「想いをともにしたみんなといっしょに」、
スクールアイドルの素晴らしさを歌っていました。
かつてスクールアイドルになろうという「意志」を抱いて、
ラブライブで競い合ってきた各地のスクールアイドル。
その彼女たちが今度は同じ「意志」の下に集い、
自分たちのライブを作り上げる姿が示されています。
スクールアイドルは、確かに「学校」と深く結びついたアイドルです。
しかし、スクールアイドルが「学校」のアイドルであり、学校のみんなと特にともに在ったとしても、
彼女たちは同じくする「意志」でもって、「学校」を越えて集い繋がっていくのです。

これが、劇場版の描いていた、もう一つのスクールアイドルの姿と言えます。

結論として、劇場版は、雪穂と亜里沙が新入生にμ'sのことを語る場面で、
μ'sの「意志」が受け継がれ、卒業後も続いていくであろう様を、
μ'sが各地のスクールアイドルとともに一つの歌を歌う場面で、
スクールアイドルの「意志」で繋がり、一つになる様を描いたと言えます。
二期においては、三年生が卒業するまでの流れの中で、
スクールアイドルが「いま」のアイドルであることを描かれ、
μ'sがラブライブ優勝を果たすまでの流れの中で、
スクールアイドルが「学校」のアイドルであることが描かれていました。
これに対して劇場版は、μ'sの面々が卒業した後を描く中で、
スクールアイドルが「意志」でもって「いま」を越えていくことを、
ラブライブ優勝の先にあったドーム大会を実現するまでの流れの中で、
スクールアイドルが「意志」でもって「学校」を越えていくことを描いたのです。



○関連記事

  (1) 一期の記事

   「穂乃果の物語」ではなく「三人の物語」として (第三話まで)
   みんなで叶える夢として (第四話)
   にこの勧誘に見る「μ'sのやり方」 (第五話)
   穂乃果は「one of them」であること (第六話)
   本当の意味で、同じグループの一員へ (第十話)
   自分の想いとの邂逅、みんなの想いとの対峙 (全体の考察①)
   九人のμ'sへの帰着、新しい夢への出発 (全体の考察②)

  (2) 二期の記事

   「意志」と「いま」の物語へ (第一話)
   支え合い、補い合うμ'sというグループ (第二話)
   どうにもできないことを受け止めて (第五話)
   広がり開かれる、みんなで叶える物語 (第十話)


テーマ:ラブライブ!
ジャンル:アニメ・コミック

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