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凛とまどかの変わっていくことと変わらないこと ――二人が『MY SHOW TIME!』と『ハローニューワールド』を選んだ意味 (アイカツ!第175話考察)

2016.03.27 16:34|アイカツ!
今回は、『アイカツ!』第171話と第175話を中心に考えたいと思います。
注目するのは、凛とまどかの二人がどのように提示されていたかということです。
この観点から、第171話と第175話の物語を考えたいと思います。
一つ、特に重要な問題としては、第175話で、
とりわけルミナスの三人が新曲でもって挑むのに対して、
凛とまどかが歌い慣れたそれぞれの曲で挑むことに如何なる意味があるかということです。

このことについて、物語上の答えを見つけることは、
凛とまどかというアイドルを理解する上で必須のことであると思います。
もしよろしければ、これまでの内容を振り返りつつ、お付き合いいただければ幸いです。

(1) 二人が変わっていく中で変わらないこと

まずは、第171話がどのような物語であったかを考えてみたいと思います。
第171話で印象的なのは、前半において凛とまどかが一緒に練習している場面です。
ここが、かつての二人からの進展を象徴的に示す箇所であった気がします。

ここで二人がジャンプしている箇所がありますが、
あれは『Let's アイカツ!』の振りではなかろうかと思います。
それぞれの長所が、相手との対比の中で特に顕著に表れた、
二人が最初に一緒にやった振り付けです。

あのとき凛のダンスは、まどかとの対比の中で際立って示され、
またまどかの笑顔は、凛との対比の中で際立って示されていました。
まどかは、あのときは明らかに凛のダンスに付いていけておらず、
特にそれが同時にジャンプの振りのところで顕著に表れていたのですが、
今回の練習の場面では、まどかは凛と同等に跳んで見せていたのです。
また、凛の方は凛の方で、まどかと同等の眩しい笑顔で、
跳んで見せることができていました。
まどかがステージ上で凛とともにあれるほどに成長し、
また凛がまどかとともにあれるほどに成長したことは、
第171話前半のあの二人でジャンプする練習風景に既に表れていたのです。

前半の部分で、そのテーマは早くも提示されていました。
第171話は、そこから始まって、二人が更に一歩進むことを描いたのだと思います。
それでは、その更なる一歩とは何であったのでしょうか。

第171話が描いたのは、凛とまどかがステージ上で「ともに」在ることのその先、
すなわち、ステージ上で「一つで」在ることに他ならなかったと思います。
かつて2wingSが、「和音」や「ふたご座」のイメージで示してきた、
ただ一緒であるだけでなく、「二人で一つである」というテーマです。

お互いに競い合ったり励まし合ったりするだけでなくて、
二人で同じように抱えている想いがあって、
それを二人だからこそ提示できるものとして提示していく。
「ともに在る」から「一つで在る」への移行というのは、
そういった移行であり、それが2wingSの進んだ道であったと言えます。

2wingSの場合は、このテーマが、例えば第82話で「手を握っていた」いちごとセイラが、
第100話では無意識に「手を重ねていた」ことや、
「和音」や「ふたご座」というイメージで示されていたのですが、
今回の凛とまどかの場合は、二人のサインで示されていました。

つまり、ただ凛とまどかのサインを並べて描くだけでなくて、
まどかがそれを一つのハートで囲って、一つのサインとして描いたところに、
二人が「ともに在る」だけでなくて「一つで在る」アイドルとして、
『フレンド』を歌うのだというテーマを見出すことができるのです。

結論として第171話は、凛とまどかが一緒に在ることができるだけの実力を身に着けたことを示した上で、
二人が「ともに在る」状態から「一つで在る」状態へと進んで行く様を描いたのだと思います。
それは、かつて2wingSが歩んだ道と同様のものです。
凛とまどかは、単に一緒にステージに立つだけでなく、
二人が一緒にあるからこそ示せる二人だからこその想いを、
ステージ上で提示していたと言えます。

二人が変わっていく中にあっても決して変わらない親友の絆。
凛とまどかは、『フレンド』に自分たちだけの想いを乗せて届けたのです。

(2) 二人が変わらない中で変わっていくこと

第171話は、たくましい成長を遂げ、その意味で昔の二人からは変わった凛とまどかの、
それでも変わらない親友の絆にスポットを当てていたと考えることができます。
第175話は、それに対して、二人が二人のまま変わらない中で、
それでも成長して変わってきたということが強調されていたと思います。
このことを指摘するために、次の問題から始めることにします。

先述したとおり、第175話において考えるべき大きな問題は、
ルミナス三人が新曲等で臨むのに対し、まどかと凛が既存曲で臨んだことです。
ここには、如何なる物語上の意味を見出すことができるでしょうか。

けだし、第171話でまどかと凛が示したテーマである、
「変わっていくことと変わらないこと」をステージ上で再度表現するには、
『MY SHOW TIME!』と『ハローニューワールド』以上に適切な曲はなかったのではないでしょうか。
先に述べたとおり、凛とまどかは、
自分たちが変わっていく中で変わらない絆があるということを、
『フレンド』に乗せて示していました。
二人が最初期から歌ってきた両曲は、
こうして「変わっていくことと変わらないこと」を表象してきた二人が、
ステージ上でそのテーマを表現するために選んだものと考えられます。
この両曲が、以前と変わらないながら、次の二つの意味で確かに変わっている、
「変わっていくことと変わらないこと」の両面を体現するものに他ならないためです。


第一に、両曲は、今回フィーバーアピールで彩られることになりました。
フィーバーアピールによって変わった、かねてからの二人の曲だからこそ、
二人が変わらない部分を持ちながらも、確かに成長して変わってきたことを表現しています。

第二に、今言ったことの延長として、まどかと凛が互いに知己とここまで歩んできたことで、
『MY SHOW TIME!』と『ハローニューワールド』は、
かつては持っていなかった意味を有することになりました。

つまり、第175話を受け『MY SHOW TIME!』は、
まどかという具体的な永遠のライバルを得た凛の曲となっていたし、
第171話を受け『ハローニューワールド』は、
凛という新しい世界を発見させてくれる存在を得たまどかの曲となっていました。

特に、『ハローニューワールド』について言えば、当初は主にあすかとの関係において、
新しい世界を見せる者としてのまどかの曲であったのが、
第171話を経て明確に転換した曲として今回披露されたのだと考えることができます。

つまり、第171話で凛がまどかを連れて行って綺麗な夕日を見せるという部分が、
まどかがあすかに綺麗な世界を発見させたのと同様に、
凛がまどかに綺麗な世界を発見させた場面に他ならないのであって、
「キミ」(=凛)がいて、更に新しい世界を発見する「ワタシ」(=まどか)の曲となったのです。

このように、両曲は、歌詞が変わらないながら、
歌詞に新たな意味が加わっていたのであり、
その意味でも二人が変わらない中で変わっていくことを、
表現していたと捉えることができると思います。


フィーバーアピールと歌詞の両面から、
二人が変わらない中でも変わってきたのだということは提示されていたのです。

(3) まとめ

ここまでのまとめとして、凛とまどかは、それぞれにアイカツを重ねて進展すると同時に、
その中でも変わらない永遠の絆を持ち続ける二人として提示されていたと思います。
このうちの特に後者を強調したのが第171話であって、
それに対して前者を強調したのが第175話であったのではないでしょうか。



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テーマ:アイカツ!
ジャンル:アニメ・コミック

アイドル・紅林珠璃の歩む道 ――薔薇はいつまでも咲き続けて (アイカツ!第174話考察)

2016.03.21 16:50|アイカツ!
今回は、『アイカツ!』第174話を中心に振り返り、
紅林珠璃というアイドルについて考えていきたいと思います。
第174話においては、珠璃が迷うリサの背中を押し、
またシェヘラザードのドレスを着て暫定一位に立つ様が描かれていました。
この中で、主に三つの方向から、珠璃が如何なるアイドルであるのかということが示されたと思います。
この記事では、第174話で示された珠璃のアイドルとしての姿について確認し、
そこから珠璃がどのような道を歩むアイドルなのかということについて考えたいと思います。
もしよろしければ、珠璃が三年目に登場して以降、
これまでに歩んできた道を想いつつお付き合いいただければ幸いです。

(1) かつて背中を押され、今度は

珠璃は、紅林可憐の娘としてでなく紅林珠璃として認められることを、
自分で目指すことができるアイドルで、そういった側面が、
ひなきや淳朗やリサの道標となったのですが、きっと重要なのは、
そういう珠璃もまた、後押しがあってその道を歩み始めることができたということであると思います。

つまり、第109話で、不可避に可憐の娘として見られる、
そういった周囲のプレッシャーでぴりぴりしていた珠璃を和らげ、
結果として女優・紅林珠璃の道を十全に歩み始める契機となったのは、
可憐の娘としてでなく、珠璃として認めてくれた、あかり(たち)であったのです。

第109話であかりは、自分の力で歩み始めたいと思っていたのに、
不可避に周囲に可憐の娘として見られることで逡巡していた珠璃に対して、
可憐の娘としてでなく珠璃本人を認めて、「珠璃ちゃんとお芝居したい!」と伝えたのであり、
それがあって珠璃の迷いはなくなったと考えられます。

だからこそ、珠璃は第174話で、「スターライト学園に来て、大きな自信をもらったんだ。
紅林可憐の娘じゃない、女優・紅林珠璃として」と述べたのです。
そこでは、珠璃がリサを先達として導くことだけでなくて、
珠璃もまた、誰かがあってその道を歩めたということも強調されていたのではないでしょうか。


更に言えば、第109話で「女優・紅林珠璃」を発見したあかりもまた、
真似された星宮いちごのものではない、大空あかりとしての輝きを、
かつていちごに見つけてもらっていたのであり、そうして既に歩み始めていたあかりが、
珠璃を歩み始めさせるという展開となっていたと考えられるのですよね。
そしていちごもまた、美月にいちごとしての輝きを見つけてもらい、
当初「太陽」になることを目指して進んできたアイドルでありました。
認められて、道を歩み始めるということは、アイドルの間で受け継がれてきたのです。

よって、第174話で珠璃がリサを導いた部分は、今回の話の肝に違いなかったのですが、
それだけでは重要なもう一つの側面を取りこぼしてしまうと思います。
他方で珠璃が「自信を”もらった”」と語り、『Chica×Chica』を選択したことの意味も、
拾う必要が絶対にあるのではないでしょうか。

結論として、第174話は、一方で珠璃が、リサが自分の道を歩む助けとなる様を描きながら、
他方でその珠璃があかりの助けがあって自分の道を歩めたことを喚起する話であり、
だからこそ珠璃が歌ったのは、誰かと手を合わせ夢を叶える『Chica×Chica』だったのだと思います。

(2) シンデレラからシェヘラザードへ

第174話で珠璃は、「シェヘラザード」をイメージした、
ロマンスストーリーのプレミアムドレスを受け取り、これでステージに臨みました。
ここに来て珠璃がシェヘラザードに重ねられたことには、如何なる意味を見出せるでしょうか。
何故、シェヘラザードであったのでしょうか。

かつて珠璃は、『Passion flower』において、零時で魔法がとけてしまうとしても、
帰らずに踊り続ける熱いシンデレラとして描かれたのですが、
そのイメージを一歩進めたものがシェヘラザードに他ならなかったと思います。

つまり、シェヘラザードは、御存知『千夜一夜物語』に登場する語り手ですが、
彼女はいわば、一夜で枯れる(王に処刑される)はずのところ、
千一夜ずっと咲き続けた(物語をすることで生き続けた)花に譬えられるヒロインなのであって、
この点が珠璃のシンデレラの先を行くイメージであったと考えられるのですよね。

すなわち、零時限りで魔法がとけるところ、朝まで踊り続けていたいとして、
零時五分前であっても踊り続けることを選択する珠璃のシンデレラに対して、
一夜限りの命であったところ、実際に千夜一夜を生き続けたシェヘラザードは、
その到達点とでも言うべき、延長線上にいるヒロインであったのです。


第110話で珠璃は、魔法が溶けて、いわば燃え尽きる運命であるところ、
燃え尽きまいとして、燃え続けようと願う熱いシンデレラとして提示されました。
それが第174話では、夜が明ければ処刑されて、燃え尽きる運命であったところ、
実際に燃え尽きずに千一夜を乗り越えたシェヘラザードとして提示されたのです。

実際珠璃は、次のところで述べるように、零時の鐘が鳴っても燃え続けることができたアイドルでした。
だからこそ、ここに来てのシェヘラザードであったのであると思います。

(3) シンデレラのパーティが終わっても

ルミナスの三人がロマンスストーリーから抜け出して、
物語のヒロインではない彼女たち自身を表象するドレスで、
彼女たち自身としてステージに立つのに対し、
珠璃だけ何故未だにロマンスストーリーなのかという疑義は当然呈し得るものです。
このことについて、珠璃がそうした理由を、意味を、考えてみましょう。

これまで珠璃は、第一に燃え尽きずに何度でも燃え上がる熱さを持ち続けるアイドルとして、
第二にその熱さを特に演じることの中で表すアイドルとして、作中で提示されてきたのであり、
それゆえに彼女であれば、ロマンスストーリーを着続ける意味を見つけることができます。

すなわち、あかりたちがロマンスストーリーから抜け出して、
彼女たちを直接表すようなドレスを着るに至ったのに対して、
珠璃は、ロマンスストーリーを着続けることにより、逆に、
珠璃というアイドルを最もよく表現したのだと考えることができるのです。


というのも、物語のヒロインをイメージしたドレスを着てステージに立つということは、
一方で自分でない誰かを演じ、その誰かを自分なりに表現するということに他ならないのであり、
この意味で、役者的であると言えると思います。
珠璃の道であるところの「演じる」ことに通じることであったのです。

さらに、ルミナスがロマンスストーリーから抜け出し、
またののやリサが登場する中で、未だにロマンスストーリーを着続けることは、
そのこと自体が、「燃え尽きずに未だに燃え続けること」の表現に他ならないのであって、
珠璃という熱いアイドルの提示に他ならなかったと思います。

特に四年目の開始を象徴する『lucky train!』が「シンデレラだからパーティーの終わり」と歌い、
まるでロマンスストーリーを着る物語からの決別を宣言しているように思える中で、
珠璃はロマンスストーリーを着て、そこに残って躍り続けるアイドルとして表れているのです。
シンデレラのパーティが終わっても、なお踊り続けるシンデレラ。
前述のとおり、これを喩え直せば、一夜の運命を越えて咲き続けたシェヘラザードとなります。

結論として、新しいロマンスストーリーのドレスを着て臨んだ珠璃のステージは、
燃え尽きることなく燃え続け、かつ、
それを特に演じることの中で表現するアイドルとしての珠璃を、
極めて鮮やかな対照性でもって提示していたと考えることができると思います。

(4) まとめ

ここまでのまとめとして、珠璃は、第174話で、主に三つの方向から、
どのようなアイドルであるかということが提示されていたと思います。
すなわち、第一に「スターライト学園に来て、大きな自信をもらったんだ」という台詞から、
かつてあかりに背中を押され、今度はリサを始めた誰かの背中を押すアイドルとして、
第二にシェヘラザードをイメージしたプレミアムドレスから、
燃え尽きる運命を乗り越え燃え続けるアイドルとして、
第三にルミナスに対して珠璃がロマンスストーリーのドレスを着続けたことから、
燃え尽きずに燃え続け、かつ、それを演じる中で特に表現するアイドルとして提示されていました。
珠璃は、今もまだ咲き続けており、そしていつまでも咲き続けるだろう、
薔薇のようなアイドルとして示されていたのではないでしょうか。



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テーマ:アイカツ!
ジャンル:アニメ・コミック

相手を尊敬していたからこその擦れ違い ――ケイコとフーコの認識の差異から (さかもと麻乃『沼、暗闇、夜の森』)

2016.03.13 16:15|百合作品
今回は、さかもと麻乃さんの『沼、暗闇、夜の森』について考えます。
この作品は、百合姫での短編をまとめる等した作品ですが、
その中でここで特に注目するのは「世界の終わりとケイコとフーコ」です。
この話の中で、ケイコがフーコのことについて、
フーコの自認するところとは異なるイメージを持っていて、
それゆえにフーコに「私のことあんまりよく見てくれていないのかも」と思われる場面があります。

「ねえ フーコ~ この道怖いから先に歩いて~」
「私も怖いよ」
「えーウッソー フーコいつもクールにしてるじゃん 怖いものなさそう」
――ついこの間一緒に怖い映画観て私のほうが怖がってたのに…

またあるとき

「今日斉藤先輩にちょー重い荷物持たされてさー」
「ふうん?」
「あの先輩いつも私のこと目のカタキにしてんの
 私が斉藤先輩に一度シングルで勝っちゃったから」
「えー? それはフーコが背高くて頼りになるからだと思うけどなー
 力ありそうじゃん フーコって」
「え… 私より斉藤先輩のが力あるけど…」
――なんか…ケイコって もしかして私のこと
 あんまりよく見てくれてないのかも… (89-90ページ)


この記事では、このケイコとフーコの認識の違いが何故生じているのかを考えます。
このことは、必ずしも作中で明示はされませんでした。
しかし、少なくともケイコがフーコのことをあまりよく見ていなかったから、
異なったイメージを持っていたのではないことは分かるでしょう。
というのも、ケイコとフーコが似たような感情を、
互いに相手に抱いていたということは、作中で明らかにされているためです。
それでは、ケイコとフーコの認識は、何故生じてしまったのでしょうか。
この問いを考えてこそ、ケイコとフーコが互いに抱いていた想いの理解に近付けると思います。
もしよろしければ、作品を読み返しつつお付き合いいただければ幸いです。

それでは、ケイコとフーコの認識の違いについて考えていきましょう。
この話の中では、主にフーコ視点で進むために、何故ケイコがフーコについて、
フーコ自身とは異なったイメージを持っていたのかということについては、
必ずしも明確な言及があるわけではありません。
ここは、個人的に初読のときに気になった部分でした。

このケイコのフーコに対するイメージは、ケイコの中でフーコが、
フーコの中でのケイコと同じように、世界の終わりに瀕して足がすくんだときに、
「終わってないじゃん」と思わせてくれるような凄い存在であったからこそ、
フーコ自身のものとは異なったイメージであったのだと思います。


フーコが「ケイコは私の誇りだしそんなコに大事に思われて私嬉しい」(89ページ)と思うのと同様に、
ケイコも「フーコに才能があるって誰よりも知ってるもん 怖いんだよ
フーコに追いてかれるのが」(87ページ)と思っていて、互いに相手の方が凄いという尊敬があって、
それが擦れ違いの契機となったと考えられます。
すなわち、互いに互いを自分より凄いと考えていることによって、
ケイコの思うフーコのイメージは、フーコ自身の思うフーコのイメージよりも頼もしいものとなり、
結果として「怖いものなさそう」で「背高くて頼りになる」という言葉が飛び出したと解せるのです。

そしてそういうイメージは、ちょうどフーコもケイコに対して持っているに違いなくて、
そのことが、世界の終わりを考えたときのケイコのイメージに表れていたのだという気がします。
フーコが震えているときに、隣で凛として立っているケイコの姿。
それと同様のイメージをケイコも持っていたのではないでしょうか。

こうしたことは、作中で直接には語られていないのですが、
ケイコがフーコのことを先に述べたように考えていた場面が仄めかしています。
単に大切に想うだけではなくて、自分よりも凄いというような尊敬を抱いていたために、
互いが互いに頼もしいイメージを持って、相手を見ていたのです。
その結果として、ケイコとフーコの擦れ違いがあったのだと思います。


テーマ:漫画の感想
ジャンル:アニメ・コミック

空想文学小説みたいな「私」と「君」のラブストーリー ――『空想文学少女』の二番の視点についての一考 (七尾百合子『空想文学少女』考察)

2016.03.06 17:16|アイドルマスター
今回は、『アイドルマスター ミリオンライブ!』に登場するアイドル、
七尾百合子が歌う『空想文学少女』の歌詞について考えます。
百合子本人を想起させる、歌詞中に登場する「空想文学少女」が、
図書館での「恋のはじまり」の物語を空想する本曲。
今まで語られていたことは空想であったということが、
最後の最後に明かされる点がこの曲の一つの特徴と言えます。
単なるラブストーリーを歌うのではなく、
あるラブストーリーを空想する様を歌うところが、
これ以上なく七尾百合子というアイドルらしいのです。
この記事では、この曲の特に次に掲げる部分について考えたいと思います。

 深呼吸で開いた裏表紙
 ほんの少し君に近づく瞬間
 薄汚れたカードに記された
 右上がりの5つの文字 (『空想文学少女』)


この部分の歌詞について、考えるべき一つの問題としては、
「右上がりの5つの文字」が何なのかということが挙げられます。
本の裏表紙を開いて、そっと目にする「薄汚れたカード」に記された五文字。
これは、今では最早珍しくなりつつある、
図書館の貸出票に書かれた名前のことだと考えられます。
それでは、この名前は、誰の名前と考えられるでしょう。
私は、空想している文学少女が自身を重ねているであろう、
かつて「君」に本を取ってもらった側の名前であると思います。

というのも、「5つの文字」が「君」の方の名前だとすると、
それが三文字でもなく四文字でもなく、
五文字であるという理由が付かないと思うんですよね。
仮に「君」を想う側の名前だとすると、5文字にした理由は歌い手から導けます。
すなわち、七尾百合子は、漢字で五文字に違いないのです。
歌い手である百合子が重ねられているであろう、
歌詞の中の空想文学少女が、自分のことを重ねているであろう、
「君」を想う側の名前が五文字なのは、
その人に百合子が投影されているからと説明が付きます。

仮に貸出票に書かれた名前を、一番で本を「君」に取ってもらった側だと考えると、
この曲を二通りの意味で読み解くことができます。
すなわち、一番から二番までを通して「本を取ってもらった側」からの視点と読む方法と、
一番は「本を取ってもらった側」からの視点で、
二番は「本を取った側」からの視点と読む方法の二通りが存在します。

前者と後者で、先の「5つの文字」の周辺の部分の解釈が変わってきます。
以下では、分かりやすさを重視して、
一番で本を取ってもらった側を「私」と、本を取った側を「君」と呼ぶこととします。

第一の読み方では、裏表紙を開いて「ほんの少し君に近づく」ということは、
「私」が、本の貸出票に書かれた「君」の名前の下に、自分の名前を書くことを意味します。
こう読むと、「5つの文字」が「右上がり」になっている理由を、
「君」への想いが募って無意識に名前を段々近づけてしまったためと読めます。
「私」は、自分の書いたそんな自分の名前を見て、
自分の想いを改めて確知していたのかも知れません。

対して第二の読み方では、裏表紙を開いて君に少し近付くということは、
「君」が、本の貸出票に書かれた「私」の名前を知ることを意味します。
一番の恋のはじまりのエピソードは、本を取ってもらった側ばかりでなく、
本を取った側にも恋をもたらすもので、「君」の方が「私」の名前を調べたという解釈です。

一番と二番で視点が転換しているという第二の読み方の方が、
ぶっとんだ読み方である気がしますが、このように読むと、
一番と二番の末尾の歌詞が異なる理由を滑らかに説明できます。
すなわち、二番の末尾で、「恋愛小説」の歌詞の前に、
「空想文学小説(ゆめ)みたいな」という歌詞が加えられている理由です。
一番と二番の末尾を順に引用します。

 向かい合わせ いつの日かきっと…
 なんて恋愛小説(ラブストーリー)は
 今日もフィクションのままで (中略)

 向かい合わせ いつの日かきっと…
 なんて空想文学小説(ゆめ)みたいな
 君との恋愛小説(ラブストーリー)は
 今日もフィクションのままで (『空想文学少女』)


第二の読み方だと、一番が終了する時点と二番が終了する時点で、
物語の意味合いが変わっています。
すなわち、一番の時点では、本を取ってもらった側の「片想いの物語」ですが、
二番の時点では、相手も同じ気持ちであったことが語られて「両想いの物語」になっているのです。

だからこそ、二番の末尾では「空想文学小説(ゆめ)みたいな」という、
形容詞が加えられているのではないでしょうか。
一番の時点での「片想いの物語」が、二番の時点では、
「両想いの物語」になったことを受けて初めて、
「空想文学小説(ゆめ)みたいな」という一節が加わったのです。

第一の読み方と異なり、第二の読み方だと、
二人とも抱いている恋の気持ちは同じですが、
お互いにそのことを知らないという「両想いの物語」になります。
空想している文学少女にとって、その両想いの状態こそ「空想文学小説(ゆめ)みたいな」ものであるため、
二番だけにそれを加えていると読めるのではないでしょうか。


私は、第二の読み方の方がアクロバットな読み方であると確信していますが、
それでも、どちらかというとこちらの方で読みたい気持ちもあるんですよね。
というのも、曲中の片想いの物語「的な」ものは、
空想文学少女に重ねられているであろう歌い手の百合子は既に経験しているかも知れないためです。
百合子のプロデューサーへの想いを、片想いと断定することはできないにせよ、
それと同等に大切な想いであると考えることはできるように思います。

今まさに近いものを経験しているかも知れないところの片想いの物語を、
百合子が「空想文学小説(ゆめ)みたいな」と評するだろうか。
そう考えると、『空想文学少女』で空想文学少女が綴るのは「両想いの物語」で、
それをこそ「空想文学小説(ゆめ)みたいな」と述べたと考える方が合っているような気がするのです。

とは言え、歌が歌い手のことを表わしたものであると必ず読む必要はないでしょうし、
現に『アイドルマスター』の曲においては、明らかに、
「アイドルの持ち歌≠アイドル本人を歌った歌」であることもままあるため、
「空想文学少女」を百合子と重ねる絶対的な正当性は主張できないでしょう。
しかし、この曲の歌い手が百合子であることに意味を見出すのだとすれば、
『空想文学少女』という曲の一つの考え方として、上記のものを提出することができます。

いずれにせよ、『空想文学少女』は、まるで一篇の小説のように、
様々な解釈の可能性を含んだ作品であると、私は思います。
今一度曲を聴きつつ、その歌詞について考えてみるのも面白いのではないでしょうか。


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アニメや漫画など、好きなものについて考えたことを書き込みます。
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