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白雪姫と林檎というミスマッチへの挑戦 (アイカツ!第108話考察①)

2014.11.24 15:27|アイカツ!
Du-Du-Wa DO IT!!/Good morning my dreamDu-Du-Wa DO IT!!/Good morning my dream
(2014/10/22)
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今回は、『アイカツ!』第108話について考えていきます。
この記事で考える問題は、魔夜が「白雪姫と林檎」というミスマッチなドレスを作った意味と、
何故スミレはそのドレスを受け取ることができたのかという理由の二つです。
この二点を考えることによって、魔夜とユリカの現在の関係性や、
スミレとかつてのユリカの類似性が見えてくるように思います。
ロリゴシックを取り巻くそれぞれの関係について、今こそ考えてみましょう。

第一に、魔夜が「白雪姫と林檎」というミスマッチなドレスを作った意味を考えます。
魔夜が、ある意味で白雪姫に最もそぐわない「林檎」のモチーフをドレスにあしらったのは、
成長したユリカの影響であったと思います。

というのもユリカは、依然吸血鬼キャラを演じるアイドルでありながら、
吸血鬼には最もそぐわない「朝食の」シリアルのCMに挑戦していました。
そうしたユリカに触発されて、魔夜も新しいプレミアムドレスを完成させたのではないでしょうか。
第89話では、「吸血鬼と朝のシリアル」というミスマッチは、
作中で滑稽な試みとして表現されるのではなく、
キャラに対する揺るぎない「自信」があってこその「挑戦」と表現されていました。
ユリカのCMを見たセイラたちのやり取りです。

「ハッピーレインボーは新鮮で可愛く映ってたし、
 藤堂本来のヴァンパイアキャラは、微塵もぶれてない!」
その自信があってこそできた挑戦だと思う。
 ユリカちゃんはセルフプロデュース能力もずば抜けてる!」 (第89話)


ここで「吸血鬼と朝のシリアル」というミスマッチは、
新たな領域に踏み出す挑戦的な一歩として提示されています。
思えばユリカは初登場時、部屋が火事になったときに日傘について、
いちごに「あれがないと吸血鬼のキャラ作りが!」と言っていました(第19話)。
日傘で太陽を避けるというのはユリカの中で、
最も基本的な吸血鬼キャラのテンプレートであるがゆえに、
彼女のキャラ作りの支えとなる行動でもあったのです。
日傘を用いた日除けの行動がこうした意味付けをされていたことを鑑みると、
それをユリカから不可避に引き離す朝日の下でのCMは、
確かにユリカの新たな「挑戦」であったと言えるでしょう。

このように、吸血鬼キャラを極め、更に高みを目指すユリカの「挑戦」を受けて、
魔夜もまた「白雪姫と林檎」の「挑戦」に踏み切ったのではないでしょうか。

そう考えると第108話で、魔夜にとってユリカは既に、
第23話で言うところの、自分に影響を与えてくれる「ミューズ」であったと言える気がします。
林檎をあしらうことが魔夜にとって安定した道でなく、「挑戦」であったことは、
彼の「付けるかどうか最後まで迷った」という言に明らかです(第108話)。
白雪姫と林檎というミスマッチについて、スミレに問う場面は、
どこか魔夜とユリカが彼女を試しているようにも見えます。
しかし、仮にそうであったとしても、「最後まで迷った」ということは、
試すための嘘ではなかったと思います。

それは、確かに新たな「挑戦」であって、
それゆえに十分迷い得る一手であったと考え得るためです。

そして、その新しい道に彼が踏み込もうとしたきっかけを考えると、
先の彼の言にはっとした表情を浮かべたユリカその人以外にないと思います。
だからこそ魔夜は、スノープリンセスコーデについて、
「ユリカに似合いそうな新作ドレス」と述べていたのです(第108話)。

結論として、「白雪姫と林檎」という、ある意味でミスマッチなドレスのデザインは、
ユリカの「吸血鬼と朝のシリアル」というミスマッチへの「挑戦」を受けての、
魔夜のデザイナーとしての「挑戦」であったと思います。
ユリカは既に、魔夜にドレスをもらうだけでなく、
その姿によって彼に新しい境地へと踏み出させる、ミューズ的なアイドルであったのです。

このことが、一方でユリカが「吸血鬼と朝のシリアル」のCMに臨み、
他方で魔夜が「白雪姫と林檎」を合わせた第108話の物語に見出せます。



 以下の記事に続く

     スミレの「いつかはきっと」に見える強さ (第108話②)



○関連記事

     再定義されるあかりの原点――本当の目標は真似でなくて (第101話)
     これまでの別れの経験の上に――さくらだから語れる言葉 (第102話)
     ブレーキを踏まずにいられるのは (第105話)


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テーマ:アイカツ!
ジャンル:アニメ・コミック

糸色望と終盤の展開に関する私見

2014.11.09 16:34|さよなら絶望先生
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今回は、『さよなら絶望先生』の終盤の展開について考えたいと思います。
新連載が始まって久しいですが、ここで改めて思いを馳せてみることにしましょう。
これまでは、主に可符香や絶望少女たちについて考察してきましたが、
今度は望や男子生徒たちにまつわる二つの疑問について考察していきます。

まず考えてみたいのは、終盤において、何故望が真実を語らないのかということです。
絶望少女たちの卒業に際して、これまで明確に示されなかった、
作中で描かれてきた教室の真実が語られてきました。
しかしそこでの語り手は、命や智恵であって、決して望ではありませんでした。

これは、一見不可解にも思えることであると思います。
未練を残した死者が彼岸へと歩んでいけるように、
教室を作り上げて、その中で先生として動いていたのは望です。
この意味で、真実を語るのに最も適当な位置にいたと言えるでしょう。
『かってに改造』で言えば、望はすず(たち)に近い位置にいました。
それにも係らず、彼は作中で決して真実を語らなかったのです。
ここにはどのような意味を見出すことができるでしょうか。

あの教室の真実に関して誰より知っているはずの望が、
最後の最後までほとんど何も語らなかったのは、
彼の心がずっとあの教室の内部にあったためであると思います。
それゆえに、真実を語るという、外部にある者としての行為を行わなかったのです。
実際、命や智恵による真実の語りというのは、
ある現象を客観的に説明しようとする言葉が含む「冷たさ」を確かに持っていて、
教室から出てどこか俯瞰的に語る、「外部からの」ものであったと言えるでしょう。
望は、教室の真実をあらかじめ知っていながら、
それでいてずっとその内部に留まる者であって、そのために、
自身の口から真実を語らず、また語れなかったのではないでしょうか。

第30X話が「一つの可能性」としてあり得ることは、
この望の立ち位置を仄めかしていたと思います。
彼が絶望少女たちとの日々を、俯瞰して遠くから見ることができないからこそ、
彼女たちとの関係を継続して、あの光景に至ることになり得るのです。
仮に望が、あの教室での出来事を仮初の箱庭での出来事として、
一時的なものとして割り切って見ていたのならば、決して関係は続かなかったでしょう。
そして、望がこのように割り切って考えられない最大の理由は、
可符香や絶望少女たちへの気持ちが、本当であったためであると思います。

何も知らなかった絶望少女の望への感情が本当であったように、
望の可符香や絶望少女への感情も、教室を作った演じ手としてのものではなくて、
本当のものであったからこそ、望は演じ手であった者として振る舞えません。

ここまでの結論として、望が真実を語らないのは、
彼が可符香や絶望少女たちに対して本当の気持ちを有していたためです。
そのために、彼は命や智恵たちと同じように、
教室の外部から俯瞰的に語ることをせず、また語ることができなかったのだと思います。


次に、以上の問題と関連付けて語ることができる、
男子生徒たちに関わる疑問について、考えてみたいと思います。
それは何故、国也だけ不自然に登場しなかったのかということについてです。
この事実は、国也以外が揃って登場しているために際立っています。

けだし、彼が作中に登場しなかったのも、
望が真実を語らなかったのと同じ理由のためであったと思います。
すなわち、望が可符香や絶望少女たちに本当の想いを持っていたからこそ、
真実を語らなかったのと同じように、国也もまた、
愛に対して本当の想いを持っていたからこそ、登場しなかったのではないでしょうか。

言うまでもないかも知れませんが、国也は第98話で愛に気持ちを奪われています。

国也も望と同じように、絶望少女たち(のうちの一人)に、
本当の気持ちを持っていたと言えるでしょう。
だからこそ、あくまでこれまで演じていた者としては登場できなかったのです。
振り返ってみると、最終話での書店組の登場は、その台詞から分かるように、
教室の外側を知っていてその中で敢えて演じている者としての登場でした。

「そういえば他の男共は?」(中略)

ボクら先生に何かあった時の
バックアップメンバーとして集められたんだし
「君らもだろ」
「いかにもっ」
「父上の差しがねか ここまで手厚いバックアップ体制とは
 どこまでボンボンなのか お兄様最後までかっこ悪っ」

「まぁでもそんな風に集められた僕らも
 結局は女子と同じく 本当の級友でした」

――そして先生 あなたは 本当の先生でした (第30巻135-137)


国也が彼らと同様に、真実を分かっていて演じていたかということは分かりません。
しかし、どちらにせよ、国也の愛への気持ちは本当のものであったのでしょう。
それは演技で想っていたわけでない。
だからこそ、演じ手として登場せず、また登場できなかったと考えられます。
バックアップのために集められた青山たちは、「本当の先生でした」と述べるとは言え、
自ら知っていて演じていたことを言及した時点でどこか「外部の人」になります。
国也は望と同様に、外部の人ではあり切れていないからこそ、
彼らに並んでそう言及する立場にはいないのです。

同じ理由で、影郎も登場しなかったと考えられます。
彼の場合、影が薄かっただけとも考え得るところですが、
先の考えを敷衍してくるならば、彼もあびるに対して想う気持ちを持つ者であるため、
もはや演じ手として登場せず、また登場できなかったと考えられます。

男子生徒の中で少なくない登場回数を持ちながら、
最終話に登場しなかった二人の共通点は、誰かを想っていたということです。

結論として、国也が他の男子生徒たちとともに登場しなかったのは、
彼が愛に対して本当の気持ちを有していたためです。
そのために、准たちと並んで登場せず、また登場できなかったのだと思います。

望が真実を語らなかったことにせよ、国也が登場しなかったことにせよ、
その根っこにあったのは、絶望少女たちへの想いです。
望や男子生徒たち、普通の教室を「作り上げていた」側から読むと、
このような「想い」を描き出す、『さよなら絶望先生』の側面が見えてきます。



○関連記事

   ラストシーンの風浦可符香とは何であったのか
   風浦可符香が「神様みたいないい子」ではない理由
   ポジティブではない風浦可符香は存在したのか

   風浦可符香と終盤の展開に関する私見


テーマ:さよなら絶望先生
ジャンル:アニメ・コミック

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アニメや漫画など、好きなものについて考えたことを書き込みます。
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