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麦わら帽によって表現されたあやかの二つの気持ちの調停について(缶乃『あの娘にキスと白百合を 5』)

2016.12.25 23:21|百合作品
今回は、先日発売された、缶乃さん『あの娘にキスと白百合を 5』を考えます。
特に注目するのは、あやかとゆりねが海に行くワンシーンです。
海に行く一連の流れの中で、あやかの心情は目まぐるしく移り変わりました。
あやかは、母からの電話を受けて、認められるために頑張って来た、
今までの自分を全否定するに至り、学校をさぼって海に行きます。
ゆりねは、そんなあやかをたまたま見かけて一緒についていくことになります。
この海へ行くシーンにおいて印象的なアイテムとして登場しているのが、「麦わら帽」です。
作中で文字による特段の説明はなく、いつの間にかゆりねに購入され、
そしていつの間にかあやかに被せられた麦わら帽。
この記事では、この麦わら帽に込められた意味を考えてみたいと思います。

麦わら帽による表現を考える前提として、
あやかが海に行くときに、制服を着ていっているという問題があります。
何故あやかは、学校をさぼって海に行くのに、
そのような海に行くのに適していない、
学校に行く恰好をしていたのでしょうか。
このことは、重大な疑問であり、この話の核心とも言えます。

あやかが海に行くのに制服を着ていった点に表れているのは、
一方で「一番じゃなくてもいい」を極端に突き詰めた結果として、
「認められなくてもいい」という気持ちを抱くに至りながら、
他方で依然「認められたい」という気持ちをも抱いている、
あやかのアンバランスな心理状態です。

学校をさぼって海に行くという反優等生的行動が、
あやかの「認められなくていい」という気持ちを、
制服をきちんと着ていくという優等生的行動が、
あやかの「認められたい」という気持ちを両極端に表現しています。
海に行く時点で、あやかの心中はこの両極端な気持ちによって揺れていたと言えます。
そのことが、学校に行かずに海に行くのに制服を着て行くというちぐはぐな様に表れています。

麦わら帽は、その両者の調停的位置にあるものとして登場しています。
というのも、麦わら帽は、一方で海にそぐわない装備でなく、
他方で制服にそぐわない装備でもないためです。
麦わら帽が制服にそぐわないということについては、違和感があるかも知れません。
しかし、例えば涼しげなTシャツであれば、それを制服の上から着るわけにはいきませんが、
麦わら帽は制服とともに身に着けることができます。
この意味で言えば、麦わら帽は制服にそぐわないわけではないのです。

あやかの二つの気持ちの調停的位置にある麦わら帽を、
ゆりねがあやかに被せてあげるということ、
そして最後には、あやかが自らそれを手に取って被るということ。
ここには単なる物理的な麦わら帽の移動以上の意味を見出せるのではないかと思います。

すなわちそれは、一方で両方の気持ちを持って海までやって来たあやかを、
最終的に否定せず受け止めるゆりねの気持ちを表し、
他方でゆりねからの言葉を受け止めて、
両方の気持ちを持つ自分を肯定するあやかの気持ちを表していると思うのです。

第五巻94ページにおいて麦わら帽を大事そうに抱える幼少期のあやかは、
そういったことを想起させるイメージであったと考えることができます。
かつて誰かに麦わら帽を被せてもらえなかった少女は、
ここでようやくゆりねから麦わら帽を被せてもらえたのであり、
それにより両方の気持ちを持つ自分を肯定できるようになったのではないでしょうか。


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テーマ:漫画の感想
ジャンル:アニメ・コミック

青葉と緑が警察の現実を知りながらそれでも警察官を目指す理由 (森永みるく『学園ポリーチェ』)

2016.09.25 16:32|百合作品
今回は、二〇一四年に発売した森永みるくさん『学園ポリーチェ②』について考えます。
この作品は、いじめやわいせつ事件等、学校における事件を念頭に、
学校に内偵のため配置している特殊な警察官「ポリーチェ」として、
事件の解決に当たっていく青葉と緑を描いたものです。
この作品の最大の疑問はおそらく、警察が必ずしも正義ではないこと、
警察以外の正義もあることを強調しながら、
青葉と緑が最終的に警察官を選ぶのは何故かということでしょう。
その辺りが、まさしく「刑事ドラマ」的なのですが、疑問として残る点であると思います。

最後に青葉は、「正義の味方なら何でもいいんじゃなくて…「警察官」になりたいんだ」(153ページ)と、
言っているのですが、そう考えた肝心の瞬間がすっ飛ばされて、
いきなり警察学校での再開なので、どうしてそう考えたのかしらということが問題となるのです。

この疑問については、次の二つが答えとして提示できます。
第一に、青葉が言うように、「悪い奴に手錠かけられるのはやっぱ警察だけだから」(153ページ)です。
彼女たちの「正義」を履行するための「権限」が、警察官にはあるんですよね。

しかし、「組織の正義」を優先する警察という組織においては、
「権限」があっても十全に「正義」の名の下に動けなくなるかも知れません。

そこで第二の理由として、警察組織を前にしても、
自分たちが自分たちの「正義」に沿って動けることを確認できたことが挙げられます。


本庁直々に接触禁止命令があったにも係らず、
紅梨が言うように、二人は「目の前で犯罪が行われているのを黙って見て」いることなく、
制止することができました。
ここで二人は、「組織の正義」を前にしても自身の正義で行動できることを確認しています。

つまり、二人は第一に、自身の正義の履行に際してポリーチェでは「権限」が足りないと確信し、
第二に、「組織の正義」を前にしても挫けず自身の正義を掲げて行動できることを確認したために、
最終的に警察官を選んだと考えられます。

それで先の疑問に答えたとして、次に浮かぶのは、
それでは何故、紅梨のようにポリーチェの権限拡大の方に加わらなかったかという疑問です。
ポリーチェとして、彼女といっしょに行動する道を取るわけにはいかなかったのでしょうか。

これは、ポリーチェの権限拡大の動きの中でも、
ポリーチェが扱う事件の範囲については多分変わらないためです。
紅梨はポリーチェが「学生警察官」なのには不満を持っていません。
しかし、青葉の正義にはそれでは不十分なのです(第6話、第7話)。
だからこそ、権限を拡大されたポリーチェとしてではなく、
警察官として歩む道を選択したのではないでしょうか。

結論として、青葉と緑が警察官を選択するのは、
第一に彼女たちの正義の履行には警察の持つ「権限」が必要であったためで、
第二に警察が組織の正義を追及するとしても、
二人であればそれに拘束されずに、
自分たちの正義を追及できることを確認できたためです。
その上で、ポリーチェではなく警察官である理由は、
彼女たちの正義が「学生警察官」の領分を超えるものであり得るためと考えられます。


テーマ:漫画の感想
ジャンル:アニメ・コミック

循環する二種類の真実の語り ――相手の真実を知り、相手に真実を語るということ (なもり『ゆりゆり』)

2016.05.05 16:38|百合作品
今回は、なもりさん『ゆりゆり』のうち「ゆりゆり4」について考えます。
底本は、2012年に百合姫コミックスから発売された、同人誌をまとめたコミックスです。
『ゆるゆり』と比べると、決定的な一歩の手前を扱っているわけではない点で差異がありますが、
同作品と同様に、それぞれの関係が個々人にとって如何なる意味を持っているのかを、
丁寧に描いている作品です。
この記事では、そのうちから「ゆりゆり4」と「ゆりゆりafter」における同作品のアフターに注目し、
ここで描かれている関係が、如何なる関係であったかということを考えてみます。
既に数年前の作品ではありますが、自分にとって重要な作品というのは、
ふとしたときに振り返りたくなるもので、その度に考えが積み上がっていく類のものです。
そのため、現時点での自分の考えをここにまとめておきたいと思います。
もしよろしければ、お付き合いいただけると幸いです。

さて、「ゆりゆり4」において提示されている関係は、
二種類の真実の語りを取り扱っているように思います。
すなわち、「自分の相手への想い」についての真実の告白と、
「その人がどのような人であるか」ということについての真実の語りの二種類です。
前者は、ラブストーリーでは重要なテーマとされることが多いものですが、
この作品においては後者が際立っていると考えます。

つまり、作中に登場する河口先輩は、周囲に王子様であることを求められ、
自分自身をどこか偽って過ごしていたと言えるわけですが、
あさみは彼女のありのままの姿を知っていて、かつ、
自分自身はありのままに語る人物として作中に現れています。


彼女のありのままの語りは、二種類見出すことができて、
まずは冒頭の「ありがち」な告白(93ページ)で、
次に無理をしないでという趣旨の助言(110ページ)です。
後者は、あさみが先輩に関する真実を知っているということに関連しています。
そして、この二つを併せ持つという点において、あさみは他の生徒と差別化されています。

つまり、あさみには、①先輩の真実を知っているということと、
②先輩に対して真実を語るという二つの要素が見出せるわけで、
そのためにこそ先輩の方も気になっていくわけです。

だからこそ、あさみの告白への正式な答えは、
同様に「ありがち」で「かっこわるい」ものでなければならなかったとも言えます。

なぜなら、その「ありがち」で「かっこわるい」告白こそ、
先輩が彼女に抱く想いそのものを、
誇張も虚飾もなく、そのまま真実として伝えるものに他ならないからです。
真実を語ってくれたあさみに惹かれた結果として、
相応に真実を語って返すという展開となっています。

この真実の語りは、二人の関係の間において循環しています。
具体的には、「ゆりゆりafter」において引き継がれています。
ここでは、今度はあさみの方が、寂しいという真実の気持ちを語れなくなったときのことが描かれます。

このとき、先輩はそれを悟ってあげて、指輪を贈ってあげました。
これを、自分の想いを率直に伝える、そのような語りの延長で捉えられるのだとすれば、
このとき先輩はあさみに対して、①あさみの真実を知っていて、
②あさみに対して真実を語る存在になっています。
かつての自分に対するあさみの位置に、今度は自分が立っている。
かつて真実を隠ぺいしていた先輩に、真実を知り、真実を語ってくれたあさみに対して、
今度は先輩の側から、寂しさを秘密にするあさみの真実を知り、真実を語っているわけです。
こうして真実の語りが循環しています。
そしてここにこそ、親しい関係性の一つの意味が表れているように思います。

すなわち、自分の思う自分自身であることが困難である場合において、
その「自分自身」を分かってあげて、それを自分に語ってくれるような人がいて、
初めて自分が自分のままであれるということが、
先輩とあさみの二人の関係には表れているのであり、
一言で言えばそれは、「自分が自分でいられる関係」でした。
しかも一方が他方に対してのみそうあれるというわけではありません。
相互に相手に対してそうあれる関係こそ、この作品で描かれたものであったのではないでしょうか。


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相手を尊敬していたからこその擦れ違い ――ケイコとフーコの認識の差異から (さかもと麻乃『沼、暗闇、夜の森』)

2016.03.13 16:15|百合作品
今回は、さかもと麻乃さんの『沼、暗闇、夜の森』について考えます。
この作品は、百合姫での短編をまとめる等した作品ですが、
その中でここで特に注目するのは「世界の終わりとケイコとフーコ」です。
この話の中で、ケイコがフーコのことについて、
フーコの自認するところとは異なるイメージを持っていて、
それゆえにフーコに「私のことあんまりよく見てくれていないのかも」と思われる場面があります。

「ねえ フーコ~ この道怖いから先に歩いて~」
「私も怖いよ」
「えーウッソー フーコいつもクールにしてるじゃん 怖いものなさそう」
――ついこの間一緒に怖い映画観て私のほうが怖がってたのに…

またあるとき

「今日斉藤先輩にちょー重い荷物持たされてさー」
「ふうん?」
「あの先輩いつも私のこと目のカタキにしてんの
 私が斉藤先輩に一度シングルで勝っちゃったから」
「えー? それはフーコが背高くて頼りになるからだと思うけどなー
 力ありそうじゃん フーコって」
「え… 私より斉藤先輩のが力あるけど…」
――なんか…ケイコって もしかして私のこと
 あんまりよく見てくれてないのかも… (89-90ページ)


この記事では、このケイコとフーコの認識の違いが何故生じているのかを考えます。
このことは、必ずしも作中で明示はされませんでした。
しかし、少なくともケイコがフーコのことをあまりよく見ていなかったから、
異なったイメージを持っていたのではないことは分かるでしょう。
というのも、ケイコとフーコが似たような感情を、
互いに相手に抱いていたということは、作中で明らかにされているためです。
それでは、ケイコとフーコの認識は、何故生じてしまったのでしょうか。
この問いを考えてこそ、ケイコとフーコが互いに抱いていた想いの理解に近付けると思います。
もしよろしければ、作品を読み返しつつお付き合いいただければ幸いです。

それでは、ケイコとフーコの認識の違いについて考えていきましょう。
この話の中では、主にフーコ視点で進むために、何故ケイコがフーコについて、
フーコ自身とは異なったイメージを持っていたのかということについては、
必ずしも明確な言及があるわけではありません。
ここは、個人的に初読のときに気になった部分でした。

このケイコのフーコに対するイメージは、ケイコの中でフーコが、
フーコの中でのケイコと同じように、世界の終わりに瀕して足がすくんだときに、
「終わってないじゃん」と思わせてくれるような凄い存在であったからこそ、
フーコ自身のものとは異なったイメージであったのだと思います。


フーコが「ケイコは私の誇りだしそんなコに大事に思われて私嬉しい」(89ページ)と思うのと同様に、
ケイコも「フーコに才能があるって誰よりも知ってるもん 怖いんだよ
フーコに追いてかれるのが」(87ページ)と思っていて、互いに相手の方が凄いという尊敬があって、
それが擦れ違いの契機となったと考えられます。
すなわち、互いに互いを自分より凄いと考えていることによって、
ケイコの思うフーコのイメージは、フーコ自身の思うフーコのイメージよりも頼もしいものとなり、
結果として「怖いものなさそう」で「背高くて頼りになる」という言葉が飛び出したと解せるのです。

そしてそういうイメージは、ちょうどフーコもケイコに対して持っているに違いなくて、
そのことが、世界の終わりを考えたときのケイコのイメージに表れていたのだという気がします。
フーコが震えているときに、隣で凛として立っているケイコの姿。
それと同様のイメージをケイコも持っていたのではないでしょうか。

こうしたことは、作中で直接には語られていないのですが、
ケイコがフーコのことを先に述べたように考えていた場面が仄めかしています。
単に大切に想うだけではなくて、自分よりも凄いというような尊敬を抱いていたために、
互いが互いに頼もしいイメージを持って、相手を見ていたのです。
その結果として、ケイコとフーコの擦れ違いがあったのだと思います。


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誰かの姿を見て、自分の気持ちを言い、当事者になるということ ――『屋上の百合霊さん』の二つのテーマ (漫画『屋上の百合霊さん』)

2015.11.23 19:51|百合作品
今回は、ゲームから三年目に発売された漫画作品、
『屋上の百合霊さん SIDE A』と『屋上の百合霊さんSIDE B』を紹介します。
二人の幽霊と一緒に密かに片想いを応援していくというコンセプトで、
個々の関係を描いたゲーム『屋上の百合霊さん』の後日談的な作品です。
これらの作品は、ゲームにおける物語の舞台において、
新たな関係が紡がれていくまでをそれぞれ描いています。
今回は、これらの作品がゲームの『屋上の百合霊さん』の扱っていたテーマを、
それぞれに受け継いでいたということを記述的に指摘したいと思います。

まず、『屋上の百合霊さん SIDE A』については、
『屋上の百合霊さん』が有する結奈が個々の背中を押す側面と、
結奈が語れなかった気持ちを自ら語る側面のうち、
後者を形を変えて取り上げた作品であると捉えられます。

つまり、比奈や聖苗の姿を見て、やがて告白に至った栞は、
校内のそれぞれの恋愛を外側から見続けて、
やがて自分の気持ちを比奈に吐露するに至った結奈と重ねられる部分があり、
「誰かの姿を見て、自分自身も自分の気持ちを言う」ことを扱っているところが、
『屋上の百合霊さん』を思い出させるものであったと思うのです。

というのも『屋上の百合霊さん』は、当初ユリトピア建設という目標を掲げて始まりながら、
ユリトピア建設が果たされたところで終わりとなるわけではありません。
いつからか目指す方向は、これまで言えなかった自分の気持ちを言うことにすげ変わります。
その告白の場面が、重要な場面として浮かんでいる形になっているのです。

「自分の気持ちを言う」ということは、当然恋愛の告白を含みますが、
それに限らず、例えば自分の過去の辛い体験の吐露などを含みます。
結奈が比奈に対して料理部のことを語る場面が印象的です。
むしろ、こういう恋愛の告白でない率直な告白の場面こそ、
『屋上の百合霊さん』の特筆すべきところなのではないかと思います。

そうして終盤まで進めて分かるのは、
百合霊さんはユリトピアを建設する物語ではなくて、
自分の気持ちを語れなかった三人が出会って、誰かの背中を押すうちに、
自分の気持ちを語れるようになっていく物語だったのだということです。

結奈もサチも恵も言えない気持ちを持っていたんですよね。

そのため、百合霊さんは大きく分けて、
結奈たちがお節介にも誰かの背中を押す側面と、
結奈たちが言えなかった自分の気持ちを言う側面があって、
いわばこの二つがテーマであったと見なせるのですが、
今回は前者が「SIDE B」に、後者が「SIDE A」に託されている感じであったと思います。

それでは、今度は『屋上の百合霊さん SIDE B』を考えてみましょう。
「先輩達を観察して楽しんでいた人が立ち入ってもいいのかな」(95)という言葉から分かるように、
千英たちは外側から観察する立場ではいられなくて、
内側へと線を跨いでいくことになります。

ゲーム中ではこの辺りのテーマは、
他人の恋路に介入することにいい顔をしなかった結奈が、
渋々追っているうちに他人事ではいられなくなって、
結局背中を押してしまうような場面に表れていたと考えられます。
観察するだけの立場から一歩踏み越えることがテーマの一つであったのです。

ゲーム中では、そういう「観察者からの越境」を描いた上で、
更に「非当事者からの越境」を描いていくことになります。
つまり、結奈は観察するだけでなくて、手助けする立場に回ったとしても、
そこでは依然、自身を当事者には設定していませんでした。
結奈は恋愛をする側でなく、あくまでその外側に自分を置いていたのです。

結奈は、そこから自分も恋愛をしていく側に回っていきます。
この『屋上の百合霊さん SIDE B』も、こういった本編の流れを汲む物語です。
すなわち、専ら先輩たちの観察者であった千英と時乃が、
観察するだけでいられなくなって先輩たちの背中を押す立場に回り、
そして更に――というところで終わるのです。
『屋上の百合霊さん SIDE B』が描いているのは、
「誰かの姿を見て、内側に入り込んで当事者になる」ことと言えます。

本編後の「おまけの百合霊さん」も、千英と時乃が先輩たちのことについては、
単なる観察者でいられなくなったことを示すものになっていると思います。
つまり、他の本編メンバーについては普通に観察して考えることができているのですが、
七津希については全然できていません。
「おまけの百合霊さん」において、千英と時乃が従前とおり観察と妄想をしていく中で、
ただ七津希についてだけは今までとおり観察と妄想することができなくなっているのです。

二人にとって先輩たちのことは、よもや他人事でないので、かつてのように振舞えません。

結論として、『屋上の百合霊さん SIDE A』と『屋上の百合霊さん SIDE B』は、
ゲームの『屋上の百合霊さん』でテーマになっていたことを、
それぞれに再び表していく内容になっていたと言えると思います。
つまり、前者は「誰かの姿を見て、自分も自分の気持ちを言う」ことを、
後者は「誰かの姿を見て、内側に入り込んで当事者になる」ことを描いていました。
その意味で、これらの作品は『屋上の百合霊さん』らしかったと言えるのではないでしょうか。


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