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穂乃花が望むカレンとの関係 ――つい出てしまう従者的態度の裏に (ハロー!!きんいろモザイク:第十一話考察)

2015.06.28 19:43|きんいろモザイク
今回は、『ハロー!!きんいろモザイク』第十一話について考えます。
アリスとカレンのイギリス帰国前夜の光景と、
帰国した後の、忍たちの過ごすほんのすこしの長い夜が主な内容でした。
特筆に値するかと思うのは、前半で、カレンと穂乃花の関わりが、
大きく時間を割いて挿入されていたことです。
ここにおいて穂乃花は、非常に重要な問いをカレンに投げかけています。
公園でクッキーを食べた後、池沿いを二人して歩いていく場面です。

「私… ときどき思うんだ。もっと前にカレンちゃんに会ってたらなって。
 もっとみんなみたいに… 親友になれてたのかなって
「私にとってホノカは 今もベストフレンドデスよ!」
「カレンちゃん… ありがたき幸せ!」 (二期第十一話)


ここにおいて、穂乃花がカレンに望む関係が明らかにされていると思います。
穂乃花はカレンの高貴さの前に、つい従者的な態度で接してしまいますが、
本当に望むのは従者の位置ではなくて、親友の位置に他ならないのです。

今回は、この二期第十一話の穂乃花の台詞が、
単行本上の話での言動を基にしていることを指摘したいと思います。
穂乃花のカレンの親友になりたいという心情は、
単行本上の話における言動の上に、確かにあったものではなかったでしょうか。
もしよろしければ、原作やアニメのこれまでの話を振り返りつつ、
一緒にカレンと穂乃花の関係に思いを馳せていただければ幸いです。

※ コメントでの御指摘を踏まえ、一部修正いたしました。(七月五日)



さて、第十一話は、穂乃花がカレンに対して従者的反応をとる様を繰り返し描くことで、
最後の、「親友になれていたのかな」を際立てていた気がします。
穂乃花は、自分とカレンを思わず主従のごとき関係で捉えてしまいますが、
本当はカレンの隣に並びたいのです。
この第十一話の穂乃花の台詞は、先ほども申し上げたとおり、
その基となる穂乃花の心情は単行本上の話でも既に描かれていました。
以下、具体的な場面に注目して見てみることにしましょう。

印象的なのは、アニメで言えば二期第九話で、
カレンがおもちゃの五千円札で額の汗を拭く真似をしたときに、
穂乃花が対抗して五百円玉で額を拭く場面です。

「それにしても今日は暑いねー」

「お金で汗を… 何かいやらしいよ!」

「しかもこれオモチャだよね」
「あたりまえデス」
――さすがお姫様だよー 私も…

「どうして張り合ってるの!?」 (二期第九話、第四巻75ページ)


この穂乃花のカレンへの対抗心は、主従の論理では説明できません。
つまり、仮に穂乃花がカレンとの関係を、
主従関係として甘んじて受け入れているのだとすれば、
この場面でカレンに対抗する行動に出ることは考え難くはないでしょうか。

ここで穂乃花はカレンに、従者らしからぬ明らかな対抗心を持っていています。

この穂乃花の対抗心は、一見アリスが言うように意味不明なのですが、
カレンの横に並びたいという穂乃花の心情の現れと考えると、
結構合点がいくのではないかと思います。
カレンの従者の位置ではなく、隣の位置に立ちたいからこそ、
カレンに対抗して同じ行動を取ろうとしたのではないでしょうか。

また、単行本上ではもう一つ、同様の理屈で理解できそうな穂乃花の行動があります。
すなわち、アニメでは二期第六話、カレンたちが穂乃花の家にパフェを食べに行く話で、
穂乃花はカレンが制服を着てバイト体験を始めたときに、
その優雅な物腰を見て、「私も見習わなくちゃ」と思っています。

「カレンちゃんもお手伝いしてくれるって」
「憧れのバイト体験デス!」
――カレンちゃん 何て優雅な物腰…
 いつものお店がまるで外国のおしゃれなレストランだよ~
 私も見習わなくちゃ (二期第六話、第五巻50ページ)


ここも、先述の対抗心とは別の形ですが、カレンの隣に並ぼうとする心理と考えられます。

よって穂乃花は、自分とカレンの関係を思わず主従関係で捉えてしまうのですが、
そうであるべきとまで思っているわけではなくて、
本当はカレンの隣に並びたいと思っているのではないでしょうか。
その上に、二期第十一話における、親友であることを望む言葉があったのです。

ところで、上記の結論に関連して、先日発売された第六巻においても、
穂乃花とカレンの関係を取り上げた話がありました。
そこでも穂乃花はやはり、カレンの高貴さを前に従者的態度を取ってしまいますが、
カレンとの買い物を通して、最後に自身の望むことを独白しています。
ここにも、従者でなく隣に並ぶ親友でありたいと望む穂乃花の気持ちが表れていました。
最後に、この穂乃花の言葉を確認してみることにしましょう。

――私もいつか カレンちゃんみたいになれるかな (第六巻118ページ)


そう思う穂乃花が抱いていたイメージは、お姫様の格好をしたカレンの隣に、
自分もお姫様として存在していて、一緒に談笑している光景であったのです。




○その他の『ハロー!!きんいろモザイク』の記事

   勇のスランプの話における二つのアレンジ ――忍とみんなの二方向の強調 (第五話)
   カレンが語らなかった本当の気持ち (第八話)
   綾の中で併存する二つの想い ――第九話に咲くマリーゴールドの花 (第九話)


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テーマ:きんいろモザイク
ジャンル:アニメ・コミック

一期、二期と対比して見る劇場版のスクールアイドル ――「意志」で「いま」と「学校」を越えて (『ラブライブ!The School Idol Movie』考察)

2015.06.21 23:20|ラブライブ!
今回は、先日から上映中の『ラブライブ!The School Idol Movie』について考えます。
論題とするのは、スクールアイドルが一期、二期、そして劇場版への流れの中で、
主に通常のアイドルとの対比の中で、どのようなアイドルとして描かれてきたかということです。

劇場版が、『ラブライブ!』はあくまでスクールアイドルの物語であって、
アイドルの物語では決してないということを示していたことは疑う余地がありません。
だからこそ、劇中では、μ'sがスクールアイドルであることに非常に拘っていたと言えます。
それではスクールアイドルは、一期から劇場版までの流れの中で、
どのような軸において、アイドルとは区別されるものとして描かれてきたのでしょうか。
そしてその描かれ方は、一貫して変わらなかったのでしょうか。
このような問いから始めることで、劇場版で描かれたスクールアイドルを一層理解し、
結果として、劇場版までの物語を一層楽しむことができるようになるのではないかと考えます。
このような趣旨ですので、当然劇場版のネタバレを含みますが、
それでもよろしい方は、一期、二期を振り返りつつお付き合いいただければ幸いです。
以下、一期、二期、劇場版の順番で、スクールアイドルが如何に描かれていたかを論じます。



私は、一期、二期、劇場版への流れの中で、主に三つの軸でもって、
『ラブライブ!』がアイドルでなくスクールアイドルの物語であることを提示してきたと思います。
つまり、第一に「意志」、第二に「いま」、第三に「学校」の軸で、
μ'sがスクールアイドルであることが強調されていたのです。
とりわけ一期では、スクールアイドルが「意志」のアイドルであることを、
二期はこれに加えて、「いま」と「学校」のアイドルであることを表現していたと思います。
それぞれ順番に考えてみましょう。

(1) 一期のスクールアイドル:「意志」のアイドル

第一に、「意志」の軸についてです。
これは一期が、終盤で廃校阻止やラブライブ出場をさらっと片付けて、
最後まで強調し続けていたものと言えます。
スクールアイドルは、アイドルよりも「意志」が問題となるのです。
一期第四話におけることりの台詞は、象徴的なものかと思います。

「小泉さん」
「スクールアイドル本気でやってみない?」
「ええ!? でも、私、向いてないですから」
「私だって、人前に出るのは苦手です。向いているとは思いません」
「私も歌忘れちゃったりするし、運動も苦手なんだ」
「私はすごくおっちょこちょいだよ!」
「でも……」

プロのアイドルなら、私たちはすぐに失格。
 でも、スクールアイドルなら、やりたいって気持ちを持って、
 自分たちの目標を持って、やってみることができる!

「それがスクールアイドルだと思います」
「だから、やりたいって思ったら、やってみようよ」 (一期第四話)


つまり、スクールアイドルはプロのアイドルでないので、
始めるに際しては才能や努力の結果としての実力が相対的に問題となりません。
そのため、始めるに際してはより「意志」が重要となるアイドルと言えます。
これは辞めるに際しても同様で、義務や責任が相対的に問題にならないため、
いずれにしても「意志」が特に問題として浮き上がります。
以上二点を鑑みると、スクールアイドルは、
他の何かではなく「意志」によるアイドルなのです。

だからこそ一期はしつこいまでに、九人がスクールアイドルになろうと決意する姿を描いていました。

すなわち一期が最後に持ってきたのは、廃校阻止に至る劇的な展開でもなければ、
ラブライブ出場による華々しいステージでもなく、穂乃果が一度辞めて、
再びスクールアイドルになろうとする、その「意志」する姿でした。
第八話までに、メンバーのそれぞれがスクールアイドルを始めようとする、
その「意志」を描いた上で、最後にもう一度、穂乃果の「意志」を描いて終わるのです。

「私ね、ここでファーストライブやって、ことりちゃんと海未ちゃんと歌ったときに思った。
 もっと歌いたいって、スクールアイドルやっていたいって。
 辞めるって言ったけど、気持ちは変わらなかった。
 学校のためとか、ラブライブのためとかじゃなく、あたし好きなの、歌うのが!
 それだけは譲れない。だから……ごめんなさい!
 これからもきっと迷惑かける。
 夢中になって誰かが悩んでいるのに気付かなかったり、入れ込み過ぎて空回りすると思う。
 だって私、不器用だもん!
 でも! 追いかけていたいの!
 わがままなのは分かっているけど、私!」 (一期第十三話)


この穂乃果の台詞の中には、何故一期が廃校阻止の問題をあっさりと解決させ、
またラブライブ出場という目標をあっさりと取り下げたのかということが表れています。
それ以上に描くべきことが、一期にはあったに違いないのです。
学校のためでもなく、ラブライブのためでもなく、
純粋に歌を歌いたい、スクールアイドルをやっていたい。

この穂乃果の想いこそ、一期が取り上げたかったものでしょう。
スクールアイドルを描く作品として、一期は「意志」をひたすら強調していました。

このように、一期が廃校阻止やラブライブ出場を廃してまでも、
「意志」のアイドルとしてのスクールアイドルを強調したのに対して、
二期は、別の二軸でアイドルでなくスクールアイドルであることを強調しました。
すなわち、三年生の卒業を前にして、それを受け止めていく流れの中で、
スクールアイドルは「いま」のアイドルであることを、
学校のみんなの力を借りて、ラブライブ優勝を果たす流れの中で、
スクールアイドルは「学校」のアイドルであることを描いたのです。
一期において表れていた「意志」の軸に加えて、
二期においては第二、第三の軸が表れてきます。
それぞれを確認してみましょう。

(2) 二期のスクールアイドル:「いま」と「学校」のアイドル

それでは第二に、「いま」の軸についてです。
これは、三年生の卒業への流れと関連して表れてきます。
二期は、第一話から三年生の卒業をテーマとして扱うことを明示していました。
絵里は次のように述べています。

「そうよ。三月になったら、私たち三人は卒業。
 こうしてみんなと一緒にいられるのは、あと半年」
それに、スクールアイドルでいられるのは、在学中だけ
「そんな……」
「別にすぐ卒業しちゃうわけじゃないわ。
 でも、ラブライブに出られるのは、今回がラストチャンス」
「これを逃したら、もう……」
「本当はずっと続けたいと思う。
 実際卒業してからも、プロを目指して続ける人もいる。
 でも、この九人でラブライブに出られるのは、今回しかないのよ」 (二期第一話)


九人での活動がやがて終わるものであることが確認されたことによって、
スクールアイドルは「いま」だけのものであることが強調されています。
より「意志」の産物であるという側面とは異なる、
より「いま」であるという側面が取り上げられているのです。
スクールアイドルは限られた「いま」しかできないという点で、
(プロの)アイドルとは明白に区別されます。

二期においてはまず、この「いま」の軸が新たに浮上しているのです。
二期第十一話で九人がμ'sを終わりにすることを選び取ったとき、
彼女たちはアイドルでなくスクールアイドルであることが、
一際強く表れてはいなかったでしょうか。

そしてもう一つ、第三に、「学校」の軸についてです。
これは、ラブライブ優勝への流れと関連して表れてきます。
一期から二期の序盤にかけては、μ'sの物語はあくまでメンバーの九人の物語であって、
彼女たちが進んでいくに当たっては、その九人の中での支え合いが鍵となっていました。
二期第二話の合宿における、穂乃果の言葉に注目してみましょう。
ラブライブの予選という大舞台を控え、
ことりが衣装づくりについてスランプに陥ったことを受けての言葉です。

「私、まだできてない……」
「できるよ!」
「でも……」
だって、九人もいるんだよ!
「穂乃果ちゃん!?」
「誰かが立ち止まれば、誰かが引っ張る。誰かが疲れたら、誰かが背中を押す。
 みんな少しずつ立ち止まったり、少しずつ迷ったりして、それでも進んでるんだよ!
 だからきっと、できるよ! ラブライブの予選の日は、きっと上手くいくよ!」
「うん!」
「そうだね」 (二期第二話)


重要なのは、ここでいう「みんな」がμ'sの九人のみを指していたということです。
この時点では、一緒に歩みを進めて、その最中において支え合う「みんな」の中に、
九人以外の人たちが入るということは意識されていませんでした。
しかし、この意識はラブライブの予選を経験する中で変わっていきます。
A-RISEという強敵を前にして、また、どうにもならない悪天候を前にして、
μ'sとともに歩み、九人を支えたのは学校のみんなに他なりませんでした。
第三話で、μ'sのステージの直前に駆けつけ、
第九話で、吹雪の中、雪をかき除け続けてくれた仲間たち。
彼女たちが、「みんな」の中に入ってくることになるのです。
穂乃果は、二期第十話において、次のように語っています。

「そっか! 分かった! そうだ、これだよ!」
「何なのよ、いきなり」
「μ'sの原動力! 何で私たちが頑張れるか!
 頑張ってこられたか! μ'sってこれなんだよ!」
「これが?」
「うん! 一生懸命頑張って、それをみんなが応援してくれて、
 いっしょに成長していける。それが全てなんだよ!
 みんなが同じ気持ちで頑張って、前に進んで、少しずつ夢を叶えていく。
 それがスクールアイドル! それがμ'sなんだよ!」 (二期第十話)


ここでは、最初の「みんな」において学校のみんなのことが指示され、
次の「みんな」において、μ'sの九人と学校のみんながともに指示されていると考えられます。
九人だけでは全員揃っての予選参加すら怪しかったときに、
学校のみんなに助けてもらったことを受けて、
彼女たちはただのファンではなくなりました。
九人と同じ気持ちで頑張り、前に進み、少しずつ夢を叶えていく仲間となったのです。
二期第二話の時点で九人だけであったものに、学校のみんなが含まれています。

この「みんな」の拡大の流れの中に、「学校」という軸を見出すことができます。
そもそも学校のみんながμ'sとともに歩み、μ'sのために頑張ってくれたのは、
μ'sが学校と深く結びついているアイドルであったためです。
二期第九話で、ヒデコ、フミコ、ミカの三人は、次のように語っています。

穂乃果たちは、学校のためにラブライブに出て、
 生徒会もやって、音ノ木坂のために働いてきたんでしょ
だから、今日は私たちが助ける番
私たちも協力したいから
「私たちだけじゃない。みんなもだよ」

「ここは私たちに任せて」
「穂乃果たちは、説明会の挨拶と、予選のことだけ考えてて。ね」 (二期第九話)


廃校阻止に向けて立ち上がり、これまで学校のために頑張ってきたからこそ、
学校のみんながμ'sとともに歩もうと思ったのです。
そのため、学校のみんながともに歩む仲間になっていくことの裏側には、
μ'sが「学校」のアイドルであるということを見出すことができます。
それは、「学校」のアイドルであるために、学校のみんなはファンとしてだけでなく、
同じ気持ちで頑張り、前に進み、少しずつ夢を叶えていく仲間として関わってくれたのです。

結論として『ラブライブ!』は、「意志」と「いま」と「学校」という軸でもって、
通常のアイドルとは区別されるスクールアイドルを描いて来たといえます。
限られたこの「いま」「学校」のみんなとともに、「意志」でもって活動するアイドル。
それがこの作品が二期の最終話までに描いてきたスクールアイドルです。

しかし、劇場版は更にその先に向かいました。
というのも、スクールアイドルを「いま」と「学校」のアイドルとして維持して描くと同時に、
それを越えたものとしても描いていたのです。
つまり、確かにスクールアイドルは、「意志」と「いま」と「学校」のアイドルですが、
同時に「意志」で「いま」を越えて行くアイドルでもあり、
また、「意志」で「学校」を越えて行くアイドルでもありました。

これが劇場版が再定義した、スクールアイドルの姿です。
それでは、このことを確認してみましょう。

(3) 劇場版のスクールアイドル:「意志」で「いま」と「学校」を越えて

まず、先述のようにスクールアイドルを「いま」と「学校」のアイドルと述べるとき、
彼女たちはあくまで高校三年間「だけの」アイドルであり、
学校の人たちと「特に」ともに在るアイドルであるというような、
時間的、空間的制限の下にあることが認められます。
こうした制限は、確かにスクールアイドルの特徴的な要素でした。

劇場版は、こうした要素を維持していたには違いないのです。
現に九人は、「限られた時間の中でせいいっぱい輝こうとする」、
スクールアイドルが好きなことを確認して、改めてμ'sを終わらせる決断をしました。
また、現に九人の想いは、音の木坂学院の部室において受け継がれようとしていました。
このような箇所には、スクールアイドルが「いま」のアイドルであり、
「学校」のアイドルであることが維持されていることを見出すことができるでしょう。

しかし、劇場版は、「いま」と「学校」のアイドルであることだけを、
描き続けたわけではありませんでした。
同時にスクールアイドルが、「意志」でもって三年間を越え、
「意志」でもって学校という括りを越え得るアイドルでもあることを描いていたのです。

第一に、雪穂と亜里沙が後輩にμ'sのことを紹介している場面があります。
ここで雪穂は、μ'sの「想いを受け継いで」活動していることを語っていました。
かつてスクールアイドルになろうという「意志」を抱いて、
ラブライブ優勝、ドーム大会実現まで突き進んだμ'sの九人。
その「意志」を受け継いで、同じくスクールアイドルとなった二人の姿が示されています。
スクールアイドルは、確かに高校在学中の三年間しか活動できない「いま」のアイドルです。
しかし、スクールアイドルが「いま」のアイドルであり、その活動が三年きりであったとしても、
彼女たちは彼女たちの「意志」でもって、「いま」を越えて受け継がれていくのです。

これが、劇場版の描いていた、スクールアイドルの姿であったと言えます。

第二に、各地のスクールアイドルが一つになってライブを行う場面があります。
ここでμ'sは、「想いをともにしたみんなといっしょに」、
スクールアイドルの素晴らしさを歌っていました。
かつてスクールアイドルになろうという「意志」を抱いて、
ラブライブで競い合ってきた各地のスクールアイドル。
その彼女たちが今度は同じ「意志」の下に集い、
自分たちのライブを作り上げる姿が示されています。
スクールアイドルは、確かに「学校」と深く結びついたアイドルです。
しかし、スクールアイドルが「学校」のアイドルであり、学校のみんなと特にともに在ったとしても、
彼女たちは同じくする「意志」でもって、「学校」を越えて集い繋がっていくのです。

これが、劇場版の描いていた、もう一つのスクールアイドルの姿と言えます。

結論として、劇場版は、雪穂と亜里沙が新入生にμ'sのことを語る場面で、
μ'sの「意志」が受け継がれ、卒業後も続いていくであろう様を、
μ'sが各地のスクールアイドルとともに一つの歌を歌う場面で、
スクールアイドルの「意志」で繋がり、一つになる様を描いたと言えます。
二期においては、三年生が卒業するまでの流れの中で、
スクールアイドルが「いま」のアイドルであることを描かれ、
μ'sがラブライブ優勝を果たすまでの流れの中で、
スクールアイドルが「学校」のアイドルであることが描かれていました。
これに対して劇場版は、μ'sの面々が卒業した後を描く中で、
スクールアイドルが「意志」でもって「いま」を越えていくことを、
ラブライブ優勝の先にあったドーム大会を実現するまでの流れの中で、
スクールアイドルが「意志」でもって「学校」を越えていくことを描いたのです。



○関連記事

  (1) 一期の記事

   「穂乃果の物語」ではなく「三人の物語」として (第三話まで)
   みんなで叶える夢として (第四話)
   にこの勧誘に見る「μ'sのやり方」 (第五話)
   穂乃果は「one of them」であること (第六話)
   本当の意味で、同じグループの一員へ (第十話)
   自分の想いとの邂逅、みんなの想いとの対峙 (全体の考察①)
   九人のμ'sへの帰着、新しい夢への出発 (全体の考察②)

  (2) 二期の記事

   「意志」と「いま」の物語へ (第一話)
   支え合い、補い合うμ'sというグループ (第二話)
   どうにもできないことを受け止めて (第五話)
   広がり開かれる、みんなで叶える物語 (第十話)


テーマ:ラブライブ!
ジャンル:アニメ・コミック

綾の中で併存する二つの想い ――第九話に咲くマリーゴールドの花 (ハロー!!きんいろモザイク:第九話考察)

2015.06.14 16:54|きんいろモザイク
今回は、アニメ『ハロー!!きんいろモザイク』第九話を考えていきます。
第九話は、表紙裏や幕間など、原作の部分部分を基礎とした綾と陽子の話と、
カレンとアリスが忍の家に穂乃花を連れてくる話(第四巻71ページから)で成り立っていました。
このうちこの記事では、綾と陽子の話の二面性について、お話ししていこうと思います。
第九話の綾と陽子の話は、特に綾の陽子への気持ちが際立っていました。
しかしそれは、必ずしも二人の関係だけを押し出したものではなかったのではないでしょうか。
以下このことについて、考えていこうと思います。

まず確認したいのは、綾と言えば陽子との関係が際立っていて、
つい二人の関係に注目してしまいますが、綾は同時にみんなを想っているのであり、
単に陽子だけを想っているのではないということです。
綾の珍しく素直な言葉の一つに、以前にも取り上げました、
「ペットがいなくてもみんながいるし陽子がいるもの」というものがあります。

「でも 私 ペットは必要ないわ」
「何で?」
ペットがいなくてもみんながいるし 陽子がいるもの
 それじゃあ!!」
――えっ 今のどういう意味? 私ペットってこと? (第三巻92ページ、二期三話)


これは既に二期第三話でアニメ化もされている、
アリスがペットを飼いたがる話での綾の言葉ですが、
重要なのは、綾が陽子と同様にみんなも想っていることが表れていることです。
単に「陽子がいるもの」ではありません。
綾は、「みんながいるし 陽子がいるもの」と述べるのです。
この辺りが五巻描き下ろしにおける、
忍にとって自分は大事な友達なのだろうかという不安に繋がっています。

「でも お金で買えない価値てあると思うんです
 今私があげたのは「友情という絆」です
 これからもいい友達でいてほしいという気持ち… ハートを載せました」(中略)
ありがとう しの」 (第五巻112ページ)


綾にとっては忍もかけがえのない大事な友達で、
だからこそ忍にとって自分が大事な友達なのかということを、不安に思っていると言えます。
そういうところには、陽子に向けるものとは同一でなくとも、
それと同種で並列な、綾のみんなへの想いを読み取ることができるのではないかと思います。

そのため、綾と陽子との関係だけに殊更に注目して、
綾を陽子との関係でもってのみ理解しようとすると、
綾の有している重要な側面を看過することに繋がるのではないかという気がします。
綾は、陽子との関係だけをもって語り切れるような人物ではないのです。
みんなとの関係も非常に大切にする人物として、登場しています。
そして第九話の綾と陽子の話は、綾のこの二面性を踏まえた物語であったと思います。

確かに第九話は、原作のチップスを拾い集めて繋げた、
半分オリジナルな展開の中で綾が陽子と夏休みを過ごす様を描き、
その中で綾の陽子への好意を極めて強調していましたが、
それでもあの話は、綾と陽子との関係だけを描いた話ではないのです。
綾のみんなへの想いを含んだ話となっています。

というのも、綾が夏休みの計画を立てて、
陽子と一緒に早めに宿題を終わらせようとしたのは何故かと言えば、
陽子と遊ぶ時間を増やすためとか、陽子が夏休みを楽しめるようにとか、
そういった陽子絡みの理由ではありませんでした。
綾が早く宿題を終わらせようとしたのは、「みんなとの時間のため」であったのです。

「よし! これで完璧だわ
 今年はみんなで海に行くし 宿題は早めに済ませておかないと
 これさえあれば陽子だって」 (二期第九話)


第九話で綾は、「今年はみんなで海に行くし、宿題は早めに済ませておかないと」と述べています。
綾は、みんなでの時間を楽しく過ごすためにも計画の策定に乗り出すのであり、
そこで向いている先は陽子でなくみんなであると考えられます。

第九話で描かれた、綾が陽子と一緒に過ごした時間というのは、
綾の行動の「結果」であって、「目的」ではなかったのです。
綾の行動の「目的」は、みんなと楽しい時間を過ごすことに他なりません。
換言すれば、今回描かれた陽子との時間は、
みんなでの楽しい海での時間のための、ある種の「手段」であったのです。

もちろん、綾と陽子の過ごした一日が、みんなで海で楽しく過ごすための、
手段でしかなかったというようには描かれていません。
むしろ、海で楽しく過ごすための手段として、陽子と一緒に勉強した一日が、
それはそれでかけがえのない一日になったことは、綾の言動から明らかです。
そのため、今回のサブタイトルは「とっておきの一日」であったのでしょう。
そうして綾と陽子が二人で過ごしたとっておきの一日が、
みんなで海で楽しく過ごすための一日としても提示されていたという話なのです。


だからこそ、第九話ではあれだけ綾と陽子の関係を強調しながら、
冒頭においてはマリーゴールドが出て来ているのではないでしょうか。
マリーゴールドは、二期第四話で登場していました。

「シノ この花知ってる?」
「マリーゴールドですよね」
この花の花言葉 「友情」って言うんだよ
「すてき…」 (二期第四話、第四巻14ページ)


『きんいろモザイク』が描く、みんなの関係を象徴する「友情」の花。
この花が冒頭に掲げられていることを鑑みると、第九話が綾を描くに当たって、
単に綾の陽子への想いのみを描いているわけでなくて、
五人の「友情」への想いをも描いていたと言えると思います。
第九話は、綾の中で併存する二つの大切な想いを提示しているのです。


テーマ:きんいろモザイク
ジャンル:アニメ・コミック

そのままであることと変わっていくことの両立 ――第二話と第三話の対照性から (アイドルマスター:第三話考察)

2015.06.07 15:39|アイドルマスター
今回は、現在再放送中でもあるアニメ『アイドルマスター』の、
第二話と第三話について考えてみたいと思います。
伊織たちが宣材写真を撮る際に大切なことを学ぶ第二話と、
雪歩が小さな村での舞台に上がるに当たって勇気を持って決意する第三話。
この連続する二つの話における、一見相反するテーマに注目します。

つまり、第二話は伊織たちが華美な服で着飾っていたところから、
個性を大事に、彼女たちの素のままで写真を撮るところに至る流れなのですが、
第三話は逆に、みんなが私服でステージに出ているところから、
雪歩の全力の着飾りに至る流れとなっています。
それゆえに、次のような疑問が浮かびます。
すなわち、第二話では伊織たちが華美な格好をやめる流れの中で、
アイドルがそのアイドルらしく在ることが提示されたのにも係らず、
第三話では雪歩が全力で着飾ってステージに臨むことが提示されたことは、
如何なる意味を持っていたのかということです。

第三話で着飾ってステージに出た雪歩は、
その格好からして、必ずしも雪歩らしくはなかったと考えられます。
むしろ「今までの雪歩らしさ」から脱け出ていくことが、あの姿には表れていました。
伊織たちらしいままであることを描いた第二話の直後に、
そのテーマと対立するように見える第三話があったことに、
如何なる意味を見出せるのでしょうか。

けだし、第二話と第三話の対照性は、アニメが全編を通してテーマとしていた、
一見して背反する大きな二つのテーマを早くも象徴するものであったと思います。
つまり、アニメは、「そのままであること」「変わっていくこと」をいずれも肯定する作品でした。

終盤から劇場版にかけての展開が分かりやすいですが、そこでは765プロの面々は、
これまでのようにいっしょにいられるよう努力するとともに、
これから変わっていくことを否定せず進んでいこうとしていました。

一方でいっしょにいるままで他方で変わっていくことが、
アニメの提示していたテーマであったのです。

このように、765プロという単位においては、
765プロが「そのままであること」と「変わっていくこと」のいずれもが否定されずに、
両立されていく流れを取るのですが、これがアイドル個人という単位においても、
全く同じように提示されているのが第二話と第三話なのではないでしょうか。

つまり、一方で第二話で「個性」が強調され、
アイドルがそのアイドルらしく在り続けることが肯定されるのですが、
他方で第三話で「成長」が強調され、
アイドルが変わっていくことが肯定されるのであり、
ここで「そのままであること」と「変わっていくこと」が両立されて描かれています。

そう考えると、着飾った服を脱ぎ捨てる第二話と、
服を取って着飾る第三話の展開の対照性も、
意味があるものとして理解できるのではないかと思います。
この二つの話は、一見背中合わせで、
それでいてアニメが両立させていかんとするテーマを、
早くも打ち出しているワンセットであったのです。


テーマ:アイドルマスター
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天秤と申します。
アニメや漫画など、好きなものについて考えたことを書き込みます。
よろしくお願いいたします。

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