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役者としてのツバサと先輩としてのツバサ (アイカツスターズ!第三話考察)

2016.05.15 15:47|アイカツ!
今回は、『アイカツスターズ!』第三話の一場面に着目し、
そこで語られていることを読み取っていきたいと思います。
その場面とは、ゆめが高台で悩んでいるところに、
ツバサがたまたまやって来て、そしてそのまま去っていく場面です。
一部を以下に引用します。

「あの、もしかして、お稽古ちゅうでした?」
「うん、まあ、ここで台詞を入れようかと思って」(中略)

「私は劇組のトップだが、これで終わりじゃない。
 世界は広く、そして道は一つじゃない。
 迷い、悩み、あがいて、夢に辿り着くこともある。じゃ」 (第三話)


この場面についての興味深い問題として、
ツバサが高台にやってきた理由とツバサが高台から立ち去った理由があります。
そもそも何故そこまでやって来たのかということと、
わざわざそこまでやって来たのに、
何故練習せずに立ち去ってしまったのかということが、考察点として挙げられます。

けだし、このことを考えるに当たり、
ツバサにとってあの高台が如何なる場所であるかと言うことが重要です。
ゆめとの会話中に表れているように、
そこは「迷い、悩み、あがいて」、結果として自分の道を選択した場所であり、
それゆえにそこに赴き、またそこから離れたと考えられます。

第一に、ツバサがそこに来たのは、自分の道を歩む上でつまづきながらも、
自分の道を選択する青空ひよこという役を演じる上で、
自分自身が自分の道を歩む上でつまづきながら、
自分の道を選択したあの高台に行って、
自分とひよこという役を擦り合わせるためであったと思います。

第二に、ツバサが結局台詞入れを碌にせずに高台から立ち去ったのは、
そこに、かつての自分と同じように迷い、悩み、あがいているゆめがいたからに他ならず、
今その場所で考えることが必要なのは、
自分よりもゆめの方であろうと考えたからではないかと思います。


結論として、あの高台の場面では、ツバサがあの高台に来て、
また高台から立ち去った点において、
「役者としてのツバサ」「先輩としてのツバサ」の両方をこそ表現していました。
敢えてツバサがそこに来て、そこから去るという一見不自然な状況が、
語らずして彼女を語っていたのだと思います。


ところで、今回のツバサの役への向かい方は、
『アイカツ!』の演技観を思い出させるものでありました。
それは、「それは誰かのモノマネではない」ということと、
「役の人物の人生をお借りする」ということの両輪で、初めて進み得る道です。

この二つのテーマのうち、
「モノマネでない」は『アイカツ!』第14話、第43話でしおんに関係して示され、
「人生をお借りする」は第21話で示され、
二年目以降もずっと引き継がれていたテーマです。
『アイカツ!』の最も基本的な演技観でした。

この二つは個々では何となく納得できるのですが、
「モノマネではない」は演技が他ならぬ自分である必要に繋がるのに対し、
「人生をお借りする」は演技が他ならぬ自分でない誰かである必要に繋がるので、
両者の間には緊張が生じている気もするんですよね。
その緊張の中で模索していくことが、描かれてきた演技の道でした。

『アイカツスターズ!』が、ここから今後何を示していくのかが気になるところです。
それを変え、あるいはそれを先に進めた演技観を提示するというのであれば、
私にとってはそれもまた非常に興味深い事柄として映るのだろうと思われます。



○関連記事

  天才と凡人の狭間に位置する主人公としてのゆめ (第二話)

  「モノマネではない」と「人生をお借りする」の両立 (『アイカツ!』第七十話)
   『アイカツ!』における演じるということについて考えた記事。


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テーマ:アイカツ!
ジャンル:アニメ・コミック

「特別編①」が描き出した『...In The Name Of。...LOVE?』の二側面について (門司雪『アイドルマスター ミリオンライブ!3』)

2016.05.08 18:22|アイドルマスター
今回は、門司雪さん『アイドルマスター ミリオンライブ!3』について考えます。
原作は、バンダイナムコエンターテイメント開発のソーシャルゲームで、
アイドルが主に765プロライブ劇場を舞台に活動し、成長していく物語となっています。
物語の特徴として挙げられるのは、個々のアイドルの曲の内容を踏まえているということです。
『アイドルマスター』のうちの一コンテンツとして展開していく中で、
『アイドルマスター ミリオンライブ』系列の曲も既に多数発表されていますが、
こうした曲の歌詞が直接使用されたり、話に絡んで来たりしています。
そのため、物語を読むと改めて曲を聴きたくなり、
曲を聴くと物語をまた読みたくなるところがあって、
これが、この作品の白眉な点だと個人的には思います。
読む中で、それぞれの曲をどんどん掘り下げさせてくれる物語なのです。
この記事では、この作品の第三巻のうち「特別編①」で描かれた瑞希の物語を考えます。
ここで瑞希は、今度挑むこととなったラブソングに気持ちを乗せるために、
恋とはどのような気持ちであるのかという命題の答えを模索します。
この記事では、この物語によって表されている、この物語に関連する曲である、
『...In The Name Of。...LOVE?』の持つ二側面を考えていきたいと思います。
もしよろしければ、作品を手に少々お付き合いいただけると幸いです。

まず、この話で重要だと思うのは、瑞希が恋の気持ちを知ろうとするところから、
話が一回展開しているところです。
瑞希の考えるべきテーマは、美奈子や可奈への相談を経て、
当初の「恋の気持ち」から「私流好き」へシフトしている。
このシフトが重要なのは、作中の瑞希の新曲として設定されているであろう、
『...In The Name Of。...LOVE?』が、
「直ちに恋の気持ちと同定できない好きという気持ち」を歌った曲であるためです。

それは、必ずしも恋の気持ちを乗せて歌える曲でないと言えます。
つまり、同曲は、最終的に恋かどうかよく分からなかった自分の気持ちが、
恋であると認識される過程を描く曲であるため、
初めから恋の気持ちを完全に理解してしまったら、
むしろ「気持ちをのせ」られない曲であったのではないかということです。

この曲に「気持ちをのせ」るためには、
恋の気持ちを理解するということよりも、
恋の気持ちと直ちに同定できないような、
「自分流の誰かが好きという気持ち」を抱く必要があったのではないかと思います。
美奈子と可奈の助言の意義は、ここにこそあったのではないでしょうか。

この物語によって、改めて露わになる『...In The Name Of。...LOVE?』の一側面は、
ラブソングが恋を歌う歌のことを指すとするのならば、
この曲は「ラブソング」というより、いわば「ラブソングに至る歌」なのだということであったと思います。
それは、当初から恋の気持ちを歌うというよりは、
当初は恋の気持ちと直ちに同定できないような自身の気持ちを歌っているのです。

次に、瑞希が恋の気持ちを知るために、
静香やジュリアにロールプレイニングを頼んだ場面に注目します。
ここで瑞希はジュリアに「これが恋でしょうか?」と聞き、
ジュリアに「絶対違うと思う」と返されました。
ここで、瑞希がジュリアに抱いたかも知れない心情が、
恋の気持ちと「違うと思う」と即答されるのは何故でしょうか。
これは、瑞希が何の逡巡もなく、
ジュリアに自身の気持ちについて尋ねられたからに他ならないと思います。

仮にそれが恋の気持ちであったなら、その対象である相手に簡単には聞けない。
そういった認識を前提にして「違うと思う」と回答されたのではないでしょうか。

この点は、『...In The Name Of。 ...LOVE?』の歌詞の一つの肝にもなっています。
つまり、一度目のサビにおいては自分の気持ちを上手く表現できずに伝えられなかったのが、
曲の末尾にかけて明らかに転換していっているのです。

すなわち、冒頭以降、恋がはっきり分からなくて、それで自分の気持ちを上手く表現できず、
結果として伝えられないという流れであったのが、
二回目から三回目のサビにかけてそれが恋であると悟り、
悟ったけれど、今度は逆にそれゆえに伝えられないという形になっているのです。

一言で言えば、「表現できないから伝えられない」から、
「表現できるのだけど伝えられない」へと転換しています。
「恋、をした表情」が最早「わからない」のではないのだけど、
それでも「読み取って」くれることを願い、「届かない」と想うに留まっているのですよね。

問題は、何故そこで「読み取って」くれることを願うに留まっているかということで、
そこについては歌詞上では明確に書かれているわけではないのですが、
その理由は十分に推察できるものでしょう。
今まで伝えられなかった理由が解消されたのにもかかわらず、それでもまだ伝えられない理由。
そこには、この曲が言外に伝えようとするテーマがあるように思います。

本題に戻りますが、この作品は、『...In The Name Of。 ...LOVE?』の持つ、
この側面をも拾ってくれているのだと思います。
瑞希とジュリアの「恋でしょうか?」、「違うと思う」のやり取りがあった上で、
最後に瑞希とPのシーンがあるのです。

あのラストシーンで、瑞希は今度は「これが恋でしょうか?」とは問いません。
そこには、瑞希が恋を知覚し、最早それを誰かに問う必要がなくなったからという理由のほかに、
もう一つ、説明するまでもない恋ならではの理由があったに違いないのではないでしょうか。
恋であるからこそ、その相手に「恋でしょうか?」と気軽には確認できないのです。

結論として、『アイドルマスター ミリオンライブ!3』の瑞希の物語には、
『...In The Name Of。 ...LOVE?』の持つ二つの側面を特に浮き彫りにしていたと考えられます。
すなわち、第一に、それが恋の気持ちと言うより、やがて恋の気持ちと同定される、
自分流の好きという気持ちを歌った「ラブソングに至る歌」であるという側面、
第二に、当初の「表現できないから伝えられない」から、
「表現できるのだけど伝えられない」へと移行していくという側面です。

瑞希の物語は、こういった曲の側面を明らかにしていたのではないでしょうか。

瑞希の物語は、ページ数で言えば二十ページに満たない掌編です。
しかし、名曲が少ない文字数で驚くほど雄弁に語るのと同様に、
その物語は言外に多くのことを伝えてくれていると思います。
物語を読んで曲を一層好きになるし、曲を聴いて物語を一層好きになる、
そのような物語であったと思います。


テーマ:アイドルマスター
ジャンル:アニメ・コミック

循環する二種類の真実の語り ――相手の真実を知り、相手に真実を語るということ (なもり『ゆりゆり』)

2016.05.05 16:38|百合作品
今回は、なもりさん『ゆりゆり』のうち「ゆりゆり4」について考えます。
底本は、2012年に百合姫コミックスから発売された、同人誌をまとめたコミックスです。
『ゆるゆり』と比べると、決定的な一歩の手前を扱っているわけではない点で差異がありますが、
同作品と同様に、それぞれの関係が個々人にとって如何なる意味を持っているのかを、
丁寧に描いている作品です。
この記事では、そのうちから「ゆりゆり4」と「ゆりゆりafter」における同作品のアフターに注目し、
ここで描かれている関係が、如何なる関係であったかということを考えてみます。
既に数年前の作品ではありますが、自分にとって重要な作品というのは、
ふとしたときに振り返りたくなるもので、その度に考えが積み上がっていく類のものです。
そのため、現時点での自分の考えをここにまとめておきたいと思います。
もしよろしければ、お付き合いいただけると幸いです。

さて、「ゆりゆり4」において提示されている関係は、
二種類の真実の語りを取り扱っているように思います。
すなわち、「自分の相手への想い」についての真実の告白と、
「その人がどのような人であるか」ということについての真実の語りの二種類です。
前者は、ラブストーリーでは重要なテーマとされることが多いものですが、
この作品においては後者が際立っていると考えます。

つまり、作中に登場する河口先輩は、周囲に王子様であることを求められ、
自分自身をどこか偽って過ごしていたと言えるわけですが、
あさみは彼女のありのままの姿を知っていて、かつ、
自分自身はありのままに語る人物として作中に現れています。


彼女のありのままの語りは、二種類見出すことができて、
まずは冒頭の「ありがち」な告白(93ページ)で、
次に無理をしないでという趣旨の助言(110ページ)です。
後者は、あさみが先輩に関する真実を知っているということに関連しています。
そして、この二つを併せ持つという点において、あさみは他の生徒と差別化されています。

つまり、あさみには、①先輩の真実を知っているということと、
②先輩に対して真実を語るという二つの要素が見出せるわけで、
そのためにこそ先輩の方も気になっていくわけです。

だからこそ、あさみの告白への正式な答えは、
同様に「ありがち」で「かっこわるい」ものでなければならなかったとも言えます。

なぜなら、その「ありがち」で「かっこわるい」告白こそ、
先輩が彼女に抱く想いそのものを、
誇張も虚飾もなく、そのまま真実として伝えるものに他ならないからです。
真実を語ってくれたあさみに惹かれた結果として、
相応に真実を語って返すという展開となっています。

この真実の語りは、二人の関係の間において循環しています。
具体的には、「ゆりゆりafter」において引き継がれています。
ここでは、今度はあさみの方が、寂しいという真実の気持ちを語れなくなったときのことが描かれます。

このとき、先輩はそれを悟ってあげて、指輪を贈ってあげました。
これを、自分の想いを率直に伝える、そのような語りの延長で捉えられるのだとすれば、
このとき先輩はあさみに対して、①あさみの真実を知っていて、
②あさみに対して真実を語る存在になっています。
かつての自分に対するあさみの位置に、今度は自分が立っている。
かつて真実を隠ぺいしていた先輩に、真実を知り、真実を語ってくれたあさみに対して、
今度は先輩の側から、寂しさを秘密にするあさみの真実を知り、真実を語っているわけです。
こうして真実の語りが循環しています。
そしてここにこそ、親しい関係性の一つの意味が表れているように思います。

すなわち、自分の思う自分自身であることが困難である場合において、
その「自分自身」を分かってあげて、それを自分に語ってくれるような人がいて、
初めて自分が自分のままであれるということが、
先輩とあさみの二人の関係には表れているのであり、
一言で言えばそれは、「自分が自分でいられる関係」でした。
しかも一方が他方に対してのみそうあれるというわけではありません。
相互に相手に対してそうあれる関係こそ、この作品で描かれたものであったのではないでしょうか。


テーマ:漫画の感想
ジャンル:アニメ・コミック

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アニメや漫画など、好きなものについて考えたことを書き込みます。
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