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亜美の「個性」の中に「大人」のイメージもあるということ ――アニメ第二話との関係から (まな『THE IDOLM@STER 5』考察)

2016.01.31 16:51|アイドルマスター
今回は、アニメ「アイドルマスター」の公式コミカライズ、
漫画『THE IDOLM@STER』の第五巻の双海亜美編について考えます。
テーマは、この話がアニメ本編との関係において、
どのような物語であったかということです。

アニメ第九話の亜美真美の話では、どちらかと言えば、
亜美に先を行かれた真美の想いに肉薄する話であったので、
漫画五巻で、ある意味で真美に先を行かれた亜美が悩み、乗り越えていくことが描かれたことで、
ピースがまた一つ埋まったように思われます。
漫画第五巻の亜美の物語は、第九話との関連において、感慨深いものでした。

そのため、漫画四巻の双海亜美編は、
一方で真美の想いが綴られたアニメ第九話との関係の中で読むべきものだと思うのですが、
他方で「大人になりたい」という心情をアイドルとしての魅力と絡めて扱った、
アニメ第二話との関係の中でも読んでいくべきものだと思われます。


つまり、アニメ第二話は、亜美たちが「大人」ぶろうとして華美な衣装と化粧に走るという流れの中で、
背伸びせず自分の「個性」で勝負することが大事と提示したのですが、
そこで生じうる一つの疑問に対して明確な解を与えるものとして、
漫画五巻の双海亜美編があったに違いないと思うのです。

その疑問というのは、アニメ第二話において、「大人」対「個性」の構図の中で、
まるで後者を選んでいったように見えるアイドルたちは、
「大人」らしくないのか、あるいは、彼女たちが「大人」になったら彼女たちの「個性」、
またそこから生じている魅力は失われるのかということです。

アニメ第二話は、大人と個性を対置させて、後者を選んでいく形に見えるので、
では亜美たちは「大人」らしくないのか、あるいは、大人になったら「個性」が失われて、
そこにあるとされた魅力が失われるのかといった疑問が呈され得ると思うのです。

漫画五巻は、こうした疑問への解を提示する側面を持っていて、
亜美たちの「個性」の中に「大人」な部分があることをPが指摘するとともに、
同級生視点で見て亜美がライブで「大人」に見え、
学校で「子供」にも見えることを提示していました。

「大人」と亜美の「個性」は対立しないのです。

「個性」の上に、子どもっぽくもあり大人っぽくもある、
きちんとしたアイドルでもありやはり普通の中学生でもある、
亜美は成り立つことを示す漫画五巻であったと思うんですよね。
「個性」と「大人」らしさは対立するのでなく、
「個性」の上に「大人」らしさもあるというテーマです。


このテーマに寄り添う形で、亜美たちが物語中で挑戦するのは、
「プロジェクションマッピング」を使ったライブであったのではないでしょうか。
プロジェクションマッピングは、建築物等に映像を投影して、
普段の姿とは全く違う姿に見せるものです。
そこでは、元の建築物等の形は変わらずとも、その姿は変わっていきます。

これと同様に、亜美も、その「個性」はそのままに、投影されるものによって、
子どもっぽくも大人っぽくも映り、
アイドルにも普通の中学生にも映るということが示されたのだと思うのです。
プロジェクションマッピングは、このテーマを象徴するための一種の比喩であったと言えます。

ステージ衣装を着て、スポットライトの下に出て行くことで、
プロジェクションマッピングで映像を投影されたもののように、
同級生をして、普段同じ教室にいる亜美のままでありながらアイドルであると思わしめるのです。
そういった考え方で、第二話の「個性」と「大人」の問題は調停されていたのではないでしょうか。

結論として、漫画第五巻の双海亜美編は、「大人」と「個性」の間の問題が扱われた、
アニメ第二話との関係においても読まれるべきものであったと思います。
亜美の「個性」は、「大人」というイメージと対立するものではなく、
むしろその中に「大人」と「子ども」のイメージの双方を含むものであったのです。
そう考えると、「大人」と「個性」のうち後者を取ったように見えた、アニメ第二話の本意を見えてきます。
すなわち、そこでは「大人」であることに拘って、「個性」をないがしろにすることが否定されたのであり、
決して「大人」のイメージと区別された「個性」が肯定されたわけではなかったのです。

このように、アニメ第二話のテーマを再発見することができる漫画五巻双海亜美編でした。


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テーマ:アイドルマスター
ジャンル:アニメ・コミック

何かに成り切れないからこそ主人公であるということ ――あかりと京子の対照性から (『ゆるゆり さん☆ハイ!』第十二話考察)

2016.01.17 11:38|ゆるゆり
今回は、先日最終回を迎えました『ゆるゆり さん☆ハイ!』から、
『ゆるゆり』という作品について改めて考えてみたいと思います。
テーマは、あかりが『ゆるゆり』の主人公であることについてです。
アニメ三期第十二話は、このことを改めて強調するものであったと言えると思います。
最後の京子のごらく部の面々に対する気持ちの告白が、
あかりと京子の差異を浮き彫りにして、
主人公としてのあかりを間接的に描き出していたのです。
この記事では、第十二話の京子の語りから話に入って、
あかりが『ゆるゆり』の主人公であることについて考えたいと思います。
けだし、あかりは京子のようにきっちり主人公然とはしていられないからこそ、
この『ゆるゆり』という作品の主人公であったのではないでしょうか。
もしよろしければ、お付き合いいただければ幸いです。

アニメ三期は京子の語りで締めていましたが、
これは「なちゅやすみ」の最後のあかりの語りに対応していると思います。
そこからの一連の流れの中で、今回のアニメは、
あかりを『ゆるゆり』の描く世界の主役として表す一方で、
京子をごらく部の主役として、対置させていた気がします。


他方で、原作においても確かに描写され、かつ、前回のアニメが強調したような、
あかりの「主人公にまだ成り切れない主人公」の側面を保持して、
例えば「なちゅやすみ」と噛み、
例えば第十二話で「主役」を最後にカモに取られるあかりの姿をも描いているのが、
今回のアニメであったと考えられます。
第十二話の京子の語りでは、あかりのように噛むようなことはありませんでした。
これによって、あかりが噛んで、きっちり締められなかったことが際立ってきます。

つまり、今回のアニメはあかりを、「ごらく部の主役」としての京子に対置される、
『ゆるゆり』の主人公として提示しながら、同時に、
「どこか主人公になり切れない主人公」としてあかりを描き出していると言えます。
特に今回のアニメでの重要な視点であったのは、前者の側面であった気がします。

そう考えると、三期第一話の話のチョイスは、
まさしく最終話のその対照を際立てるためのものであったと読めなくもありません。
そこでは、一方で、話の中心にいてゲームを提案するなりして盛り上げる京子が描かれ、
他方で、花子に対してお姉さんに成り切れないあかりが描かれていました。

最終話に繋がる対照です。

私は、あかりの「主人公でありながらまだ主人公になり切れない」側面は、
『ゆるゆり』という作品の根幹に関わっていると考えています。
とはいっても、よく言われるように、あかりが主人公なのに「空気」であることが、
『ゆるゆり』の根幹にかかわると考えているわけではありません。

そうではなくて、「何かに成り切ることができない」あかりの側面こそ、
『ゆるゆり』の根幹に関わる要素であって、
それゆえにあかりは主人公であると思うのです。
あかりのそういった側面が、敢えて「ゆり」に「ゆる」を付した、
『ゆるゆり』という作品における象徴であると言えると思います。

あかりの「何かに成り切ることができない」側面
――その一つの表現が、特に主人公に成り切れないことです――は、
あかりが「まだ未成熟」であること、換言すれば、
これから成長し得ることを示唆する特徴です。
この未成熟性は、花子に対してお姉さんに成り切れない話で顕著でした。

『ゆるゆり』という作品は、見方によっては、
そういった「未成熟性」があってこそ「”ゆる”ゆり」であるに違いありません。
「ゆり」があることを前提に、そこに「ゆる」を付した同作品にて描かれる百合は、
「まだ未成熟」な百合であると考えられます。

「まだ未成熟性な百合」と言っても、それは、
単に今後更に展開し得ると言ったニュートラルな意味であって、
作中で描かれる種々の想いが形容なしの「百合」には劣ると言った意味では絶対にありません。
その意味で、百合にまだ成り切れず、成り切らない百合なのです。

そして、そういった意味で「ゆるい百合」を描く『ゆるゆり』に対応して、
「ゆるい主人公」として存在するのがあかりに他ならないのです。

あかりが、百合に関連しても、最も象徴的な「ゆるさ」、
「成り切れなさ」を抱えていることは言うまでもありません。

あかりについては、専ら主人公に成り切れない所謂「空気」な側面が取り沙汰されがちですが、
それは実は、あかりが『ゆるゆり』の主人公として有するところの「まだ何かに成り切れない」、
「まだ未成熟な」側面の、一つの現れ方であるのではないでしょうか。



○関連記事

    あかりと花子の関わりの中に見出せること
      ――意識せずお姉さんらしく振舞えるあかり (第一話)
    想いゆえに、一歩踏み出すことと踏みとどまること (第七話)


テーマ:ゆるゆり
ジャンル:アニメ・コミック

劇中劇に見る『アイカツ!』のアイドル観 ――アイドルカツドウに外せない絶対 (アイカツ!第159話考察)

2016.01.11 15:54|アイカツ!
今年も、昨年に引き続き『アイカツ!』について考えていきます。
今回は、『アイカツ!』における劇中劇、
特に第122話における「ヴァンカツ」と第159話における「オオゾラッコーン」に着目します。
この二つの話の中においては、
あかりたち主人公側とそれに対峙する勢力が登場しますが、
その対立の中において、『アイカツ!』のアイドル観とでも言うべきものが表れています。
この記事では、これを明らかにしていきたいと思います。
もしよろしければ、お付き合いいただければ幸いです。

第122話における「ヴァンカツ」も第159話における「オオゾラッコーン」も、
その劇中劇における敵方が何故敵方なのかと言えば、
それが当人の意思にかかわらずアイカツに一定の制限を与えるためであると考えられます。
いずれの劇中劇においても、洗脳のような強引な手法によっているからこそ敵方なのです。

とは言え、第122話も第159話も、敵方との戦いというのは、
意思にかかわらず自分たちに従ってもらおうとする絶対主義的な立場と、
それに対抗する相対主義的な立場という図式では捉え切れない部分があって、
そこに『アイカツ!』のアイドル観が表れている気がします。

例えば、第159話においては、ジャージ絶対なジョニー側と、
ジャージもいいけどドレスもありというスターライト側の戦いを描いているのですが、
後者は完全に相対的であるということではなく、
アイドルはステージの上ではドレスであるべきという点については譲っていないのです。

つまり、スターライト側がドレスを肯定しジャージを否定する立場ではないことは、
「ジャージも機能的でいい」というような劇中の台詞で幾度か強調されているのですが、
だからと言って、ステージの上でもジャージで臨むということは想定していません。
そこにスターライト側の譲れない考え方が表れています。

よって第159話は、「ジャージ絶対の立場」対「ジャージもドレスもという相対的立場」、
という図式の戦いと言うと正確ではなく、
後者は「ジャージは練習でドレスは本番で」という点においては、
ある意味では前者に劣らないくらい絶対的に、自然とそういうものであると考えているんですよね。

ここにおいては、例えばジャージがすごく大好きで、
ステージにもジャージで臨みたいというような特異なアイドルを想定していません。
「ステージではドレス」という譲れない感覚がスターライト側にはあって、
そこにおいてはこちらも相対的な立場ではないのです。

同様の考え方は第122話にも見出せて、そこでは「下僕としてヴァンカツすること」と、
「自分の意思で自由にアイカツすること」が対置されているように見えて、
決してそればかりでは片付けられない部分がありました。
アイカツ側は、スポットライトの下に全く出ないアイドルを認めていない嫌いがあったのです。
つまり、劇中の学園長の台詞から分かるように、
ヴァンパイアになってはいけない理由として提示される最たる理由は、
ヴァンパイアがスポットライトの下に出られないためでした。
そしてその考え方の基底には、
アイドルはスポットライトの下に出るものであるという考え方があります。
やはりそこでも、全くスポットの下に出ないで、
ラジオや執筆活動しか行わないアイドルというものは想定されていません。

ここで二つの劇中劇を合わせて見れば、
アイドルは、スポットライトの下に出て行くものであり(第122話)、
ステージではドレスを着るものである(第159話)という一定の考え方があると言えます。

それでそこから結局何が言いたいかというと、
『アイカツ!』は、「これってアイカツか?」という有名なやり取りの中で、
割と何でも「アイドルカツドウ」の範疇に含んでいく作品なのですが、
それでもその活動には一定の中心があるということを、この二つの劇中劇に見出せるということです。

つまり、アイドルは「スポットライトの下に出て行くもの」であり(第122話)、
ステージでは「ドレスをまとうもの」である(第159話)ということは、
「アイカツ」に割と何でも含んでいく『アイカツ!』においても、
少なくとも現時点においては、「外せない絶対」として表れているのです。



○関連記事

   出会いが変える「わたし」と「ステージ」
    ――「空」に重ねられるあかりというアイドル (第百五十三話)
   冒険としてのアイカツと邁進としてのアイカツ
    ――敢えて挑まないユウが示したこと (第百五十五話)
   ののとリサの「手を繋いで行く」という在り方
    ――奔放に、かつ、着実に進むために (第百五十七話)


テーマ:アイカツ!
ジャンル:アニメ・コミック

アトリエシリーズが「世界を救うこと」を描く意味 ――「夢を叶えること」の延長線上に

2016.01.02 14:15|アトリエシリーズ
今回は、特定の作品ではなく、アトリエシリーズ一般について考えます。
テーマは、「アトリエシリーズが世界を救うことを描くこと」についてです。
アトリエシリーズは、「世界を救うのはもう辞めた」、
「世界を救うより大事なこと」をキャッチコピーに、
世界を救う王道のRPGから距離を取って、
主人公の錬金術士が人との関わりの中で成長し、
夢を叶えていく様を主に描いていく作品です。
昨年は、新地に舞台を移した『ソフィーのアトリエ』が、
十七番目のナンバリングタイトルとして発売されました。
この作品の発売に当たっては、プロモーションムービーにおいて、
「そろそろ世界を救うのにも飽きてきた。」という言葉が掲げられています。
ここに、第一作目のキャッチコピーが、幾年も隔てた現在においても、
シリーズ内で未だに生き続けているということを見出せます。

しかし、それにもかかわらず、アトリエシリーズは、
「世界を救うこと」と見なせることを度々描いてきました。
先述した『ソフィーのアトリエ』においても、その物語のクライマックスは、
やはり彼女たちの世界を守り、救うというところに帰着したのです。
これらのことを如何に考えるかということは、
アトリエシリーズに触れ、同シリーズを考えるに当たって、
避けることができない極めて重要な疑問と言えます。
アトリエシリーズが「世界を救うこと」を描くとき、
それは第一作目のキャッチコピーである「世界を救うのはもう辞めた」に、
あるいは「世界を救うより大事なこと」に背いて、
別の事柄を描いていると考えるべきなのでしょうか。

この記事では、このことについて私見を明らかにしようと思います。
けだし、この問いに答えるためのヒントとなるのは、
第一作目の『マリーのアトリエ』から、
第二作目の『エリーのアトリエ』への間における微妙な変化です。
まずはここから、先の問題について思索を始めてみることにしましょう。
シリーズ経験者の方は、これまでの作品を思い出しつつ、
シリーズ未経験者の方は、もし万一いたとしたら、
アトリエシリーズの大枠の紹介文を読む気持ちで、お付き合いいただければ幸いです。

さて、アトリエシリーズにおいて、
自分の夢を叶えることが何故「世界を救うより大事なこと」なのかという理由については、
『マリーのアトリエ』から『エリーのアトリエ』への間に微妙に変化している気がします。
『マリーのアトリエ』のときは、純粋に世界を救うことを対岸に置いて、
対立する二項として明確に捉えていました。

これは、『マリーのアトリエ』の冒頭の語りに表れています。

「光と闇、秩序と混沌 そして剣と魔法の入り交じる世界があった
 伝説的な英雄と世紀末的な怪物が激しくぶつかり合う世界……
 今まさに、世界の興亡は彼ら――選ばれた者たちの手に委ねられようとしていた
 だが――そんな英雄物語は彼らに任せておけばよいのだ
 世界の大半の人間には英雄も怪物も関係ない
 自分たちに出来ることをやり 今日を平和に生きることが出来れば
 皆それで満足なのだから……」 (『マリーのアトリエ』)


これに対して『エリーのアトリエ』においては、
冒頭の語りの立ち位置が変化しています。
というのも、勇者も錬金術士も、初めは無力でしたが、
夢を追い続けたからこそ名を残すことになったという具合に述べて、
世界を救うことに深く関連する「勇者」を対岸に置かずに、
自分の夢を叶えることの中に内包しているのです。


「初めは誰もが無力だった。
 不死身の勇者も、高名なる錬金術士も、王室料理人も
 初めは何の力もないごく普通の人間だったのだ。
 だが、彼らは誰よりも夢や希望を強く抱き、追い続けた。
 だからこそ世に名を轟かすほどの存在になれたのだ
 夢は追いかけていればいつか必ず叶うものなのだから・・・」 (『エリーのアトリエ』)


こういう転換を踏まえて鑑みると、「世界を救うのはもう辞めた」というのは、
世界を救うことは夢を叶えることの対局にあるという意識の下に後者を取るのではなく、
世界を救うことは夢を叶えることに内包されるという意識の下に、
後者に作品のテーマの根を置くということなのです。
「世界を救うこと⇔夢を叶えること」でなく、
「世界を救うこと<夢を叶えること」という図式がそこにはあります。

ゆえに、アトリエは「夢を叶えること」を描く作品として、
当然「世界を救うこと」から剥離し得るのですが、
同時に「夢を叶えること」を描く中で、
「世界を救うこと」に近いことをやってのけるということも、ままあり得るのです。

よって、アトリエが世界を救うことに近いことを描いたとして、
それが、当初の世界を救うより大事なことというテーマに背いていると直ちには言えません。
実際、(場合によっては結果的に)町を救うというようなことは、
魔王や巨大ぷにの件等、ザールブルグの頃から描かれてきました。

その一見、矛盾に満ちた展開を説明する理屈は、
「世界を救うこと⇔夢を叶えること」という考え方にはなく、
「世界を救うこと<夢を叶えること」という考え方にあると思います。
アトリエシリーズのテーマは、たとえ世界を救うことを描いたとしても、
結局のところそこに落ち着いているような気がするのです。

結論として、アトリエシリーズが「世界を救うこと」を描いた場合、
それは「世界を救うのはもう辞めた」という言葉に表れているテーマに、
直ちに反しているというわけではないと解せられます。
アトリエシリーズが描く「世界を救うこと」は、
それすら包摂する、より広いテーマであるところの、
「夢を叶えること」の延長線上に描かれているに過ぎないのです。

現に『ソフィーのアトリエ』においても、「世界を救うこと」は、
ソフィーが夢を叶えていく過程に位置づけられていたと考えられます。
「世界を救うこと」の裏にある、主人公たちの成長や夢こそが、
アトリエシリーズにおいてテーマとされているものなのです。


テーマ:アトリエシリーズ
ジャンル:ゲーム

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