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ゆりかごに抱かれずとも (みよしふるまち『ゆりかごの乙女たち』)

2014.06.08 11:44|百合作品
ゆりかごの乙女たち (マッグガーデンコミックス Beat’sシリーズ)ゆりかごの乙女たち (マッグガーデンコミックス Beat’sシリーズ)
(2014/06/03)
みよし ふるまち

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”S”とは…、心の在り処をどこに定めるかということ。
特別な彼女のこと。

時は大正。
高等女学校では、上級生と下級生が特別な関係を結ぶ「S」が流行中。
開校以来の才媛・環と軍人の令嬢・雪子は、
「S」とは異なる普通の友情を育んでいたはず、だけど――? (帯より)


今回は、マッグガーデンの『ゆりかごの乙女たち』を紹介しつつ、考えてみます。
女学校を舞台とする作品は数あれど、大正時代の女学校を舞台とし、
明確に「S」をテーマにいている作品は、あまり多くはないのではないかと思います。
しかし、『ゆりかごの乙女たち』は徹頭徹尾、「S」をキーワードとして扱っています。
冒頭からして、「S」についての説明から入るのです。

「すごいわね 入江さん!」
「え?」
「きっともう噂が先輩のところまで届いたのよ 開校以来の才媛だって!」
「…今のはなんなの?
 私 あの方の名前も素性も存じ上げないわ」
「まあ あなた知らないの? ――あれは”S”よ
「エス?」
「今 流行ってるの 上級生がお眼鏡にかなった子を”妹”にして可愛がってくださるのよ
 ほら あすこの方々はきっと品定めにいらっしゃったんだわ」 (p.7)


上級生が主人公にいきなり熱烈な文を送りつけてくるところから始まり、
そこでSについての説明が挿入されるという流れは、
川端康成の『乙女の港』を思い出させるものであると思います。
この作品も、上級生が「花選び」をするところから始まるのでした。

 基督教女学校は、官立の女学校よりも、生徒同志の友情がこまやかで、いろいろな愛称で呼び合っては、上級生と下級生の交際が烈しいということくらい、三千子もうすうす聞いていたけれども、それが実際どんな風に行われるものか……。
エスっていうのはね、シスタァ、姉妹の略よ。頭文字を使ってるの。上級生と下級生が仲よしになると、そう云って、騒がれるのよ。
 と、経子に聞かされても、
「仲よしって、誰とだって仲よくしていいんでしょう。」
「あら、そんなんじゃなくてよ。特別好きになって、贈物をし合ったりするんでなくちゃ……。」注1


『ゆりかごの乙女たち』は、往年の少女小説の香りを宿した作品であったと思います。
そこでこの記事では、想起される作品の話も少し交えつつ、
この作品が強調したテーマについて考えていきます。

環と雪子は、ハッピーエンドと考えられる結末を迎えるわけではありません。
その結末には如何なる意味が見出せるのか、私の答えを提示したいと思います。



○『ゆりかごの乙女たち』:ゆりかごに抱かれずとも


けだし、この作品で要になっているのは環の性格です。
環は、自立した個人であることを非常に重んじています。
だからこそ、絹子に執着しているよし乃のように、
雪子に執着してもらいたがっている自分を否定するのです。

よし乃さんがあそこまで絹子さんを慕っているなんて思わなかったわ

ぞっとした 想いのつよさを垣間見てしまったような気がして

でも少し羨ましい気もする
雪子はたぶん私のためにあんな顔をすることはないか ら…

いやいやいやおかしいでしょう 雪子は友達 友達でしょ
これだとまるで私に執着してほしいと思ってるみたいじゃない
ちがうわよ 我々は一個の自立した精神として友情を育んでいるわけだから
あの人たちとはちがくてもっと… もっと… (pp.102-103)


周囲から浮いてしまうほどに、流されず毅然としている(pp.7-8)のも、
自身の名誉を非常に大切に思っている(p.38、p.66、p.146)のも、
この、自立した自己であろうとする感覚に関連していると言えるでしょう。
自分は誰かに依存しない自分であろうという強い意識を有しているからこそ、
軽々しく周囲に同調せず、自分にプライドを持つことができるのです。
こういった人物であるため、環は時代や世の中に翻弄されず、
自分の意志で選択することができると考えられます。

実際に絹子も、環をそういった人物として捉えています。
絹子がよし乃と別れたことを環に伝える場面を見てみましょう。
そこで絹子は、「S」が所詮「今このときだけ」のものであることを語ります。

「私たちはみんな承知しているの 自由でいられるのは今だけなんだって
 だからせめてその間くらいは美しくやさしい夢だけを見ていようと
 してるんじゃない どうしてそれがわからないの?
 どうして夢がずっと続くなんて思い込めるのよ」
「でも……」
「でも愛しているんです だってお側にいたいんです?
 もううんざり それはこの学校の中だから許されることなんだって
 なぜわからないのかしら」
……そ それでも…… 自分の人生を生きたいなら
 自分で決める術はあるはずだわ……
そうかもね あなたなら
 けれど私たちはちがう あなたの大切なご友人もね」 (pp.135-137)


ここで絹子は、自分の意志は棚上げにして、
女学校以外では許されないために、別れることにしています。
彼女を別れさせたのは第一に、「世の中の規範」のようなものです。
彼女は一応は、それに流される人物として登場していると言えます。
この絹子と環は対峙しています。
彼女は「自分の意志」でもって生きていこうとしているのです。
このように、「世の中の規範」にただ従うことに対して、
「自分の意志」によって動くことを提示している点は、
例えば吉屋信子の『屋根裏の二処女』を思い出させます。
この作品においては、「世の掟」や「人の道」に対して、「自我」が提示されるのです。

自我のないところに個人としての生命があるでしょうか――いいえ、ありません――
 秋津さんはこう言い切った。
「滝本さん、ふたりは強い女になりましょう、出てゆけというならこの屋敷を今日にも明日にも出ましょう、ふたりの行く手はどこにでもあります――ね、ともあれ、ふたりでここまで漕ぎつけたのです、これからふたりはここを出発点にして強く生きてゆきましょう、世の掟にはずれようと人の道に逆こうと、それがなんです、ふたりの生き方はふたりにのみ与えられた人生の行路です、ふたりの踏んでゆくべき路があるに相違ありません、ふたりの運命をふたりで求めましょう、ふたりのみゆく路をふたりで探しましょう、――これから――」注2


環も「個人」として生きていける人物として描かれていると考えることができます。
現に彼女は、景気が悪くなって女学校を退学しなくてはならなくなったときも、
そのことをただ悲しむだけでなく、戻ってくるという大志を胸に歩んでいくのです。
そこには自分の道を歩む主体としての環を見出すことができます。
世の中に流されていくのではない、自分の足で歩む環がそこにはいます。

しかし、それにもかかわらず、物語は二人の別れにて幕引きとなります。
環は『屋根裏の二処女』のように、二人で歩んでいくという決断はしません。
環は結局、雪子とは別れて歩んでいくことにするのです。
それはむしろ、自分の意志でもって道を選べず、世の中の規範に流された結果、
よし乃の申し出を拒否した絹子と同じ選択をしたように見えます。

この不可解な部分こそ、『ゆりかごの乙女たち』において最も重要なところであると思います。
自分の意志で道を選んでいくことができるはずの環が、それでも別れを選択するということ。
そこには、一見世の中に流された結果に見える、別れという選択にも、
彼女たちの意志が宿っていることが有り得るというテーマが見て取れます。

世の中に流されて別れるのではなく、自分の意志で別れる。
このような別れが、絹子たちとの対比で提示されていたのではないでしょうか。

けれども、そう考えると一つの疑問が湧いてきます。
すなわち、環は雪子に強い想いを抱いていたはずです。
それなのに何故、自分の意志で彼女と別れることにしたのでしょうか。
この答えは、作品の次の場面から読み取ることができます。

「…学校」
「ん?」
「お辞めになるって… 本当ですか?」
「…そうね 暮らしぶりは変わるけど… 昔に戻るだけだから」
「また…会えますよね?」
「…それは出来ないわ」
「どうして?」
「あなたといると 私どんどん欲張りになってしまうの
 もっとそばに もっと一緒にって
 きっとあなたの幸福すら いつか願えなくなってしまう
 そんな事は絶対したくないから…」 (pp.161-162)


環は、雪子の幸福を願うからこそ、雪子と別れることにするのです。
それは見方によっては、雪子の心情を考えない、身勝手な整理とも取れます。
しかし少なくとも、世の中に流されたがゆえの意志なき選択ではありません。
そこには、雪子の幸せを願い続けたいという環の意志があります。
このような別れの中にある「意志」こそ、作品の強調するものではないでしょうか。

雪子もまた、環の意志に対して自身の意志でもって返します。
すなわち、雪子は環との日々を「忘れないこと」を誓うのです。
雪子は今後、「世の中の規範」の方へ流されていくことでしょう。
しかし、その中にあっても彼女は環のことを忘れません。
そこに、雪子の意志の顕現を見ることができるでしょう。

別れようという意志と、覚えていようという意志。

環と雪子は、世の中に流された結果に見える、別れるという答えに至りました。
しかし、彼女たちは決して、世の中に負けて別れたということではありませんでした。
「世の中の規範」の前に「自分の意志」を覆い隠されてしまうのではなく、
あくまで「自分の意志」で別れることを、そして覚えていることを選んだのです。

卒業を契機に当然にという、「S」である二人の典型的な別れに対して、
こういった意志ある別れをこそ、この作品は描いたのではないでしょうか。
この作品は、次のような形で締めくくられます。

「なあ! …戻ってくんだろ? またそのうちにさ」
「そう出来るように 努力するわ」

そしたらきっと 違う形であの子に会う事も出来るだろう

「…忘れません」

あなたのいた このゆりかごのような日々だけは (pp.171-174)


ここから想像できるのは、自分たちを優しく抱いてくれるゆりかごから離れた結果、
世の中の荒波に翻弄されていくだけになった二人の姿ではありません。
ゆりかごに抱かれずとも、自分の意志を持って歩いていく二人の姿であったと思います。



  注1 川端康成『乙女の港』、実業之日本社、2011年10月、p.21
  注2 吉屋信子『屋根裏の二処女』、国書刊行会、2003年3月、p.316


テーマ:漫画の感想
ジャンル:アニメ・コミック

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