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765プロという「家族」① ――みんなとわたしの間の問題 (アニメ総論)

2012.09.26 15:44|アイドルマスター
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今回は、2011年のアニメ版アイドルマスターについての総論として、
そこで提示された「765プロという家族」について考えてみたいと思います。
この感覚は、仕事の忙しさゆえに次第にみんなの時間が取れなくなっていく終盤に、
特に家族というものについて思うところのある千早によって提出されたものです。

「いいえ。春香のためだけじゃなく、これは私の願いなの。
 私が歌を失いかけたとき、手を差し伸べてくれたのは春香と、みんなだった。
 今の私にとって、765プロは新しい家族なの。
 仕事を第一に考えるのは、私たちの使命なのかも知れない。
 だけど、諦めたくない。お願い、力を貸して欲しい!」 (24話)


この直後に美希も、765プロを「ただいまって帰れる場所」と言い表しています。
「家族」としての765プロ、「帰れる場所」としての765プロ。
これがアニメの終盤で、春香の動揺を契機に描き出されたものでした、
『キャラ★メルFebri』のアニメの各話解説でも、以下のように語られています。

『アイマス』の劇中で描かれる765プロにはどこか「家族」のイメージが託されている」。
  (『キャラ★メルFebri』Vol.10、2012年3月、p.27)


この「765プロという家族」について、今回と次回、二回に渡って論じていきたいと思います。
今回、春香の提出した問題がどのようなものであったかを確認した後で、
次回、その問題がどのように解決されていくかということに注目し、
そこから「765プロという家族」について考えてみるつもりです。
もしよろしければ、アニメの内容を振り返りながら少しお付き合い下さい。



○「家族」について①:みんなとわたしの間の問題


それではまず、アニメで最後に取り上げられた春香の問題を確認しましょう。
繰り返しになりますが、アニメで「765プロという家族」というテーマが描き出されたのは、
二十二話辺りから始まる、この春香の問題の中においてでした。
よって、「765プロという家族」に肉薄していく前準備として、
まずは春香の問題について明らかにしておこうと思うのです。

春香はみなで海に赴く、五話の時点で既にこう言っています。
夢が叶って、忙しくなった自分たちを想像してみた後の言葉です。

「でも、もしそうなったら、
 みんな揃ってこんな旅行とか、もうできなくなっちゃうのかな」 (5話)


実際に忙しくなったために、この懸念が現実化したのが23話です。
既に22話の時点で春香はこの類の寂しさを知覚していますが、
そのときは奇跡的にクリスマスに全員で集合することができたため、問題はありませんでした。
しかし、23話では765プロの面々は実際にみんなで集まれなくなってしまいます。
個々の仕事のために、765プロ感謝祭の合同練習に集まれない日々が続く。
しかも、そこに「生っすか!?サンデー」の打ち切りが重なる。
「みんな」での活動が、それぞれの活動によって浸食されてしまうのです。

「みんなで楽しく歌って踊って」(24話)
アイドルになって、そのような夢を叶えようとしていたのに、
有名になるに連れてその夢はどこか遠くへと離れて行ってしまう。
それが、アニメで春香の投げかけた問題でした。
「みんな」と「わたし」の間に横たわる問題とでも言うべきものです。
これは、問題として二つの次元を持ちます。
以下、順序立てて確認していくことにします。

第一は、「みんなの活動」と「個々人の仕事」の間の緊張という次元です。
第23話で全体練習ができないのは、個々人での仕事が忙しいからです。
また「生っすか!?サンデー」の打ち切りも、765プロが有名になって、
全てのアイドルを一番組で独占することが厳しくなったため引き起こされたことでした。
つまり、他の個々の仕事のために全体の仕事が犠牲となったわけです。
「みんなの活動」とそれぞれの「わたしの仕事」の間に緊張があります。
これが春香の直面した問題の第一の次元でした。

第二は、「みんなの意識」と「わたし(春香)の意識」の間の緊張という次元です。
第一の次元は、現実の仕事にかかずらうものでしたが、
今度はその仕事に対するアイドルの意識が問題となります。
春香は、自身の夢である「みんなで楽しく」を第一に考え必死に動きます。
それに対して、他のみんなは春香ほどには「みんな」を意識してはいません。
他のアイドルたちは「みんなの活動」を軽視しているわけではありませんが、
春香と比べると相対的に「個々人の活動」を重視しようとしているのです。

第24話では、個々人の仕事でみんなの時間が取れなくなるのは「仕方ない」ことと、
諦念を抱えながらも働く少女たちの姿が描写されています。

つまり、あくまで相対的にですが、「みんなの活動」を重視したがる春香と、
「個々人の活動」を重視しているみんなという対立が見られます。

これは実際には見かけ上の対立でしかなかったのかも知れません。
24話で明かされるように、他のみんなも「みんなの活動」の減少に思うところはあったのです。

しかし春香は、見かけ上のものでしかなかったかも知れない、
この意識における差を第23話で確かに感じてしまっています。
例えば春香は真に、まずは眼前の生放送に集中するべきであると諭されます(23話)。
さらに美希に、舞台での主役の座を巡って争うのにもかかわらず、
「一緒に頑張ろう」と考えるのは間違っていると考えを批判されてしまいます(24話)。
これらを経て、みんなとわたしの間の意識のズレを春香は認識することになります。

しかし、春香はみんなになかなか自分の考えを述べることができません。
自分の仕事をきっちりやり遂げることは、仕事をもらったアイドルとしての責務だからです。
このことは24話の千早の科白で強調されています。
仲間たちは何も間違っていません。
その責務を果たすために「みんな」の時間が減るのは仕方のないことなのです。
このような意識は春香にもあったのでしょう。
だから、言うことができません。
以下の科白で、春香は言えなかった理由に関して言及しています。

「でも、みんな嫌じゃないかなって思ったの。
 私のみんなで楽しくが、みんなの負担になっちゃわないかなって思ったら、怖くて」 (24話)


みんな、個々の仕事に一生懸命に取り組もうとしている。
それが全く正しいことであるからこそ、春香は考えを言い出せません。
みんなとわたしの考えは違う、そして我が儘なのは自分。
そのような意識がずっと春香にはあったために、自分で抱え込むことになってしまった。

第23話のラストで、プロデューサーにさえ彼女は言うことができません。
自分で頭をこつんと小突く象徴的な動作で、全てを封じ込めてしまいます。
春香にとっては、「みんなの意識」「わたし(春香)の意識」の間に緊張があるのです。
相対的に「個々の仕事」を重視するみんなと、「全体の活動」を重視する春香。

そして、二つの次元を持つこの問題を解決しようとしたのが第24話です。
まず、自分の我が儘だと考えて、ずっと自分の気持ちを抑えていた春香が崩壊します。
つまり春香は、「みんなの活動」を「個々の活動」より重視するために、
美希との競争で勝ち取った芝居の主役を降りようとします。
第一の次元において、「みんなの活動」の時間の減少の直接的な原因となっている、
「個々人の仕事」を減らすという手段に春香は打って出ようとするのです。


おそらく春香は、心中ではその手段が間違いだということに気付いていたと思います。
しかしそれでも、彼女にはその手段しか残されていませんでした。
前述の理由によって、第二の次元での解決に動くことが春香にはできなかったからです。
つまり、みんなに自分の寂しさを打ち明け、「みんなの活動」の重視を訴えかけるということは、
春香にとって自分の我が儘を押し通すことでしかなかったため、やってはいけないことでした。

だから、仕方なく仕事を減らすというもう一つの「自分勝手」に、
「個々人の仕事」を軽んじるとも取れる方向に春香は進んでしまいます。
そういった方法であれば、一応は春香個人の仕事を減らすだけで済みます。
それは、問題の解決に繋がらない明らかな悪手ですが、
春香にとっては、「夢」を繋ぎとめるための最後の一手でした。

それすら律子や美希との議論の内で否定されて、春香は自分を見失ってしまいます。
自分が歩む動力源であったはずの、アイドルとしての「夢」すら分からなくなってしまうのです。

結論として、23話で春香が抱えた問題と言うのは二つの次元を持っていました。
第一は、「みんなの活動」と「個々人の仕事」との間の緊張です。
第二は、そこから派生する、個々のアイドルの意識の問題です。
すなわちそこでは、「みんなの活動」と「個々人の仕事」のどちらを重視するのかということに関する、
「みんなの意識」と「わたしの意識」の差が問題となります。

第24話で春香は、「みんなで楽しく」という夢が崩れそうになるのを、
第一の次元への介入によって解決しようとしました。
個々の仕事が多いのならば、減らしてしまえばいいという恣意的な考えです。
それが否定され、夢への道が完全に閉ざされたように思えたため、
春香は自分が何故アイドルをやっているのか分からなくなり、活動を休止してしまいます。
第一の次元において問題を解決するという手法は、作中で否定されたのです。

ゆえにここから、物語は第二の次元において解決を図ることになります。
自分の我が儘ではないかとの認識から、春香にはできなかったそれを、
千早を始めとする「みんな」の側から実行していくことになるわけです。

そして、春香も自分の夢を見つめ直し、みんなのことを改めて考えることで問題を解決します。
この解決の局面で登場するのが「765プロという家族」という感覚です。
次回はそのことについて論じていきたいと思います。


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テーマ:アイドルマスター
ジャンル:アニメ・コミック

終わらない『ゆるゆり』の日常 (ゆるゆり♪♪:十二話感想)

2012.09.18 23:05|ゆるゆり
さて、来週は三期予告ですね、分かっています。

と、若干逃避気味なわけですが、今週も十二話について、
考えたことを語っていきましょう。

本当の最終回です。
タイトルは「さようなら主人公、また会う日まで」。
どことなく、「一旦終わり」であることを強調するようなものですね。

何だかんだで毎週感想記事を書いていましたが、
長いようで短いような三か月間だったと思います。
しっかり眺めてみると、色々なことが読み取り得るのだということが分かったため、
非常に楽しい三か月間でした。

さて、12話は大きく分けて二つの部分で構成されていました。
前半は、京子が蛇のおもちゃを持ってくる、intermission.1「天使の悪戯」、
後半は、これまでの話を踏まえた劇を全員で演じる話となっています。
観客席にあかねさんを始めとする姉妹ズもいたので、
まさに最終回というにふさわしい、全員出演の回となっています。

特に気に入ったシーンは、劇でちなつの絵が背景として出て来たときに、
あかねさんが衝撃を受けて固まっていたシーンでしょうか。


周りの観客も引いてはいるのですが、彼女たちは青くなっているのに対して、
あかねさんは一人だけ、顔に影を落としているんですよね。
どうやらちなつの絵は、赤座家の血に特に作用するようにできているようです。
あかりの家に泊まりにいった回(七巻、八巻)辺りで、
ちなつはあかねさんに苦手意識を持っていそうですが、
今回の一件で、あかねさんもちなつに苦手意識を持ったかも知れません。
胸はあつくなり、本はうすくなりますね。

さて、今回は『ゆるゆり♪♪』の最後を飾った、
上述の劇について、今までの話も踏まえながら考えていきたいと思います。
今後も『ゆるゆり』関連の記事はときどき書くでしょうが、
『ゆるゆり♪♪』に関しては一区切りなので、気合を入れていきます。

もしよろしければ、少しお付き合いいただけると幸いです。



○アニメ終盤における「二人の主人公」:あかりと京子の「きずな」

第一に指摘したいのは、12話の最後、カーテンコールの場面で、
あかりは京子にハイタッチをするということです。

ここは文字だけブログなので分かり辛いのですが、
カーテンコールのときに、一人だけ上から降りてくるあかりは、
着地後まず京子とハイタッチをしています。
見ていただければ分かるのですが、何てことのないシーンです。
しかし、私はここに意味を見出すことができるように思うのです。

結論から言いましょう。
私は、アニメが「あかりと京子のきずな」を終盤の裏のテーマとして、
描いていると読み取れるように思っています。
順序立てて、説明していきましょう。

最初に、あかりと京子の関係は、作中である程度の緊張を含むものです。
それは、あかりと京子の仲が悪いということではありません。
もちろん、当人たちは仲のいい幼馴染ですが、
それを見る我々にとっては、「主人公」という位置を巡って、
緊張のある関係に見えないこともないということです。

現にあかりの存在感の薄さが取り沙汰されるとき、
比較対象として用いられやすいのは京子以外にはありません。
しかも作中では京子が存在感のことであかりをいじることが多いため、
一層高まった緊張が二人の間には鎮座していると取れます。

しかしアニメ終盤においては、そのような緊張を孕んでいるように見える二人の間に、
「きずな」が描かれていると読めるように思います。


特に、11話において、京子はあかりを主人公とした話を書きました。
前回の感想記事でも書いたように、この話は、
「あかりがみんなに想われている」ということを京子が書いたことによって、
「あかりが京子にも想われている」ということを示しています。
いつもあかりのことを色々といじる京子ですが、
彼女の根底にはあかりへの想いがあるということです。

現在に帰ってきたあかりに対して、まず泣きながら向かっていく京子。
それを描いたところに、あかりへの想いは見出せると思います。

この京子への返答という意味が、12話のカーテンコールで、
あかりが京子にハイタッチしに行く場面には託されていると読めると思うのです。
上から降りてきて、まず京子にハイタッチをするあかり。
ここには、あかりの京子への想いを見出すことができます。

観客に対して一礼をする前に、京子だけと、あかりはハイタッチをするのです。
当然、二人の位置が偶然近かっただけとも取れるのですが、
結衣でもちなつでもなく、京子だったところに、私は意味を見出したいと思います。

11話では、現在に帰ってきたあかりに対して、まず京子が駆け寄り、
12話では、降りてきたあかりが、京子だけにハイタッチをするということ。


この二つの場面は同様に「二人のきずな」を端的に表しています。
そして、二つの場面は対照的でもあり、片や京子のあかりへの想いを表象し、
片やあかりの京子への想いを示すものです。
相互の想いによって、月並みな言い方ではありますが、「きずな」が素描されています。

先にも述べたように、あかりと京子は、
「主人公」をめぐって緊張関係にあると解されやすい二人です。
あかりの存在感が薄い分、京子が真の主人公のように見えるというのは、
原作でも時に提示される事実ですし、一期でも強調された事実でした。
そして、今回の12話でも、シンデレラを京子が演じ、
「特徴がないことが特徴妖精」をあかりが演じることで再確認されています。


しかし、アニメが二期の最後で描いたのは、
京子という真の主人公の影に隠れて、
不憫な想いをするあかりという、それぞれの姿ではありません。
「きずな」という紐帯によって繋がれた、「二人の主人公」の姿をこそ、
アニメは最後に描いたと言えるのではないでしょうか。

今回の話のタイトルは、「さようなら主人公、また会う日まで」です。

ここで言われている主人公は、私にはあかりでも京子でもなく、
背中合わせにタッグを組む「二人」であったように思われるのです。




○「劇中劇」という終わり方:「これまで」を振り返り「これから」を仄めかす

第二に指摘したいのは、最終話が「劇中劇」で終わるということです。

12話は、最後に「劇中劇」を持ってきています。
つまり、『ゆるゆり』という物語の中で、
さらに劇が行われる話を持ってきているということです。
全員で大いに改変された白雪姫を演じることが『ゆるゆり♪♪』の末尾でした。
このことが持つ意味について順番に論じたいと思います。

まず、劇中劇はこれまでを振り返らせるために挿入されたのだと思います。
というのも、劇中劇は『ゆるゆり♪♪』を特徴づけるものであるためです。
印象に残る回では、「劇中劇に相当するもの」が常に使われていました。

例えば、一話は「あかりの夢」から始まりました。
これは、あかりが無意識に作った劇であると言うことができます。
非常に『ゆるゆり』らしくない(原作サイドでは『がちゆり』と名付けられる)、
あかりがみんなに大人気になる劇中劇です。

また、6話は「ミラクるん」の劇中劇から始まりました。
京子がコムケのために作ったアニメーションです。
これも劇中劇に相当する制作物と言うことができます。

そして、同様に京子が脚本を書いた劇中劇と言えば、
11話の「SFチックな紙芝居」があります。
あかりが過去に戻ってしまうという劇中劇です。

このように、『ゆるゆり♪♪』においては、
劇中劇という形式が一つの特徴と言えるほどに多く使われていました。

そもそも冒頭の「アッカリーン」パートも、あかりが出ている裏に「カメラさん」がいて、
京子(たち)がそこで色々と糸を引いているように見える点では、
「小さな劇中劇」と捉えられるかも知れません。
劇中劇は、『ゆるゆり♪♪』の主要な一部なのです。
二期のOPが、垂幕の前に立つごらく部の面々に、
順番にスポットライトが当たっていくという、
劇を想起させるものであることは偶然ではないでしょう。
『ゆるゆり♪♪』は劇(劇中劇)のイメージを持ったアニメと言えます。

12話の後半が白雪姫の劇だったことは、
最後に『ゆるゆり♪♪』の要素である「劇中劇」を入れてきたことを示します。

これにより、視聴者はこれまでを振り返ることが可能となります。
形式的に劇に近い、前述の11話などを思い出すことができるのです。
最終話の「劇中劇」は、振り返ることを促す効果を持つと思います。

そして、その形式からしてこれまでを想起させる「劇中劇」とともに、
劇の内容もこれまでを振り返らせるようなものとなっていました。
1話の「あかりの夢」という劇中劇とは対照的に、
非常に『ゆるゆり』らしい内容の劇が演じられたのです。


トマト、綾乃に差し出されたプリンを櫻子が空気を読まずに食べる、
あかりのちなつ(仮)とのキスなど、
今一つ一つ例を枚挙していく暇はありませんが、
これまでの内容をふんだんに使った劇になっていたことは明らかです。

この内容を見ても、これまでを振り返らせることを意識していたのは分かるので、
最終話の「劇中劇」は、「振り返らせるツール」として使われたとまず言えます。


次に、これが最も強調したいことだったのですが、
「劇中劇」が最後を飾ったことにより、
「劇」自体は終わらず続いていくということを示したと考えられます。


12話はカーテンコールの最中で終わってしまいます。
具体的には爆発オチの直前に切られてしまうわけです。
劇中劇の終わりと、アニメの終わりがほぼ同時に訪れています。
このことによって、アニメが終わっても、
劇(『ゆるゆり』という物語)の中の日常は、
アニメ外で続いていくということが仄めかされています。

通常、劇中劇の後には、劇の中への引き戻しが行われます。
これは『ゆるゆり♪♪』中でも例外ではありませんでした。
1話では「あかりの夢」という劇中劇から、
旅館へ向かう電車の中という劇の領域に引き戻されます。
11話も、最終的に京子が紙芝居をめくっている劇中に引き戻されます。

しかし、12話だけ、劇中への引き戻しがありません。
劇中劇(カーテンコール)のまま終わってしまいます。

劇中劇の終わりとアニメの終わりが重ねられたからです。

これによって、アニメ内では「劇の終わり」は描かれなかったと言えます。
けれども、劇中劇が終わった後には、当然劇が来ると考えられるため、
アニメ外で「劇中の日常」は続いていると考える余地が生まれるのです。
劇中劇の終わりとアニメの終わりが重ねられたことで、
劇は終わらず、その日常は続いていく。
最後に劇中劇を持ってきたことで、このような効果が生まれます。

このことの説明を助けるものとして、「爆発オチ」があります。
12話の末尾は、そこまで描かれませんでしたが、明らかに爆発オチでした。

お姉ちゃんたち、うしろ、うしろー!

え?


爆発オチというのは、11話でも劇中劇の中で選択されたものでした。
京子の紙芝居の中で、先生の手を経たタイムマシンは爆発して、
ごらく部室が吹き飛び、物語は劇中劇から劇中に戻されます。
ここで爆発オチは、「劇中劇から劇中へと戻る契機」として用いられているのです。
それが、直後の12話でも使われているということ。
描かれなかったオチの後に、劇中の日常への回帰があることを示していると取れます。
そこで、『ゆるゆり』の日常は続いていく。

最後が「劇中劇」であり、その終わりとアニメの終わりが重なったことにより、
アニメの中で劇の終わりは描かれず、『ゆるゆり』の日常は、
この後も変わらず続いていくことが示されたのだと思います。


結論として、「劇中劇」は、
まず「これまでを振り返らせる」役割を担い、
次に「『ゆるゆり』の日常はこれからも続く」ことを示すきっかけになったと言えます。

「これまで」と「これから」を示す標識として、「劇中劇」があったのではないでしょうか。



以上です。
「劇中劇」のパートを中心に語ってみました。

他にも色々興味深い部分はありました。
例えば、あかりが蛇のおもちゃを踏んでしまった場面です。
踏まれた「ヘビさん」に思いを馳せていたことを説明するあかりを彩っていたのは、
やはりあの天使を表象するようなBGMでした。

5話辺りから、あのBGMはほとんど「あかりのテーマ」として使われていましたが、
今回、ある意味もっとも正しい使い方がされたように思うのです。


これまでは、あかりが不憫な目に遭う際によく使われていました。
それはそれでよかったのですが、それに対して、
今回は純粋にあかりの「天使性」を表すために、あのBGMが合せられていました。
まさしくBGMと表現する場面が、ぴったり符号していたように思います。
「天使としてのあかり」

また劇も細かいところまで見ると、ほっこりする場面は結構あって、
鏡を演じていた会長が、先生相手にむっとするところや、
ともこさんが「あかねちゃん」呼びするところや、
撫子はともかく、花子も「櫻子がにぶい」と気付いているところは、
何故か説明はし辛いのですが、何となく微笑ましく、印象に残ったシーンと言えます。

それでは、そろそろ締めに入ることにしましょう。

仮に、ここまで読んで下さった方がいるのだとしたら、
みなさまにとって、『ゆるゆり♪♪』という作品はどのようなものだったでしょうか。
当然いいアニメであったかという問いに対しては、両面の意見があるでしょうが、

私にとっては、原作の『ゆるゆり』という作品を改めて考える契機となり、
かつ特にオリジナルパートでは、『ゆるゆり♪♪』というアニメの『ゆるゆり』観や、
キャラクターの解釈を見出すことができたため、非常に興味深い作品でした。


アニメを見る中で、時にうなずき、時に描写に疑問を抱く中で、
『ゆるゆり』という作品自体と色々な面で対話することができたように思います。
その意味で、私にとってはかけがえのない作品でした。
最大限の感謝をここに表します。

ありがとうアニメ『ゆるゆり』、また会う日まで。

テーマ:ゆるゆり
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あかりは「想われている」ということ (ゆるゆり♪♪:十一話感想)

2012.09.11 20:44|ゆるゆり
「あかりは想われている」ということが全力で提示された一話。

十一話「時をかけるあかり」は、一言でそう表せると思います。

今回あかりが「主役」になれたかと問われれば、それは微妙なところです。
あかりは過去を能動的に主役として動いていたように見えて、
それは結局のところ、京子の紙芝居でしかありませんでした。
実際は、京子が「主役」で紙芝居をひたすらめくっていたとも言えます。
その意味では「あかりが主役になった回」と単純に言ってしまうことはできません。

この辺りは、私が一話の感想で述べたことに関連します。
ここで私は、あかりが「外部においては主人公になる」と言いました。
すなわち、あかりはどこか別のところに本筋があるときに、
「物語(本筋)の外部」において主人公になるということです。

その代表が、一話の「あかりの夢」の話であり、
また五話の、あかりが一人電車に乗り遅れて取り残される話でした。
両方とも、提示されるあかりの物語とは別に、本筋とでも呼べるような物語があります。
一話の場合、あかり以外のメンバーは起きていて電車に乗っていました。
あかりが参加していないそこで、何らかの物語があったはずです。
五話の場合は、もっと明確で、他のメンバーはプールで楽しんでいました。
あかりが参画していた物語とは別に、他のみんなが登場する物語があったのです。
この限りにおいて、あかりは「主人公」ないし「主役」となる。


11話もその範疇で語ることができます。
過去で奮闘するあかりの裏には、他のみんなが参画する現在の物語があった。
あかり捜索のためのビラを作成する、別の物語があったわけです。
また、京子が紙芝居を聞かせるという、現実における第二の別の物語もありました。
以上のように、「他のところに物語がある限りにおいて」
あかりは主人公として非常に目立つことになります。
11話も、あかりは「外部において」主役でした。

さて、11話であかりが「主役」だったかと問われたとき、
以上の考えから、私は単純には首肯できないように思います。
その意味では、11話を「あかり回」と呼ぶのにも一定の留保が必要です。

しかし、そのように考えたとしても、確固たる事実が一つだけあります。

十一話が、「あかりが想われている」ということを主題にしていたということです。
その意味では今回の話は、間違いなく「あかり回」でした。
このことは、非常にぼかされてはいる。
しかし、間違いなく読み取ることができます。
今回の記事ではそのことについて考えを述べていきたいと思います。

ある意味、真の最終回である今回の話。
もしよろしければ、お付き合い下さい。



○あかりは「想われている」ということ:みんなに、京子に、そして――

今回の話であかりは、二人に、というより物語の中で二重に、
「想われているということ」が示されていたと読むことができると思います。
それを順番に論じていきたいと思います。

第一に、京子が書いた物語の中にだけ注目してみましょう。
ここでは、あかりが「みんなに」想われているということが提示されました。
それを、内容を振り返りつつ確認したいと思います。

過去において、あかりは二つのことを天秤にかけることになります。
過去の改変か、過去の保存という、二つの行為の間での逡巡です。
それぞれ、「存在感が薄いという現在の自分を変えること」と、
「今までのみんなとの思い出を保持すること」という利益に繋がっています。
最後の最後まで、あかりはこの間で悩むことになります。
そして、ぎりぎりのところで以下のように決断します。

やっぱり、みんなとの思い出を変えることはできない。
できないよ。

結局、過去を変えなかったけど、いいの?

うん、存在感は、未来で勝ち取ってみせるよ!


それでは、何故あかりはあれ程気にしていた「存在感の薄さ」の払拭よりも、
「みんなとの思い出」を選び取ることができたのでしょうか。
その答えが、挿入歌「みんなだいすきのうた」にこれ以上なく表れています。

みんなの 笑ってる顔を 思い出し目を閉じて
ふかふか お布団かぶった なんでかな涙が出た

楽しいおしゃべり 何でもない時間 今日も過ぎてくけど
大切な想い 伝えたい 伝えたいんだよぉ

大好きだよ みんなのこと いつまでもいっしょで笑ってたい
だから明日 また会おうね それまでちょっとだけ おやすみ

大好きだよ 明日また会えるね それまでちょっとだけ おやすみ


みんなのことが「大好き」だからです。
みんなのことが大好きだから、そのみんなとのかけがえのない思い出が、
存在感の獲得よりも遥かに意味のあるものになり得るのです。

未来に帰るあかりの表情に、後悔は全くありませんでした。
彼女は自分で満足できる、正しい決断ができたと考えているのだと思います。

みんなが「大好き」だから、過去の改変は行わない。
このあかりの答えに応える形で、みんなはあかりを迎えることになります。

あかりの予想に反して、みんなが心配してビラまで作ってくれたことが分かるのです。

過去であかりが大好きなみんなを想っていたように、
みんなもあかりのことを想っていた。


過去であかりが流した涙は、みんなを想っての、みんなのための涙でしたが、
再会したときのみんなの涙も、あかりのための涙でした。
以上のように、あかりの想いに対して「みんなの想い」が返されます。
これが第一に示された、あかりはみんなに想われているということです。

しかし、これだけでは物語は終わりません。
最後になって、この物語が「京子の書いたもの」と暴露されることになりました。
ちなつの画力が初披露された話を思い出させる展開です。
当然のことながら、前述の展開に感動した視聴者は肩透かしを喰らうことになります。
少し探したところ、やはりこのオチには賛否があるようでした。
先述した「あかりがみんなに想われている」ということを、
事実ではなく、単なる創作上の出来事に押し込んでしまったというわけです。

けれども、私はあのオチが「あかりがみんなに想われている」ということを、
「所詮創作上のこと」にしてしまうために入れられたという考え方とは、
別の考え方ができると思います。


むしろ、あかりが想われているということを、
二重に提示するために入れられたと考えることができるのではないでしょうか。
つまり、あかりはみんなに想われているだけではなく、「京子にも想われていた」
このことを示すためのオチだったと解釈できるように思います。

というわけで、第二に、京子が書いていたというところまで含めて、
今回の11話全体を考えて見ることにしましょう。
ここで提示されるのは、あかりが「京子に」想われていたということです。

京子の紙芝居の中で、あかりを迎えるシーンは感動的なものになっていましたが、
このようなラストにしたのは、他でもない、物語の書き手である京子です。
しかも、敢えて別のラストを提示しながら、京子は感動のラストを選択しています。
あかりが現在に帰るシーンでの、あかりの予想を引用してみましょう。

ただいま、みんな!

あ、あかり。
帰って来たね。
あかりちゃん、お土産は?

って、みんな少しは心配した?

存在感が薄いから、ちょっと忘れてたよ。


これは非常にありそうなことです。
少しあかりが不憫な形になって、終わる。
特に最後の京子の言葉が、京子らしい一言と言えます。
京子はあかりを、影が薄いことでいじることが特に多いキャラクターだからです。
しかし、実際はこのラストは選択されませんでした。

あ、あかり。
あかり!
どこ行ってたんだー!


存在感が薄いことをネタにするのではなく、
京子は最初に涙し、最初にあかりの方へと飛びつきます。
これを京子が書いているということは重要なことだと思います。

作中では、何を考えて京子が書いたかは語られません。
語られたとしても、映画を見て触発されたということくらいのことです。

しかし、物語の最も大きな強調点として、
京子は、自分を含めたみんながあかりを「死ぬほど心配した」こと、
つまりみんながあかりのことを想っているということを選んでいます。


普段、存在感が薄いことで最もあかりをいじる京子がです。
ここにあまり表に出ることはない、京子の想いを読むことができると思います。
京子はあかりをよくいじるけれども、彼女のことを想っている。
紙芝居のこととされることにより、この読みが成立すると言えます。

紙芝居オチは、あかりが想われていたということを非現実にするとも読めますが、
作中に別の想いを導入する契機になっているとも読めるのではないでしょうか。
私はこのことを強調しておきたいと思います。

結論として11話は、二つの意味であかりが「想われている」ことを描いた話でした。
まず、あかりがみんなを想うように、「みんなもあかりを想っている」ということが、
あかりの過去への遡行を通じて語られることになります。
次に、それを描いたとされる京子、普段誰よりも影が薄いことであかりをいじる京子が、
そのような話を書いたことで、「京子があかりを想っている」ということが提示されます。
以上二つの想いを描いたのが、11話であったと言えます。

そしてここから、さらに外部を見ることも可能だと思うのです。
アニメ一期の内容は、原作でも最初の方、およそ四巻までを描いたこともあって、
あかりの存在感が薄いということなどが強調された面がありました。
アニメのこのような部分に批判的な意見も一期の頃には特に多かったように思います。
しかし、二期の「真の最終回」とされる重要な回に、
「あかりが想われていること」を示す話を持ってきたということ。

私は作り手のことを色々と推測するのは好きではないのですが、敢えて言えば、
そこにアニメの作り手が「あかりを想っている」ということも見いだせるのかも知れません。




以上です。
少し風邪気味で文章が崩れているかも知れませんが、ご容赦下さい。

これまでも一期の内容を思い出させるような話は多くありましたが、
今回は一期の一話二話をそのまま踏まえた話だったので、
一年前のことを思い出しながら見た人も多かったのではないでしょうか。

先週の話が、一期の修学旅行の話を思い出させるような話であったことは、
今回の話の準備を視聴者に促すためであったとも取れるように思います。

また、あかりが過去で助力を求めて未来から来たことを暴露した三人は、
一期の二話までに登場しておらず、かつあかりとの関係が、
ある程度深い人物という条件に基づくと、あの三人で最大でした。

千鶴が出てもいいかなとも思ったのですが、原作を確認すると、
彼女とあかりは意外なことにほぼ出会っていないんですね。
アニメでも同じだったか、かなりうろ覚えですが、仮に二人が出会ったとしたら、
千鶴はあかりに姉のような雰囲気を感じ取りそうであると思います。

さて、次回は本当に最終回ということで、どのようなものになるのか楽しみです。
予告を見る限り、いつも通りな内容に戻る気がしますが、何かあるのでしょうか。

テーマ:ゆるゆり
ジャンル:アニメ・コミック

あかりとちなつの間の「距離」の演出について (ゆるゆり♪♪:十話感想)

2012.09.04 20:57|ゆるゆり
二度目の修学旅行回です。

今回は、京子たち上級生が再び修学旅行に行っている間の出来事が描かれました。

原作で言えば、櫻子と向日葵が道に迷う、42話「旅は道連れ…?」、
ちなつがあかりにマッサージをする、43話「私ってテクニシャン?」、
櫻子と向日葵の衝撃の過去が明かされる、54話「もう、してた。」の三本でした。
その合間に修学旅行の様子が挟まれ、最後はメタなオチで終わっています。

この、修学旅行中の下級生組の様子を描いた42話、43話は、
私が個人的に好きな話だったこともあり、
一期の修学旅行回で描かれなかった時点でかなり残念でした。

以上の二つの話は、「上級生が修学旅行に行ってしまった」ところからスタートするので、
修学旅行を一期で使ってしまった以上、アニメ化は難しいかも知れないと、
思っていたからです。

しかし、「二度目の修学旅行」を導入することで、
アニメはきっちり二つの話を描いてくれました。
私はとても嬉しい想いで、昨夜視聴した次第です。

中には劇中での「二度目」の強調に、嫌悪感を示した方がいらっしゃるかも知れません。
アニメは「二度目」を使うことで『ゆるゆり』の雰囲気を壊しているというわけです。
百合や日常を描く作品ではなく、どこかギャグ漫画的になっているという指摘です。
しかし、この批判は全く正しくありません。
今回のアニメのある種のメタは、『ゆるゆり』のある部分を最も反映した、
原作理解の上でのアレンジであったと言えるように思います。

この話は後にまた触れることにしましょう。

さて、今回は三つのことに関して感想も踏まえつつ語ろうと思います。

第一に、櫻子と向日葵の関係に関する作中の強調点について、
第二に、アニメにおけるあかりとちなつの関係の描き方について、
そして第三に、「二回目の修学旅行」というメタについてです。


もしよろしければ、お付き合いいただければ嬉しいです。



○櫻子と向日葵の関係性:強調される「変わっていないこと」

まず、アニメ十話は修学旅行の回であるのと同時に、
非常に櫻子と向日葵の関係性に焦点が定められた回でもありました。

そもそも上級生が修学旅行に行っていた間に起こる話として、
原作時点で設定されているのは、最初の二つの話しかありません。
最後の、櫻子と向日葵の婚姻届を書いた過去が明かされる話は、
本来修学旅行とは何の関係もない話です。

しかし、二つの修学旅行に関係する話に接続するもう一つの話として、
あの婚姻届の話を選んだことは、アニメの見事な配置であったと思います。

あの話は、櫻子と向日葵の幼少期が問題となるという点で、
一つ目の、櫻子と向日葵が一緒に道に迷う話と無関係ではないからです。

二つとも、二人の過去が問題とされています。

アニメはここに関連性を見出し、三つ目の話として、
敢えてまだ一つもアニメ化していない八巻から話を引っ張ってきたのだと思います。
まだ、七巻まででアニメ化していない話があるのにもかかわらずです。
ここに以上に述べたような意図を読み取ることはできるように思います。

さて、今回は十話の二つ目のテーマとも言えるであろう、
この「櫻子と向日葵の関係性」について考えて見たいと思います。
幼少期の頃を踏まえた、二人の関係についてです。

けだし、二人の長い関係を語る際に、強調される点というものがあります。
それが、二人が「変わっていないこと」です。

これは不可思議な主張のように思えるかも知れません。
櫻子と向日葵の関係は、一見大きく変わっているように思えるからです。

既にご存知のように、櫻子と向日葵は幼少期は仲のいい友達でした
しかし、現在はライバルとして火花を散らす仲です。
無論、現在でも何だかんだで仲はいいのでしょうが、
その関係は幼少期と比べれば明らかに変わっています。

しかし、作中で強調されるのは、「変わったこと」ではありません。
むしろ二人の関係が変わったことを前提として、
芯の部分では「変わっていないこと」が非常に強調されるのです。

今回アニメ化された話を軸として考えて見ましょう。
両方とも二人の幼少期について触れる、道に迷う話と婚姻届の話のことです。

まずは、修学旅行中に二人して散策に出て迷ってしまう話です。
向日葵は眠る櫻子の姿を眺めつつ、幼少期のことを思い出しつつ考えます。

…まったく
好き放題遊んで 疲れたら寝て…
子どもの頃からなにも成長してませんわ
今日だってろくなことにならないと分かっていたのに…
分かっててついてきちゃう私も成長してませんわね


ここで問題にされているのは、幼少期からの差異ではありません。
向日葵が櫻子に赤ずきんを読み聞かせてあげていた過去があるとは、
現在の二人からは想像もできないことですが、そこは強調されない。
向日葵によって、「成長していないこと」が強調されています。

成長していないことの強調、それは「変わっていない」ことの強調と読めます。
事実、二人とも成長していない結果、櫻子が奔放に動き、
向日葵はそれに振り回されるという関係性は変わっていません。

ここが、二人の関係において強調される点なのです。
ライバル関係になっても、根っこの部分では何も変わらないということ。

ここにだけある強調であるのならば、敢えて私も言いません。
しかし、この強調は婚姻届の話においても再び取り上げられます。

撫子は喧嘩する二人を見て、婚姻届を交わしていた幼少期からは、
かなりかけ離れたところに来たと考えています。
「……あんたたち 昔は仲良かったのにね」と言う場面にそれは表れています。
けれども、この話の結論は、やはり「変わったこと」ではないのです。

撫子は、向日葵がお菓子を作ってきて櫻子が食べるという点を見て、
以下のように考えることになります。

……なんだ 全然変わってないじゃん

さすが婚姻届を交わした仲なだけあるね


そして、この話は終わります。
出番が端折られた花子様は不憫。
ではなくて、やはり話の結論として二人が「変わっていないこと」が持ち出されます。
変わっているけれど、根っこは変わっていない。
この逆説の後に来る「変わっていない」こそ、二人の関係において強調されるのです。


櫻子と向日葵の関係において強調される、「変わっていないこと」
これと非常に対照的な関係があります。
すなわち、「変わっていること」が強調されている関係です。

それがもう一組の幼馴染であり、同級生でもある、京子と結衣です。

二人の関係においては、「変わったこと」こそ強調点となります。
一期でアニメ化済の、原作30話「こどもの時間にあいこでしょ!!」を見ましょう。
ここで、あかりを含めた三人と、ちなつの初の邂逅が語られます。
結衣がやんちゃで、京子が大人しく、あかりが妙にはしゃいでいる頃の話です。
その話を一通り聞いた後で、ちなつはこう言います。

京子先輩が泣き虫とかありえないんですけど…
キャラ作ってんじゃないですか


あるいは、結衣もこう言っています。

おまえ昔の方がいい子だったな


京子においては「変わったこと」こそ強調されているために、
結果として、京子と結衣の関係も変わったのだということが示唆されています。

「それでも二人は変わっていない」というような強調が、
作中において明言されることはありません。
ちなつは昔から「変わっていない」とあかりに言われることになりますが。

つまり、京子と結衣の関係においては、「変わったこと」こそ強調される。
これは、櫻子と向日葵の関係と好対照に映ります。
「変わっている」京子と結衣。
「変わっていない」櫻子と向日葵。

実際は櫻子と向日葵の関係も変わっているし、
京子と結衣も根っこの部分では変わっていないと考えることもできるのですが、
作中において強調される点は、これだけ対照的なのです。

この対照は、けだし京子と櫻子の差異に関連しています。
詳しくは先週の記事を参照して頂きたく思いますが、
二人のよく似た奔放さは、「成長」によって差異化されています。
「成長している」京子と、「成長していない」櫻子ということです。
京子は変わっており、成長しているので、奔放の中にある種の思慮がある。
対して櫻子の場合、変わっておらず、成長していないことを表象するので、
そうした思慮深さは見出せず、代わりにおバカキャラのように現れてくる。

結論として、櫻子と向日葵の関係では「変わっていないこと」が問題となるのに対し、
京子と結衣の関係においては「変わったこと」こそ問題となります。

それは同時に、櫻子と京子というよく似たキャラクターを差異化するのに、
一役買っている点であると言えるように思います。



○あかりとちなつの関係性:「第一の友達」

今回のあかりとちなつの話においては、京子が買ってくるお土産以外に、
内容上の改変はあまりないのですが、その分演出が光っていたと思います。

例えば、以下の場面です。

ありがと あかりちゃん
少しだけ元気出たかも

ううん ほんとのこと言っただけだもん

あかりちゃん優しいな


この最後のちなつの言葉で、ちなつの背景がきらきらしています。
これは見ていてかなり目立ちました。
これがどのような意図で行われたと読むかということに関しては何とでも言えるでしょう。
しかし、そのちなつの言葉が重要なものと考えられたということは間違いないと思います。

また些細なことですが、湯呑みが横に倒される場面が、
あかりが膝枕をされる直前になっていたため、
そのときの不安定なあかりの心情を、
倒された湯呑みという不安定な状況が上手く表すことになっていました。


さらに、もはや半ばあかりのテーマと化している、
末尾の天使が昇天していくかのようなBGMも、妙に合っていました。

以上、BGMなども含めて、演出全般が非常に面白い話でした。
しかしその中でも特に注目すべきは、「距離」に関する演出だったと思います。
ここが強調される演出が私の目を引きました。

まず、ちなつが結衣がいないことを寂しがり、あかりが慰める場面です。
ちなつがあかりに直筆の手紙を見てもらう直前、
二人の間に、ちょうど和室一間分の距離があることが分かります。

これは原作と比べて、かなりの距離を取っています。
そしてここから、ちなつは手紙を見てもらうために一気に距離を詰める。
そのときの跳躍力は異常なものです。

そして以下の場面に至ります。

あかりはちなつちゃん可愛いと思うよ~
好きな人にすっごく真っ直ぐですてきだよっ

ほんと? 他には?


ちなつが褒めてくれたあかりに半ば抱きつくようにして接近する場面です。
ここで、ワンポイントの強調が入っています。

二人がかなり肉薄したことと、髪がふんわりと舞って、
ちなつの香りがあかりの方へ、届いたことを暗に示す演出です。
この辺りは見ていてどきどきしました。
二人の距離が詰まった、そのときの雰囲気がこちらまで伝わるようでした。

以上に挙げた、「二人の間の距離」を強調する演出を、
私が重要視するのには訳があります。
それは、そもそもこの話自体が、あかりとちなつの距離が近づいていく話だからです。
ここで言う「距離」とは、二人の関係性における距離のことで、
月並みな言い方をすれば「心の距離」のことです。
マッサージの話はこれが次第に近づいていく話と取れます。

二人の間の「距離」に関わる演出は、この「心の距離」を上手く表しています。

まず、修学旅行で結衣が不在なことを寂しく思うちなつがいます。
このとき、あかりは彼女にとってほとんど意味をなすものではありません。
ちなつにとっては結衣の不在は「死活問題」なのです。
当初はあかりに背を向けて一人で泣いてしまいます。

そしてこのときの二人の間の実際の距離こそ、和室一間分の距離なのです。
二人の間にはかなりの距離があります。

次に、あかりがそのようなちなつの話を聞き、相談に乗る中で、
ちなつはあかりの方を向いて驚くべき跳躍で、あかりに一気に接近します。

そして、あかりがちなつを「可愛い」と言ったとき、
二人の距離はさらに近づき、ちなつはあかりに抱きつくような形で迫ります。

シャンプーの匂いをあかりが感じることができるくらいに、
二人の距離は近づくのです。
ここが、演出によっても強調されています。
ちなつはこの後すぐさま、印象的なあの言葉を述べます。
「あかりちゃん優しいな」

二人の「心の距離」は、「実際の距離」に比例する形で、
近づいていることが分かると思います。

初めにちなつの頭にはほとんど結衣のことしかありませんでした。
それが次第にあかりの方へシフトしています。

彼女にとって結衣の存在が第一でなくなることなどありませんが、
「あかりちゃん優しいな」と素直に言い、彼女にお返しをしようとちなつが思ったとき、
あかりは「隣にいる存在」として明らかに第一の位置にいます。


結衣とは違うけれども、それでもあかりは第一になっている。
その結果として、やがて距離は零になります。
ついに密着を含む、膝枕やマッサージに至るのです。

これにより、あかりは不幸な目に遭うわけですが、
二人の心の距離は、明らかに当初の状況から近づいています。

「距離」を強調する諸々の演出は、この物語の理解した上で、
それをより効果的に見せるために行われたものであるように私には見えます。

「遠さ」の強調、「肉薄したこと」の強調。
そこに、二人の精神的な距離も詰まっているのだということを見出せるのです。

ちなつにとって、あかりは単なる恋愛の相談相手ではありません。
単に利用できる都合のいい相手ではない。
あかりは第一の友達に違いないのです。
だから、最も自分にとって大きな問題である結衣のことを相談もするし、
あかりの家に自然に泊まりにも赴くし、
裏目に出ることが多いですが、相談のお礼をどうにかしてしようと思う。

相談に乗ってもらうという、ある種の「利用」に対して、
ちなつは自分をあかりに「利用」してもらうことで、
どうにかお返しをしようと試みるのです。

ちなつはある程度、相談に乗ってもらうことを悪いと思っています。
原作7巻のおまけ漫画③より引用します。

ごめんね あかりちゃん
いつも結衣先輩のことで相談にのってもらっちゃって


しかし、あかりは対価など求めません。
彼女はちなつに対してこう答えるのです。

ほんとはね~
あかり 嬉しいんだよ~

ちなつちゃん いつも あかりに相談してくれるから
それがちょっぴり自慢なんだぁ


こうしたあかりの言葉を、彼女が「いい子」であること、大袈裟に言えば、
彼女の「天使性」でだけ説明しようとするのは、誤りだと思うのです。

あかりは時々被害を受けながらも、何故このように言えるのか。
それはあかりにとっても、ちなつが第一の友達だからに他ならないのではないでしょうか。

二人は相互に、「第一の友達」であると考えているのだと思います。



○アニメの意識的なメタ発言の排除:原作との差異、あるいは共通点

最後に、十話におけるメタネタに関して触れておこうと思います。
京子たちは本人たちは気付いていないものの、二度目の修学旅行に行きました。

このことが、京子の「ここ前にも修学旅行で来なかった?」という台詞や、
十話の末尾において、不思議なことにお土産の木刀が既にあったところで、
かなり直接的に示されています。

しかし、真に注意すべきなのは、そこではありません。

むしろ劇中では、意識的なメタ発言が徹底的に排除されたことにこそ注目すべきです。
意識的なメタ発言とは、登場人物たちが自身が物語の住人であるという、
本来知りえないような情報を知る存在として述べる、その発言のことです。
今回は京子がかなりここに近くはありましたが、
結果的に彼女たちは誰しも「二度目」であることを知覚していませんでした。

その意味で、意識的なメタ発言は排除されていました。

ただし、これには一つだけ例外があります。
それが冒頭の「アッカリーン」パートです。
ここでは全員、「また」修学旅行であることを分かっていて話しています。
しかし、これは今回だけの話ではありません。
普段からあかりは、自身が劇中の人物であると分かっているかのように、
「カメラさん」に平気で話しかけるなどしています。
ここでだけ、意識的なメタ発言は許容されているのです。

その例外を除いて、劇中では意識的なメタ発言が見受けられないということ。
これは大きな原作との違いです。
原作では、意識的なメタ発言が認められている部分があります。


私は以前の記事でこの話は既にしていますが、
二期二話でアニメ化された、23話「方式が決定しました」です。
ここでは、登場人物自身が『ゆるゆり』が「サザエさん方式」であることを語ります。
アニメ化されたとき、アニメは劇中でその意識的なメタを排除していました。

原作においては、23話を代表として、このようなメタは往々にして認められます。
『ゆるゆり』が雑誌を移ったことや、アニメ化したことを、
非常に例外的にではありますが、登場人物自身が語ることができているのです。
ここが原作とアニメを大きく差異化してます。

いや、差異化というのは正確ではないのかも知れません。

原作においても意識的なメタ発言は極めて限定的な、例外的なものです。
アニメにおいても、それが「アッカリーン」パートでだけ用いられていることを考えれば、
アニメにおいても例外的に使っているという点で、
むしろ原作に近いと言えるのかも知れません。

だとすれば、原作との共通点として語るべきということになる。

結論として、アニメと原作は意識的なメタ発言を巡って、差異があるように思います。
それは差異であり、同時に共通点とも言えるような差異です。

アニメは劇中から意識的なメタ発言をほとんど排除している。

ここに、アニメが目指しているものが見えてくるような気がするのです。
何故、劇中で意識的なメタ発言を排除するのでしょう。
それは、劇中の出来事を「物語の中のこと」にするのではなく、
「日常」として、見る側に提示するためではないでしょうか。

彼女たちはあくまで彼女たちの日常として、毎日を生きている。
そこを侵してしまわないように、「二度目」でありながら、
登場人物にはそれをぎりぎりで気付かせなかったように私には思えます。



以上です。

今回は話の配置からして巧みだったと述べましたが、
それは『大室家』までに引き継がれています。

あの婚姻届の話がなければ、撫子の携帯の着メロを変更した話は、
意味不明なものになったかも知れません。
アニメであの話をやった後だからこそ、「変えて」と言われた意味が分かる。
その辺りも巧みであったように思います。

それにしても、友人には内緒で、姉妹たちの眼前でも電話をするのを避ける撫子が、
向日葵の前で電話をしてしまっているのは何でなのでしょうかね。
実際に向日葵には「彼女さん」かと勘繰られてしまっているわけですし。
あのときは機嫌がよくて気付かずにやってしまったのだろうか。

巷では藍さん彼女説が強いようですが、
藍は「隣にいる」立ち位置で、めぐみは「いじられる」立ち位置で、
美穂は「いじる」立ち位置で、三人が三人違う立ち位置なので、
そのうちの誰がいいかを考えるよりも、
この子だったらどうなるだろうというのを考えると得な気がします。

そもそも『ゆるゆり』が付き合った後の一対一の関係を規定せず、
それぞれの関係性の良さを描いていく作品だと思うので、
撫子の彼女が誰か明かされず、可能性だけ提示されるという点は、
非常に『ゆるゆり』らしいやり方であると言えると思います。


来週はある意味最終回らしいので、何だか緊張しています。
どのような話になるのか、楽しみです。

テーマ:ゆるゆり
ジャンル:アニメ・コミック

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Author:天秤
天秤と申します。
アニメや漫画など、好きなものについて考えたことを書き込みます。
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