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青葉と緑が警察の現実を知りながらそれでも警察官を目指す理由 (森永みるく『学園ポリーチェ』)

2016.09.25 16:32|百合作品
今回は、二〇一四年に発売した森永みるくさん『学園ポリーチェ②』について考えます。
この作品は、いじめやわいせつ事件等、学校における事件を念頭に、
学校に内偵のため配置している特殊な警察官「ポリーチェ」として、
事件の解決に当たっていく青葉と緑を描いたものです。
この作品の最大の疑問はおそらく、警察が必ずしも正義ではないこと、
警察以外の正義もあることを強調しながら、
青葉と緑が最終的に警察官を選ぶのは何故かということでしょう。
その辺りが、まさしく「刑事ドラマ」的なのですが、疑問として残る点であると思います。

最後に青葉は、「正義の味方なら何でもいいんじゃなくて…「警察官」になりたいんだ」(153ページ)と、
言っているのですが、そう考えた肝心の瞬間がすっ飛ばされて、
いきなり警察学校での再開なので、どうしてそう考えたのかしらということが問題となるのです。

この疑問については、次の二つが答えとして提示できます。
第一に、青葉が言うように、「悪い奴に手錠かけられるのはやっぱ警察だけだから」(153ページ)です。
彼女たちの「正義」を履行するための「権限」が、警察官にはあるんですよね。

しかし、「組織の正義」を優先する警察という組織においては、
「権限」があっても十全に「正義」の名の下に動けなくなるかも知れません。

そこで第二の理由として、警察組織を前にしても、
自分たちが自分たちの「正義」に沿って動けることを確認できたことが挙げられます。


本庁直々に接触禁止命令があったにも係らず、
紅梨が言うように、二人は「目の前で犯罪が行われているのを黙って見て」いることなく、
制止することができました。
ここで二人は、「組織の正義」を前にしても自身の正義で行動できることを確認しています。

つまり、二人は第一に、自身の正義の履行に際してポリーチェでは「権限」が足りないと確信し、
第二に、「組織の正義」を前にしても挫けず自身の正義を掲げて行動できることを確認したために、
最終的に警察官を選んだと考えられます。

それで先の疑問に答えたとして、次に浮かぶのは、
それでは何故、紅梨のようにポリーチェの権限拡大の方に加わらなかったかという疑問です。
ポリーチェとして、彼女といっしょに行動する道を取るわけにはいかなかったのでしょうか。

これは、ポリーチェの権限拡大の動きの中でも、
ポリーチェが扱う事件の範囲については多分変わらないためです。
紅梨はポリーチェが「学生警察官」なのには不満を持っていません。
しかし、青葉の正義にはそれでは不十分なのです(第6話、第7話)。
だからこそ、権限を拡大されたポリーチェとしてではなく、
警察官として歩む道を選択したのではないでしょうか。

結論として、青葉と緑が警察官を選択するのは、
第一に彼女たちの正義の履行には警察の持つ「権限」が必要であったためで、
第二に警察が組織の正義を追及するとしても、
二人であればそれに拘束されずに、
自分たちの正義を追及できることを確認できたためです。
その上で、ポリーチェではなく警察官である理由は、
彼女たちの正義が「学生警察官」の領分を超えるものであり得るためと考えられます。


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テーマ:漫画の感想
ジャンル:アニメ・コミック

能力の代償以上の問題点としてのゆめのキモチの取り違え ――劇場版の物語の先の物語へ (アイカツスターズ!第二十一話考察)

2016.09.19 14:50|アイカツ!
今回は、『アイカツスターズ!』第二十一話を考えていきたいと思います。
第二十一話においては、ゆめがローラに勝ちたいというキモチで進んで、
それゆえに普段以上の力が出せる能力に頼ってしまう様が描かれていました。
結果的にローラに勝利したゆめではありましたが、
その勝利は危ういものとして示されていたように思います。

この第二十一話の物語が相当憎い点は、
「勝ちたいキモチ」というサブタイトルに表れているように、
この話がゆめの「勝ちたい」という本当のキモチを描いたに他ならない点であると思います。
劇場版で正しい道として示された、
「自分の本当のキモチで臨む」ということに、
早くもある程度の疑義が付されているように見えます。

あの劇場版の物語をやっておいて、そことの繋がりを意識させながら、
自分の本当のキモチで進んで、今にも陥穽に落ちそうなゆめを描くことの強烈さがあります。
ゆめは本当のキモチでローラと対峙したのに、
何故それが誤りであるかのように描かれたのかという問いが叩き付けられるのです。

しかし、第二十一話は、一見上述のように「本当のキモチで臨むこと」を描いた、
劇場版に挑戦する話に見えるのですが、その実そのことを否定する話ではないと思います。

本当のキモチで進んだゆめがここまで危うく描かれているのは、
彼女が自分の本当のキモチを「取り違えている」からです。

つまり、「ローラに勝ちたい」というキモチは、
確かにゆめの本当のキモチに他ならないのですが、
それは、「あのときみたいなステージを」、「今だけでいいから」やってみせて、
それでもって勝ちたいということではなかったはずなのです。
ゆめもローラに、本当は実力で勝ちたかったはずです。

しかしゆめは、目前のCDデビューのかかったオーディションのために、
自分の「ローラに勝ちたい」というキモチの奥にあるはずの、
「ローラに実力で勝ちたい」ということを、
「ローラに今勝ちたい」ということと取り違えてしまったと考えられます。

そこにこそ第二十一話のゆめの危うさがあったのです。

特に重要なのは、第二十一話は、一見そう見えもするのだけど、
「本当のキモチ」よりも優先すべきことがあることを提示する物語ではないということです。
それはおそらく、学園長がゆめを妨害する論理なのですが、
キモチよりも身体が大事だからキモチを否定すべきということではない。

第二十一話は、自分のキモチを取り違えて、代償を伴う力の行使を選択するゆめを描き、
「本当のキモチ」の重要性を念頭に置いて、
「本当のキモチを取り違えないこと」を提示していくきっかけの話であったのだと思います。
仮に代償がなくとも、ゆめがそれを選択するのは誤りであったはずなのです。

だからこそ、今回のひめの「ゆめちゃんは、なんのために歌っているの?」という問いがあります。
一番の問題は、「ゆめの力に代償があること」ではなく、
ゆめが「自分の本当のキモチを取り違えていること」なのです。
綻びは、その結果でしかないと言えます。

そして、ここでこそ、第二十一話は劇場版と接続され、同時に劇場版に挑戦するのです。
すなわち、「本当のキモチで臨む」大切さをテーマとして引き継ぎつつ、
「本当のキモチを取り違え得る」ことを描いていく。
その意味で、劇場版の物語の先を描いたには他なりませんでした。
しかし、それは、劇場版を「本当のキモチ以上に大事なものがある」と否定する形ではなく、
「本当のキモチを取り違えることがある」と示していく形であったのです。



○関連記事

 天才と凡人の狭間に位置する主人公としてのゆめ (第二話)
 役者としてのツバサと先輩としてのツバサ (第三話)
 ロックでの成功譚が一般化されていたことの意味 (第六話)
 みんなを気遣うひめとひめを気遣うツバサたち (第十一話)
 リトルフェアリー物語においてゆめが散在する物語と邂逅する意味 (第十三話)
 自ら立ち込める雲を晴らした真昼と夜空――七夕の物語を超えて (第十五話)
 「ミラクル☆バトンタッチ」というサブタイトルの意味
   ――ゆめとローラのできることの向こうに (第十六話)
 演技ができるからこそのあこの問題
   ――すばるのファンからアイドルに転換する過程において (第十七話)


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ジャンル:アニメ・コミック

「ミラクル☆バトンタッチ」というサブタイトルの意味 ――ゆめとローラのできることの向こうに (アイカツスターズ!第十六話考察)

2016.09.11 14:53|アイカツ!
今回は、『アイカツスターズ!』第十六話「ミラクル☆バトンタッチ」を考えます。
劇場版でゆめとローラの関係性が掘り下げられ、
第二十一話でその先を描き始めようとしている今だからこそ、
この話を考えていくことは意味があることであると思います。

第十六話において気になるのは、サブタイトルで、
何故二人の「バトンタッチ」「ミラクル」なものとして表現されたのかということです。
バトンタッチが生じた要因自体は、
「ミラクル」という言葉で飾るにふさわしいということはない、
偶然の事故の積み重ねでした。
もちろん、「ミラクル」という語がローラのCMとかけて使われていることは疑いがないことですが、
それを「バトンタッチ」の修飾語として使った意味は何なのかということです。
少なくともローラを襲った不幸な偶然は、バトンタッチをミラクルなものとして呼ぶ理由足り得ません。

それならば、バトンタッチの後、ゆめがステージを成功させたことを踏まえて、
「ミラクル」バトンタッチと呼んだのでしょうか。
おそらく半分はそのとおりでしょう。
しかし、ゆめのステージのみを指すなら、
「ミラクル」は、バトンタッチよりステージにかけられるべきです。

まさしくこの点、ミラクルであったのはゆめのステージというより、
ゆめとローラのバトンタッチであったとされている点こそ、
この話のテーマに繋がる重要な部分であると思います。
ステージを成功させたゆめだけでなく、
託したローラもその「ミラクル」という言葉の範疇に収めているのです。

けだし、あのバトンタッチとステージは、
これまでそれぞれの固有の活動を行ってきた、
他ならぬゆめとローラだからこそできたということが肝要なのだと思います。

まずゆめは、一位であるローラの代理というプレッシャーの大きい役割でありながら、
心理的にそこはほとんど問題になりませんでした。
それは何故でしょうか。

それはもちろん、一つにはローラの気持ちに答えたいという気持ちがあったからで、
二人の繋がりあってこそでもあったでしょうが、それだけではないでしょう。
ゆめは、第十話で既にひめの代理をやりきっていて、
その問題を乗り越えているからこそ、そこがほぼ問題にならなったのです。

次にローラは、何故ゆめへとバトンタッチができたのかと言えば、
それはローラが頑張ってきたゆめを誰より知っていて、
ゆめとの繋がりがあったからなのですが、
それ以前にローラだからできたことがもう一つあります。
それは、CMの撮影を最後までやりきることです。

ローラはライブの時間が迫り、CM撮影は後日にすることを勧められながらも、
それも自分のアイカツに他ならないからとして、撮影の続行を選択しました。
これは、他の一年生に先んじて、企業のオーディションに受かり、
学校以外の活動場所を獲得していたローラだからこそであったと思います。

つまり、普通だったら、極めて重大なライブの機会を前に、
諦めずに両方やりとげようという選択をすることは難しかったのではないかと思います。
現にゆめは、このときローラが乗り越えていた問題に、後になって直面しました。

それが第十八話の幹部である有莉の仕事を手伝う話でした。
そこでゆめは、有莉の仕事を手伝っていて、
投票のための活動ができず、順位が芳しくなかったことについて悩みます。
そして、そこで有莉から助言を受けて初めて、両方のアイカツを頑張るという答えに至ったのです。

このときゆめが直面した問題は、第十六話でローラが直面した問題に他なりませんでした。
しかし、ローラは、この問題を自力ですんなり乗り越えてしまいます。
これができたのは、ローラが企業のオーディションに受かって、
既に「たくさんのアイカツ」を持つことを経験していたからだと思います。

これらを鑑みると、二人のバトンタッチは、
あの時点でいずれの仕事もやり遂げようとすることができたローラと、
誰かの代打に立つということの重さを乗り越えていたゆめだからこそできた、
バトンタッチであったと言えると思います。
この側面を表しての「ミラクル」なのではないでしょうか。

すなわち、バトンタッチの前提としてのローラの決断と、
バトンタッチの結果としてのゆめの奮闘、そして二人の友情の全てを合わせての、
「ミラクル☆バトンタッチ」なのではないでしょうか。
それは確かに、ゆめとローラだからこそできることの向こうに側にあった、
一つの奇跡としてのバトンタッチであったのです。


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何年も続く強化合宿が表す「家族」としての765プロ (『アイドルマスター プラチナスターズ』考察)

2016.09.04 21:34|アイドルマスター
今回は、『アイドルマスター プラチナスターズ』の「強化合宿」の意味について考えます。
「強化合宿」という状況は、プラチナスターズの最大の特徴であり、
また最大の問題でもあると思います。
というのも、アイドルたちの話やメールの内容を踏まえると、
皆は仕事があるときに限定的に合宿所で寝泊まりするのではなく、
基本的に365日合宿所で寝泊まりしているらしいことが分かるようになっています。

例えば学校があるときにも、基本的に家に帰るのではなく、
合宿所に帰ることとしているようで、
実家にはたまに顔を出す形であるように聞こえるテキストがあるのですよね。
千早に至っては、それで家を引き払うことも検討しています。
少なくとも週に一回、仕事のあるときに来るという具合ではない。

もっとも、仕事があるときに顔を出すだけでは、
それは普段の765プロと変わらないわけで、
そうでなく平素ずっと寝泊まりするからこそ「合宿」なのだという気もするのですが、
他方でその語の通常持つ「一時性」は、見る影もなくなっていると言えます。

そういう検討に入る以前に、そもそも何年も合宿所を借り切って、
何年も続く「強化合宿」を展開するということが、
現実的に考えていかがなものかと思わせるものです。
だからこそ、本作では「何故合宿なのか」ということが、
考えるべき最大の問題と言えると思います。

そう、問題なのは、システム上不可避に何年も続いてしまう、
「合宿」を描くという無茶をおかしてまで、
敢えて「合宿」という設定を選択した意味は何なのか。
それでもってこそ描かれたテーマ等は何であったのかということなのです。
作品上の無茶の裏にあるテーマをこそ考えるべきであると思います。

「強化合宿」であるということの意味は、物語上具体的に、
皆のアイドルとしての活動と、合宿での生活を重ね合わさり、
本来アイドルとしての活動に全く関係なさそうな合宿だからこその活動が、
アイドルとしての活動に寄与していくという形で示されているのですが、
けだし、それだけではなかったと思います。

重要なのは、765プロの面々が寝食を共にし、切磋琢磨する環境があって、
そこからアイドルとしての活動における進歩に繋がっているという構図なのであって、
これは、これまでの作品の延長線上に見ることができます。

つまり、2nd VISIONに入り、2以降特に顕著となったのが、
「Pとアイドルの関係」だけでなく「765プロの関係」をも強調し、
「団結」をより一層押し出していく路線で、
この下に複数プロデュースの意義の強調、全員プロデュースへの展開がありました。

他方で、この「団結」する関係は、アニメにおいては「家族」に喩えられ、
各々の進む道があっても、帰る場所は皆のいる765プロであること、
一緒に更なる高いステージへ進んでいくことが描かれました。
ワンフォーオールの全員プロデュース、
個別のランクアップと全員ライブを並立するシステムへと繋がるものです。

そして今回プラチナスターズは、765プロの「家族」性をこそ一層描き出すために、
何年間も続く強化合宿をその核に据えたのではないかと思います。
帰る場所を一つとし、寝食等の生活と活動を共にする、
本当の家族のような765プロの面々がその中で進んでいく様こそテーマであったのではないか。

単なる一時的な「合宿」であれば、それは別に765プロでのみ実施するものでないし、
現に765プロ以外においても描かれてきているところであるけれど、
プラチナスターズはそれに留まらない「強化合宿」を底に敷いているんですよね。
765プロを表現するための、765プロの施設として、「合宿所」があります。

特に近時の765プロの物語のテーマに深く関係する場所としては、
ミリオンライブにおける「劇場」が一つあるところなのですが、
今回のプラチナスターズの「合宿所」は、それと同様に、
765プロの物語に係る場所として、提示されていたのではないでしょうか。


テーマ:アイドルマスター
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プロフィール

Author:天秤
天秤と申します。
アニメや漫画など、好きなものについて考えたことを書き込みます。
よろしくお願いいたします。

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