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誰かの姿を見て、自分の気持ちを言い、当事者になるということ ――『屋上の百合霊さん』の二つのテーマ (漫画『屋上の百合霊さん』)

2015.11.23 19:51|百合作品
今回は、ゲームから三年目に発売された漫画作品、
『屋上の百合霊さん SIDE A』と『屋上の百合霊さんSIDE B』を紹介します。
二人の幽霊と一緒に密かに片想いを応援していくというコンセプトで、
個々の関係を描いたゲーム『屋上の百合霊さん』の後日談的な作品です。
これらの作品は、ゲームにおける物語の舞台において、
新たな関係が紡がれていくまでをそれぞれ描いています。
今回は、これらの作品がゲームの『屋上の百合霊さん』の扱っていたテーマを、
それぞれに受け継いでいたということを記述的に指摘したいと思います。

まず、『屋上の百合霊さん SIDE A』については、
『屋上の百合霊さん』が有する結奈が個々の背中を押す側面と、
結奈が語れなかった気持ちを自ら語る側面のうち、
後者を形を変えて取り上げた作品であると捉えられます。

つまり、比奈や聖苗の姿を見て、やがて告白に至った栞は、
校内のそれぞれの恋愛を外側から見続けて、
やがて自分の気持ちを比奈に吐露するに至った結奈と重ねられる部分があり、
「誰かの姿を見て、自分自身も自分の気持ちを言う」ことを扱っているところが、
『屋上の百合霊さん』を思い出させるものであったと思うのです。

というのも『屋上の百合霊さん』は、当初ユリトピア建設という目標を掲げて始まりながら、
ユリトピア建設が果たされたところで終わりとなるわけではありません。
いつからか目指す方向は、これまで言えなかった自分の気持ちを言うことにすげ変わります。
その告白の場面が、重要な場面として浮かんでいる形になっているのです。

「自分の気持ちを言う」ということは、当然恋愛の告白を含みますが、
それに限らず、例えば自分の過去の辛い体験の吐露などを含みます。
結奈が比奈に対して料理部のことを語る場面が印象的です。
むしろ、こういう恋愛の告白でない率直な告白の場面こそ、
『屋上の百合霊さん』の特筆すべきところなのではないかと思います。

そうして終盤まで進めて分かるのは、
百合霊さんはユリトピアを建設する物語ではなくて、
自分の気持ちを語れなかった三人が出会って、誰かの背中を押すうちに、
自分の気持ちを語れるようになっていく物語だったのだということです。

結奈もサチも恵も言えない気持ちを持っていたんですよね。

そのため、百合霊さんは大きく分けて、
結奈たちがお節介にも誰かの背中を押す側面と、
結奈たちが言えなかった自分の気持ちを言う側面があって、
いわばこの二つがテーマであったと見なせるのですが、
今回は前者が「SIDE B」に、後者が「SIDE A」に託されている感じであったと思います。

それでは、今度は『屋上の百合霊さん SIDE B』を考えてみましょう。
「先輩達を観察して楽しんでいた人が立ち入ってもいいのかな」(95)という言葉から分かるように、
千英たちは外側から観察する立場ではいられなくて、
内側へと線を跨いでいくことになります。

ゲーム中ではこの辺りのテーマは、
他人の恋路に介入することにいい顔をしなかった結奈が、
渋々追っているうちに他人事ではいられなくなって、
結局背中を押してしまうような場面に表れていたと考えられます。
観察するだけの立場から一歩踏み越えることがテーマの一つであったのです。

ゲーム中では、そういう「観察者からの越境」を描いた上で、
更に「非当事者からの越境」を描いていくことになります。
つまり、結奈は観察するだけでなくて、手助けする立場に回ったとしても、
そこでは依然、自身を当事者には設定していませんでした。
結奈は恋愛をする側でなく、あくまでその外側に自分を置いていたのです。

結奈は、そこから自分も恋愛をしていく側に回っていきます。
この『屋上の百合霊さん SIDE B』も、こういった本編の流れを汲む物語です。
すなわち、専ら先輩たちの観察者であった千英と時乃が、
観察するだけでいられなくなって先輩たちの背中を押す立場に回り、
そして更に――というところで終わるのです。
『屋上の百合霊さん SIDE B』が描いているのは、
「誰かの姿を見て、内側に入り込んで当事者になる」ことと言えます。

本編後の「おまけの百合霊さん」も、千英と時乃が先輩たちのことについては、
単なる観察者でいられなくなったことを示すものになっていると思います。
つまり、他の本編メンバーについては普通に観察して考えることができているのですが、
七津希については全然できていません。
「おまけの百合霊さん」において、千英と時乃が従前とおり観察と妄想をしていく中で、
ただ七津希についてだけは今までとおり観察と妄想することができなくなっているのです。

二人にとって先輩たちのことは、よもや他人事でないので、かつてのように振舞えません。

結論として、『屋上の百合霊さん SIDE A』と『屋上の百合霊さん SIDE B』は、
ゲームの『屋上の百合霊さん』でテーマになっていたことを、
それぞれに再び表していく内容になっていたと言えると思います。
つまり、前者は「誰かの姿を見て、自分も自分の気持ちを言う」ことを、
後者は「誰かの姿を見て、内側に入り込んで当事者になる」ことを描いていました。
その意味で、これらの作品は『屋上の百合霊さん』らしかったと言えるのではないでしょうか。


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テーマ:漫画の感想
ジャンル:アニメ・コミック

冒険としてのアイカツと邁進としてのアイカツ ――敢えて挑まないユウが示したこと (アイカツ!第155話考察)

2015.11.15 16:43|アイカツ!
今回は、『アイカツ!』第155話について考えたいと思います。
ルミナスがののとリサとともにジュエリーのCMオーディションに挑戦する本話。
「宝石」は、今期のドレスのデザインの要に据えられているため、
誕生石の話が出てくる等、今後に響いてきそうな話でもありました。
この中で注目するのは、久々に登場したユウのことです。
第155話であかりたちを手助けするためにひょっこり現れたユウは、
あの話であかりたちが示していたアイカツの形とは別の、ある意味で真逆とすら言える、
アイカツのもう一つの形を示すために登場していたと思います。

単に、ユウが中心となる第156話に繋ぐためだけに、
第155話で登場していたわけではないのではないでしょうか。
ユウは、ユウの位置からでないと示せないアイカツを示していたのだと思います。
この記事では、このことについて取り上げていきます。

それでは、ユウが示していたアイカツについて考えてみましょう。
まず、第155話であかりたちは、
ひなき以外はときめきカラットの名前すら知らなかったかも知れないところから分かるように、
元々あまり縁のない領域に勉強して臨む、
『lucky train!』の歌詞で言うところの「冒険」としてのアイカツを示していたと思います。

そういうあかりたちに対して、ユウは、普段からジュエリーデザインをしていて、
元々宝石について結構知っていそうなのにもかかわらず、
敢えてときめきカラットのオーディションは受けずに、
あかりたちを助ける役を買って出ていました。
あかりたちのように、知らないから勉強して挑むということの逆である、
知っていて敢えて受けないことを提示していたのです。

ユウがときめきカラットのCM撮影のオーディションを受けない理由は、
それが、ユウの中でやってみようと思う活動に入っていないからではないでしょうか。

でなければ、自分でやってみたら面白いかもと思って始めた、
ジュエリーデザインと同じように自分でやってみていたはずです。

あかりたちと異なり、宝石について結構知っていただろうユウが、
オーディションを受けないというアンバランスにより強調されるのは、
一方で知らないから勉強して挑むあかりたちの姿であり、
他方でユウが敢えて挑まなかったこの理由であったと思います。
ユウは、アイドルとして自分のアイカツを選択していたのです。

これは、自分のアイカツを決めて、そこに突き進んでいく、
「邁進」としてのアイカツとでも呼び得るものかと考えます。
あかりたちは、知らない領域に勉強して進んで行く「冒険」としてのアイカツを示したのに対し、
ユウは、自分の決めた領域に突き進む「邁進」としてのアイカツを示したのです。

こうした「邁進」としてのアイカツは、あかりたちもこれまでに示していて、
例えばスミレがモデルでなく歌を選ぶ第117話は印象的であったかと思いますが、
それ以上に、というより、『アイカツ!』史上最も強烈であったのは、
スターアニスに加わらなかったしおんであったような気がします。
物語中でしおんが敢えて加わらなかった理由を、
大人の事情などという一言で済ませたりせずに、真面目に考えるのならば、
それは彼女には彼女の選んだアイカツがあったからに他ならないでしょう。
あのときのしおんのように、物語のメインストリームにある、
オーディション等を選択しないことにより強調される「彼女たちの」アイカツがあるんですよね。

第155話のユウは、まさしくそれを示す立ち位置で登場していたに違いなかったと思います。

自分に関わりのなかった領野に勉強して挑戦していく、
「冒険」としてのアイカツとでも呼べるものがある一方で、
自分が選択した道をまっすぐに進んで行く、
「邁進」としてのアイカツとでも呼べるものがあり、
その両面を描いていくのが『アイカツ!』という物語なのではないでしょうか。



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テーマ:アイカツ!
ジャンル:アニメ・コミック

ののとリサの「手を繋いで行く」という在り方 ――奔放に、かつ、着実に進むために (『アイカツ!』第157話考察)

2015.11.08 08:50|アイカツ!
今回は、先日放送された『アイカツ!』第157話について考えます。
ののとリサがプレミアムドレスでステージに臨むまでを描いた本話。
着目したいのは、二人がプレミアムドレスをもらいに行く過程において描かれた、
二人が前に進んで行く際の流儀とでも言えるようなものです。
当初リサは、駅に着いたときの「ののっち、しっかり付いてき――」という言葉から分かるとおり、
目的地に向かうために、ののが自分の後を付いてくる形を想定していましたが、
最終的にはののと手を繋いで一緒に歩いていく形を選択しています。

aikatsu17.png
 二人は、ハプニングを経て、手を繋いで行くことを選択する。

このことには、その方がはぐれないといった、
必要上の意味以上のものが見出せると思います。
二人が前に進んで行く際の流儀として、
「手を繋いで一緒に行く」ことが提示されているのではないでしょうか。

つまり、ののとリサの「二人で歩んでいく」ということの方法として選択されたのが、
当初リサが想定した、「リサにののが付いていく」ではなく、
実際に期せずしてそうなった「奔放なののの後をリサが追いかけていく」でもなく、
「手を繋いで一緒に行く」であったこと自体にテーマを見出せるのではないかと思うのです。

「手を繋いで一緒に行く」という在り方は、
一方が引っ張っていく立場で、他方が引っ張られていく立場という具合に、
立場を固定しないということであると捉えられます。

第157話は、開幕のタイを直す場面からリサの主体性を強調しながら、
彼女が常に引っ張っていく立場ではないことを描いたのです。

何故、リサが引っ張っていくのでもなく、ののが引っ張っていくのでもない、
二人が手を繋いで一緒に行く在り方が選択されたかを考えてみると、
それは、二人の「冒険」には、一段一段階段を上がっていくリサの着実な方法も、
一歩で一気に進むののの奔放な方法も必要だからであると考えられます。

このことがよく示されていたのが、第154話と第155話の、
ののとリサの間の対照的なやり取りでした。
第154話の冒頭で、リサがアイドルになることをののに語る場面と、
第155話の中盤でののとリサが今日あったことを振り返りつつ、
明日に向けて決意を新たにする場面です。

「私も、真剣にやってみたい!
 アツいアイドルカツドウ、アイカツを!」
「アイカツを真剣にやるって……
 リサっぺ、本物のアイドルになるってことー!?」
大空さんたちみたいになんてなれないかも知れないけど
なれるよリサっぺ! なれる!」 (第154話)


「一日があっという間だったね」
「うん。北海道にいた頃とは時間の進み方が違うみたい」
「でもわくわくするよね。明日はどんな新しいことが待ってるんだろうって。
 よーし、目指せトップアイドル!
それはさすがにすご過ぎない?
うーん。じゃあ、目指せ初仕事!
「そうだね。早くお仕事して、北海道のみんなに――」 (第155話)


前者は、リサが「大空さんたちみたいになんてなれないかも知れないけど」と言ったのに対し、
ののが「なれるよリサっぺ! なれる!」と軌道修正する場面で、
後者はののが「目指せトップアイドル!」と言ったのに対し、
リサが「それはさすがにすご過ぎない?」と軌道修正する場面となっています。
この二つの場面に見出せるのは、
リサは現実的であるゆえに、踏み出す一歩が小さくなり過ぎ、
ののは楽観的であるゆえに、踏み出す一歩が無理に大きくなり過ぎることが有り得るのですが、
それをお互いに治癒することができるということです。

二人でいれば、奔放に、かつ、着実に踏み出せるのです。

第157話は、このように第153話と第154話でさりげなく示されていたテーマを可視化する話で、
リサがいなければそもそも目的地に辿り着けなかったでしょうが、
ののがいなければハプニングに出会うこともなかったでしょう。
『lucky train!』が歌うように、何かちょっと間違えちゃって、
宝物に出会うことはなかっただろうと考えられるのです。

そういったテーマを踏まえて、
リサが引っ張るのではなく、ののが引っ張るのでもなく、
「二人で手を繋いで一緒に行く」ことが選択されたと考えられます。
そうして一緒に歩くからこそ、ののとリサは、
着実に、かつ、奔放に、補い合いながら前に進んで行くことができるのではないでしょうか。



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テーマ:アイカツ!
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ウィルベルに見出せるフィルツベルク魂 ――痩せ細った黄昏の大地で (エスカ&ロジーのアトリエ)

2015.11.01 16:39|アトリエシリーズ
今回は、ちょうどアトリエシリーズの最新作が今月に発売するということもあるので、
『エスカ&ロジーのアトリエ』におけるウィルベルのイベントについて考えたいと思います。
注目するのは、コルセイトにやって来たウィルベルが、
自分で作った魔女のお菓子を、地元の子供たちに配るイベントです。

これは、特に重要な意味を持っているようには見えないイベントですが、
『アーシャのアトリエ』のイベントを踏まえて考えてみると、
極めて重要なテーマを描いたイベントであることが分かると思います。
この記事では、短くはありますが、そのことについて指摘していきます。

それでは、このイベントについて考えてみましょう。
考える上で重要なのは、『アーシャのアトリエ』におけるイベントのうち、
かつてフィルツベルクを襲った食糧難に関するものです。
ハリーは、アーシャに食糧難の時代があったことを語ります。

「そうだね。掘り出し物合戦で、君に戦いを挑むも連戦連敗…。自分を見つめ直したくなって、ここに来たというわけだよ。長年見慣れた風景だ。そしたらふと、昔の事を思い出してしまった。昔話になるんだけどね。ボクの話、聞いてくれないか?」
「昔のお話ですか。わたしでよければ、お聞きします。」
「ありがとう。あれは、今から30年も前になるかな。まだ君が生まれてもいない頃、この街も今ほどは大きくなく、ボクもまだ子どもだった。その頃は凶作が続いていてね、多くの人が飢え、食べる物に困る年が多くあった。ウチは代々商会をやっていて、それなりに裕福だったんだけど…。それでも、食に関しては我慢しなければならない事が多くあったんだ。」
「そんな時代があったんですね…。」
「うん。それでもボクの母親は、何とか工夫して、ボクにお菓子を作ってくれた。腹一杯には食えない時代だから、せめて味はと考えてくれていたのだろう。ふふ。母は強し、というところかな。時代は流れ、大人になってそれなりに食料が供給されるようになり、少なくとも空腹に困る事はなくなった。けど…。あのとき、母が作ってくれた、お菓子の味が、忘れられなくてね。」
 (『アーシャのアトリエ~黄昏の大地の錬金術士~ シナリオコレクション』、170ページ)


ハリーはこのときの経験を受けて、十年後に再度生じた大凶作の際には、
私財を投げ売って食糧を集め、飢えた人々に分け与えたと言います。
このときの大凶作のことを、フレッドがアーシャに語っています。

「うん。ハリーさんの思い出の焼き菓子、何とかなるかもしれないな。それにしても、あの大凶作の年は、私もよく覚えているよ。当時、私は12歳かそこらだったかな。その年は本当に穀物が獲れなかったんだ。元々、実りが少ない土地だから、蓄えもない。飢える人も多かったんだよ。そんな中、ハリーさんから食料を託されたパン職人…私の師匠が貧しい村を回って、パンを焼いては配っていたんだ。私も、当時パンをもらった一人だよ」
 (『アーシャのアトリエ~黄昏の大地の錬金術士~ シナリオコレクション』、172ページ)


そしてフレッドも、このときの経験を受けて、
今度は自分が気前よくパンを配る側として登場しています。
ウィルベルにパンを無料であげる場面は印象的です。

「うわあ! なになに? ただパンを見てただけ! 別に悪いことなんかしてないよ?」
「おびえることはない。…さあ、このパンを食べなさい。」
「…くれるの? あたし、お金持ってないよ?」
ははは。次は買ってくれればいいよ。お腹が空いているんだろ?私の作ったパンで良ければ、さあ、食べておくれ。ほおら、このネコさんパンは甘くて君くらいの子供に大人気なんだよ。」
 (『アーシャのアトリエ~黄昏の大地の錬金術士~ シナリオコレクション』、194ページ)


この後、ウィルベルは一貫してフレッドにパンをもらう側として登場していきます。
ウィルベルが近所の子供たちにお菓子をあげるイベントは、
ちょっとしたイベントのように見えて、かつてフレッドにパンをもらっていた、
ウィルベルがお菓子をあげるというところに大きな意味があります。

あのイベントでウィルベルは、フレッドのような、
「フィルツベルクの人」として現れていたと言えるのではないでしょうか。

食糧難の黄昏の大地で、かつてフレッドがハリーと彼の師匠にやってもらったように、
パンを気前よくウィルベルたちに振る舞ったのと同様に、
ウィルベルもまた、作るのに労力がかかると渋っていたはずのお菓子を、
気前よく子どもたちに振る舞っているのです。
これにより表されているのは、ウィルベルが成長して、
振る舞ってもらう側から振る舞う側へと転換したということだけではありません。
痩せ細っていく黄昏の大地と、それに対抗してきた人の繋がりも、
このイベントによって示されていると考えられます。

『エスカ&ロジーのアトリエ』においても、例えば酒場関係のイベントで、
食糧の少なさは問題として提示されています。
そのような大地でウィルベルがお菓子を配るというところに、
ハリーやフレッドに見出せる「フィルツベルク魂」とでも言うべきものが見出せます。
ウィルベルは第一に魔女として登場してくる少女ですが、
『エスカ&ロジーのアトリエ』では、あの町の一員であった者としても登場しているのです。

『アーシャのアトリエ』も登場人物それぞれの生き方を描いていましたが、
『エスカ&ロジーのアトリエ』では、そのそれぞれの生き方が、
不可避に「黄昏の大地」と結びついているということが、
より鮮明に描き出されていた気がします。
そういった大地の上で生きるからこそ、
このように生きているのであるという感じが強いのです。

例えばルシルの薬を配って各地を回るエンディングは、
アトリエシリーズ全体としてはマリーとエリーを思い出させますが、
ルシルの場合、その生き方は彼女の生きる「黄昏の大地」と切り離しては考えられません。
病に苦しむ人を助けて回るという道は、彼女の生い立ちからだけ出て来たものではないのです。

一言で言えば、一作目が示したのが「黄昏の大地の上で」このように生きるということだとしたら、
二作目は「黄昏の大地だから」このように生きるということであったと思うのです。
ハリーやフレッドのような生き方が多く示されています。
公務に携わる人が多かったということもあるのかもしれません。
そうした『エスカ&ロジーのアトリエ』という作品の中で、
ウィルベルもまた、特に子供たちにお菓子を配る場面において、
黄昏の大地で生きるからこその在り方を示していたと思います。

本人はあまり意識していなさそうですが、凄まじい食糧難の時代を経験して、
そのとき助けられたからこそ、今気前よく助けるハリーやフレッドの先に、
ウィルベルもいたのだと考えることができます。
痩せ細った黄昏の大地で、繋がってきた「フィルツベルク魂」です。
大地の斜陽の時代において、こうしたやり取りが人の関係を通して繋がっていくということが、
黄昏三部作に通底してきた温かいテーマであったのではないでしょうか。


テーマ:アトリエシリーズ
ジャンル:ゲーム

プロフィール

Author:天秤
天秤と申します。
アニメや漫画など、好きなものについて考えたことを書き込みます。
よろしくお願いいたします。

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