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何年も続く強化合宿が表す「家族」としての765プロ (『アイドルマスター プラチナスターズ』考察)

2016.09.04 21:34|アイドルマスター
今回は、『アイドルマスター プラチナスターズ』の「強化合宿」の意味について考えます。
「強化合宿」という状況は、プラチナスターズの最大の特徴であり、
また最大の問題でもあると思います。
というのも、アイドルたちの話やメールの内容を踏まえると、
皆は仕事があるときに限定的に合宿所で寝泊まりするのではなく、
基本的に365日合宿所で寝泊まりしているらしいことが分かるようになっています。

例えば学校があるときにも、基本的に家に帰るのではなく、
合宿所に帰ることとしているようで、
実家にはたまに顔を出す形であるように聞こえるテキストがあるのですよね。
千早に至っては、それで家を引き払うことも検討しています。
少なくとも週に一回、仕事のあるときに来るという具合ではない。

もっとも、仕事があるときに顔を出すだけでは、
それは普段の765プロと変わらないわけで、
そうでなく平素ずっと寝泊まりするからこそ「合宿」なのだという気もするのですが、
他方でその語の通常持つ「一時性」は、見る影もなくなっていると言えます。

そういう検討に入る以前に、そもそも何年も合宿所を借り切って、
何年も続く「強化合宿」を展開するということが、
現実的に考えていかがなものかと思わせるものです。
だからこそ、本作では「何故合宿なのか」ということが、
考えるべき最大の問題と言えると思います。

そう、問題なのは、システム上不可避に何年も続いてしまう、
「合宿」を描くという無茶をおかしてまで、
敢えて「合宿」という設定を選択した意味は何なのか。
それでもってこそ描かれたテーマ等は何であったのかということなのです。
作品上の無茶の裏にあるテーマをこそ考えるべきであると思います。

「強化合宿」であるということの意味は、物語上具体的に、
皆のアイドルとしての活動と、合宿での生活を重ね合わさり、
本来アイドルとしての活動に全く関係なさそうな合宿だからこその活動が、
アイドルとしての活動に寄与していくという形で示されているのですが、
けだし、それだけではなかったと思います。

重要なのは、765プロの面々が寝食を共にし、切磋琢磨する環境があって、
そこからアイドルとしての活動における進歩に繋がっているという構図なのであって、
これは、これまでの作品の延長線上に見ることができます。

つまり、2nd VISIONに入り、2以降特に顕著となったのが、
「Pとアイドルの関係」だけでなく「765プロの関係」をも強調し、
「団結」をより一層押し出していく路線で、
この下に複数プロデュースの意義の強調、全員プロデュースへの展開がありました。

他方で、この「団結」する関係は、アニメにおいては「家族」に喩えられ、
各々の進む道があっても、帰る場所は皆のいる765プロであること、
一緒に更なる高いステージへ進んでいくことが描かれました。
ワンフォーオールの全員プロデュース、
個別のランクアップと全員ライブを並立するシステムへと繋がるものです。

そして今回プラチナスターズは、765プロの「家族」性をこそ一層描き出すために、
何年間も続く強化合宿をその核に据えたのではないかと思います。
帰る場所を一つとし、寝食等の生活と活動を共にする、
本当の家族のような765プロの面々がその中で進んでいく様こそテーマであったのではないか。

単なる一時的な「合宿」であれば、それは別に765プロでのみ実施するものでないし、
現に765プロ以外においても描かれてきているところであるけれど、
プラチナスターズはそれに留まらない「強化合宿」を底に敷いているんですよね。
765プロを表現するための、765プロの施設として、「合宿所」があります。

特に近時の765プロの物語のテーマに深く関係する場所としては、
ミリオンライブにおける「劇場」が一つあるところなのですが、
今回のプラチナスターズの「合宿所」は、それと同様に、
765プロの物語に係る場所として、提示されていたのではないでしょうか。


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テーマ:アイドルマスター
ジャンル:アニメ・コミック

「アイドルとPの物語」においてPが関わらず、関われない領野

2016.07.24 15:19|アイドルマスター
ついに今週、『アイドルマスター プラチナスターズ』が発売されます。
初めてのPS4での作品となり、ビジュアルも変更されるなど、
興味を惹かれる部分が多い本作ですが、個人的には、
そこでどのような物語が展開されるのかということが一番興味深いです。
強化合宿において、如何なる「アイドルとPの物語」が展開されるのか。

今回は、新作の発売前のこの時期に、『アイドルマスター』が、
「アイドルとPの物語」であることについて考えてみたいと思います。
同シリーズは、主にPがアイドルに(アイドルがPに)出会ったところから物語が始まり、
その関わり合いが物語の要になるという点において、
「アイドルの物語」からは区別される「アイドルとPの物語」です。
しかし、物語中でPが大きな存在感を持つとはいえ、
全ての領野においてPが関わってくるわけではありません。
「アイドルとPの物語」でありながら、アイドルに委ねられた領域もあるのです。
この記事では、少しだけここに触れていこうかと思います。
アイドルマスターPS(プラチナスターズ)の発売前ということで、
話はアイドルマスターSPの物語から始めていくことにいたします。
もしよろしければ、少しの間、思い出しつつお付き合いいただければ幸いです。

今回取り上げたいのは、『アイドルマスターSP』におけるとある春香の行動です。
同作品において、Aランク昇格に際してSPの春香は、響を前に自信をなくして、
Pの言葉も満足に聞かず会場から逃げ出してしまいますが、
Pが春香の逃げ出した先の公園で追いついたときには、
春香は既に自分で落ち着きを取り戻していて、
再びトップアイドルを目指すことを決意していました。

そこで春香は、会場でのPの言葉を思い出して、
そして自分の気持ちを思い出したという意味のことを言うので、
正確には「一人で」トップアイドルを再び目指す決意をしたわけではないのですが、
少なくともその決意が生じたとき、春香は公園にただ一人でいました。
そこにPは、いませんでした。
ここでは、会場でのPの言葉を思い出して、立ち直るという展開となっていますが、
そうであれば、会場でのPの言葉を聞いてそこで立ち直ってもよかったはずです。
しかし、そうはならず、春香は公園まで駆けて行って、
心配して駆けつけたPを尻目に、自分一人で整理を付けて、
立ち直るという流れになっていることが意味深です。

まるで、公園で一人で立ち直ること自体に、何か意味があるかのように見えます。

このことは私に不可避に、一部の作品において、
春香がアイドルを目指すきっかけとなったと示される、
幼少期によく誰かと一緒に歌ったという、エピソードを思い出させるものです。
当然そのときも、Pは公園にはいませんでした。
春香がアイドルを目指そうと考えたとき、Pは近くにいなかったのです。

春香の物語において、アイドルを目指すきっかけとなったときのことが示されるにせよ、
トップアイドルを改めて目指そうと決意するときのことが示されるにせよ、
そこにPはいなかったんですよね。
アイドルへの気持ちをPに抱かされるのではなく、春香が抱くということは、重要に見えます。

Pは、春香の物語において、様々な面から春香に関与しますし、
それゆえに春香にとって大切な人物になることは、
大方の作品において共通かと存じますが、それだけ春香に関わるPでも、
春香がアイドルへの意志を抱く瞬間には関与しません。
春香が公園においてアイドルを目指すとき、Pは一緒にいないのです。

アイドルが公園でアイドルへの意志を抱き、
または思い出すとき、Pは近くにいないということ。
アニメも、このことを思い出させるものであったと思います。
春香は、第二十四話で仕事から遠ざかってしまいます。
そこでも、春香は誰かの言葉によって戻るというよりは、
公園で一人で自分の気持ちを整理して、765プロへと戻っていったのです。
少なくとも、そこにはPの関与はほとんどありませんでした。
『アイドルマスター』は、「アイドルとPの物語」であり、
Pはアイドルに多面的に関わりますが、
Pが関わらず、あるいは関われない領野もあるのです。


テーマ:アイドルマスター
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「特別編①」が描き出した『...In The Name Of。...LOVE?』の二側面について (門司雪『アイドルマスター ミリオンライブ!3』)

2016.05.08 18:22|アイドルマスター
今回は、門司雪さん『アイドルマスター ミリオンライブ!3』について考えます。
原作は、バンダイナムコエンターテイメント開発のソーシャルゲームで、
アイドルが主に765プロライブ劇場を舞台に活動し、成長していく物語となっています。
物語の特徴として挙げられるのは、個々のアイドルの曲の内容を踏まえているということです。
『アイドルマスター』のうちの一コンテンツとして展開していく中で、
『アイドルマスター ミリオンライブ』系列の曲も既に多数発表されていますが、
こうした曲の歌詞が直接使用されたり、話に絡んで来たりしています。
そのため、物語を読むと改めて曲を聴きたくなり、
曲を聴くと物語をまた読みたくなるところがあって、
これが、この作品の白眉な点だと個人的には思います。
読む中で、それぞれの曲をどんどん掘り下げさせてくれる物語なのです。
この記事では、この作品の第三巻のうち「特別編①」で描かれた瑞希の物語を考えます。
ここで瑞希は、今度挑むこととなったラブソングに気持ちを乗せるために、
恋とはどのような気持ちであるのかという命題の答えを模索します。
この記事では、この物語によって表されている、この物語に関連する曲である、
『...In The Name Of。...LOVE?』の持つ二側面を考えていきたいと思います。
もしよろしければ、作品を手に少々お付き合いいただけると幸いです。

まず、この話で重要だと思うのは、瑞希が恋の気持ちを知ろうとするところから、
話が一回展開しているところです。
瑞希の考えるべきテーマは、美奈子や可奈への相談を経て、
当初の「恋の気持ち」から「私流好き」へシフトしている。
このシフトが重要なのは、作中の瑞希の新曲として設定されているであろう、
『...In The Name Of。...LOVE?』が、
「直ちに恋の気持ちと同定できない好きという気持ち」を歌った曲であるためです。

それは、必ずしも恋の気持ちを乗せて歌える曲でないと言えます。
つまり、同曲は、最終的に恋かどうかよく分からなかった自分の気持ちが、
恋であると認識される過程を描く曲であるため、
初めから恋の気持ちを完全に理解してしまったら、
むしろ「気持ちをのせ」られない曲であったのではないかということです。

この曲に「気持ちをのせ」るためには、
恋の気持ちを理解するということよりも、
恋の気持ちと直ちに同定できないような、
「自分流の誰かが好きという気持ち」を抱く必要があったのではないかと思います。
美奈子と可奈の助言の意義は、ここにこそあったのではないでしょうか。

この物語によって、改めて露わになる『...In The Name Of。...LOVE?』の一側面は、
ラブソングが恋を歌う歌のことを指すとするのならば、
この曲は「ラブソング」というより、いわば「ラブソングに至る歌」なのだということであったと思います。
それは、当初から恋の気持ちを歌うというよりは、
当初は恋の気持ちと直ちに同定できないような自身の気持ちを歌っているのです。

次に、瑞希が恋の気持ちを知るために、
静香やジュリアにロールプレイニングを頼んだ場面に注目します。
ここで瑞希はジュリアに「これが恋でしょうか?」と聞き、
ジュリアに「絶対違うと思う」と返されました。
ここで、瑞希がジュリアに抱いたかも知れない心情が、
恋の気持ちと「違うと思う」と即答されるのは何故でしょうか。
これは、瑞希が何の逡巡もなく、
ジュリアに自身の気持ちについて尋ねられたからに他ならないと思います。

仮にそれが恋の気持ちであったなら、その対象である相手に簡単には聞けない。
そういった認識を前提にして「違うと思う」と回答されたのではないでしょうか。

この点は、『...In The Name Of。 ...LOVE?』の歌詞の一つの肝にもなっています。
つまり、一度目のサビにおいては自分の気持ちを上手く表現できずに伝えられなかったのが、
曲の末尾にかけて明らかに転換していっているのです。

すなわち、冒頭以降、恋がはっきり分からなくて、それで自分の気持ちを上手く表現できず、
結果として伝えられないという流れであったのが、
二回目から三回目のサビにかけてそれが恋であると悟り、
悟ったけれど、今度は逆にそれゆえに伝えられないという形になっているのです。

一言で言えば、「表現できないから伝えられない」から、
「表現できるのだけど伝えられない」へと転換しています。
「恋、をした表情」が最早「わからない」のではないのだけど、
それでも「読み取って」くれることを願い、「届かない」と想うに留まっているのですよね。

問題は、何故そこで「読み取って」くれることを願うに留まっているかということで、
そこについては歌詞上では明確に書かれているわけではないのですが、
その理由は十分に推察できるものでしょう。
今まで伝えられなかった理由が解消されたのにもかかわらず、それでもまだ伝えられない理由。
そこには、この曲が言外に伝えようとするテーマがあるように思います。

本題に戻りますが、この作品は、『...In The Name Of。 ...LOVE?』の持つ、
この側面をも拾ってくれているのだと思います。
瑞希とジュリアの「恋でしょうか?」、「違うと思う」のやり取りがあった上で、
最後に瑞希とPのシーンがあるのです。

あのラストシーンで、瑞希は今度は「これが恋でしょうか?」とは問いません。
そこには、瑞希が恋を知覚し、最早それを誰かに問う必要がなくなったからという理由のほかに、
もう一つ、説明するまでもない恋ならではの理由があったに違いないのではないでしょうか。
恋であるからこそ、その相手に「恋でしょうか?」と気軽には確認できないのです。

結論として、『アイドルマスター ミリオンライブ!3』の瑞希の物語には、
『...In The Name Of。 ...LOVE?』の持つ二つの側面を特に浮き彫りにしていたと考えられます。
すなわち、第一に、それが恋の気持ちと言うより、やがて恋の気持ちと同定される、
自分流の好きという気持ちを歌った「ラブソングに至る歌」であるという側面、
第二に、当初の「表現できないから伝えられない」から、
「表現できるのだけど伝えられない」へと移行していくという側面です。

瑞希の物語は、こういった曲の側面を明らかにしていたのではないでしょうか。

瑞希の物語は、ページ数で言えば二十ページに満たない掌編です。
しかし、名曲が少ない文字数で驚くほど雄弁に語るのと同様に、
その物語は言外に多くのことを伝えてくれていると思います。
物語を読んで曲を一層好きになるし、曲を聴いて物語を一層好きになる、
そのような物語であったと思います。


テーマ:アイドルマスター
ジャンル:アニメ・コミック

空想文学小説みたいな「私」と「君」のラブストーリー ――『空想文学少女』の二番の視点についての一考 (七尾百合子『空想文学少女』考察)

2016.03.06 17:16|アイドルマスター
今回は、『アイドルマスター ミリオンライブ!』に登場するアイドル、
七尾百合子が歌う『空想文学少女』の歌詞について考えます。
百合子本人を想起させる、歌詞中に登場する「空想文学少女」が、
図書館での「恋のはじまり」の物語を空想する本曲。
今まで語られていたことは空想であったということが、
最後の最後に明かされる点がこの曲の一つの特徴と言えます。
単なるラブストーリーを歌うのではなく、
あるラブストーリーを空想する様を歌うところが、
これ以上なく七尾百合子というアイドルらしいのです。
この記事では、この曲の特に次に掲げる部分について考えたいと思います。

 深呼吸で開いた裏表紙
 ほんの少し君に近づく瞬間
 薄汚れたカードに記された
 右上がりの5つの文字 (『空想文学少女』)


この部分の歌詞について、考えるべき一つの問題としては、
「右上がりの5つの文字」が何なのかということが挙げられます。
本の裏表紙を開いて、そっと目にする「薄汚れたカード」に記された五文字。
これは、今では最早珍しくなりつつある、
図書館の貸出票に書かれた名前のことだと考えられます。
それでは、この名前は、誰の名前と考えられるでしょう。
私は、空想している文学少女が自身を重ねているであろう、
かつて「君」に本を取ってもらった側の名前であると思います。

というのも、「5つの文字」が「君」の方の名前だとすると、
それが三文字でもなく四文字でもなく、
五文字であるという理由が付かないと思うんですよね。
仮に「君」を想う側の名前だとすると、5文字にした理由は歌い手から導けます。
すなわち、七尾百合子は、漢字で五文字に違いないのです。
歌い手である百合子が重ねられているであろう、
歌詞の中の空想文学少女が、自分のことを重ねているであろう、
「君」を想う側の名前が五文字なのは、
その人に百合子が投影されているからと説明が付きます。

仮に貸出票に書かれた名前を、一番で本を「君」に取ってもらった側だと考えると、
この曲を二通りの意味で読み解くことができます。
すなわち、一番から二番までを通して「本を取ってもらった側」からの視点と読む方法と、
一番は「本を取ってもらった側」からの視点で、
二番は「本を取った側」からの視点と読む方法の二通りが存在します。

前者と後者で、先の「5つの文字」の周辺の部分の解釈が変わってきます。
以下では、分かりやすさを重視して、
一番で本を取ってもらった側を「私」と、本を取った側を「君」と呼ぶこととします。

第一の読み方では、裏表紙を開いて「ほんの少し君に近づく」ということは、
「私」が、本の貸出票に書かれた「君」の名前の下に、自分の名前を書くことを意味します。
こう読むと、「5つの文字」が「右上がり」になっている理由を、
「君」への想いが募って無意識に名前を段々近づけてしまったためと読めます。
「私」は、自分の書いたそんな自分の名前を見て、
自分の想いを改めて確知していたのかも知れません。

対して第二の読み方では、裏表紙を開いて君に少し近付くということは、
「君」が、本の貸出票に書かれた「私」の名前を知ることを意味します。
一番の恋のはじまりのエピソードは、本を取ってもらった側ばかりでなく、
本を取った側にも恋をもたらすもので、「君」の方が「私」の名前を調べたという解釈です。

一番と二番で視点が転換しているという第二の読み方の方が、
ぶっとんだ読み方である気がしますが、このように読むと、
一番と二番の末尾の歌詞が異なる理由を滑らかに説明できます。
すなわち、二番の末尾で、「恋愛小説」の歌詞の前に、
「空想文学小説(ゆめ)みたいな」という歌詞が加えられている理由です。
一番と二番の末尾を順に引用します。

 向かい合わせ いつの日かきっと…
 なんて恋愛小説(ラブストーリー)は
 今日もフィクションのままで (中略)

 向かい合わせ いつの日かきっと…
 なんて空想文学小説(ゆめ)みたいな
 君との恋愛小説(ラブストーリー)は
 今日もフィクションのままで (『空想文学少女』)


第二の読み方だと、一番が終了する時点と二番が終了する時点で、
物語の意味合いが変わっています。
すなわち、一番の時点では、本を取ってもらった側の「片想いの物語」ですが、
二番の時点では、相手も同じ気持ちであったことが語られて「両想いの物語」になっているのです。

だからこそ、二番の末尾では「空想文学小説(ゆめ)みたいな」という、
形容詞が加えられているのではないでしょうか。
一番の時点での「片想いの物語」が、二番の時点では、
「両想いの物語」になったことを受けて初めて、
「空想文学小説(ゆめ)みたいな」という一節が加わったのです。

第一の読み方と異なり、第二の読み方だと、
二人とも抱いている恋の気持ちは同じですが、
お互いにそのことを知らないという「両想いの物語」になります。
空想している文学少女にとって、その両想いの状態こそ「空想文学小説(ゆめ)みたいな」ものであるため、
二番だけにそれを加えていると読めるのではないでしょうか。


私は、第二の読み方の方がアクロバットな読み方であると確信していますが、
それでも、どちらかというとこちらの方で読みたい気持ちもあるんですよね。
というのも、曲中の片想いの物語「的な」ものは、
空想文学少女に重ねられているであろう歌い手の百合子は既に経験しているかも知れないためです。
百合子のプロデューサーへの想いを、片想いと断定することはできないにせよ、
それと同等に大切な想いであると考えることはできるように思います。

今まさに近いものを経験しているかも知れないところの片想いの物語を、
百合子が「空想文学小説(ゆめ)みたいな」と評するだろうか。
そう考えると、『空想文学少女』で空想文学少女が綴るのは「両想いの物語」で、
それをこそ「空想文学小説(ゆめ)みたいな」と述べたと考える方が合っているような気がするのです。

とは言え、歌が歌い手のことを表わしたものであると必ず読む必要はないでしょうし、
現に『アイドルマスター』の曲においては、明らかに、
「アイドルの持ち歌≠アイドル本人を歌った歌」であることもままあるため、
「空想文学少女」を百合子と重ねる絶対的な正当性は主張できないでしょう。
しかし、この曲の歌い手が百合子であることに意味を見出すのだとすれば、
『空想文学少女』という曲の一つの考え方として、上記のものを提出することができます。

いずれにせよ、『空想文学少女』は、まるで一篇の小説のように、
様々な解釈の可能性を含んだ作品であると、私は思います。
今一度曲を聴きつつ、その歌詞について考えてみるのも面白いのではないでしょうか。


テーマ:アイドルマスター
ジャンル:アニメ・コミック

亜美の「個性」の中に「大人」のイメージもあるということ ――アニメ第二話との関係から (まな『THE IDOLM@STER 5』考察)

2016.01.31 16:51|アイドルマスター
今回は、アニメ「アイドルマスター」の公式コミカライズ、
漫画『THE IDOLM@STER』の第五巻の双海亜美編について考えます。
テーマは、この話がアニメ本編との関係において、
どのような物語であったかということです。

アニメ第九話の亜美真美の話では、どちらかと言えば、
亜美に先を行かれた真美の想いに肉薄する話であったので、
漫画五巻で、ある意味で真美に先を行かれた亜美が悩み、乗り越えていくことが描かれたことで、
ピースがまた一つ埋まったように思われます。
漫画第五巻の亜美の物語は、第九話との関連において、感慨深いものでした。

そのため、漫画四巻の双海亜美編は、
一方で真美の想いが綴られたアニメ第九話との関係の中で読むべきものだと思うのですが、
他方で「大人になりたい」という心情をアイドルとしての魅力と絡めて扱った、
アニメ第二話との関係の中でも読んでいくべきものだと思われます。


つまり、アニメ第二話は、亜美たちが「大人」ぶろうとして華美な衣装と化粧に走るという流れの中で、
背伸びせず自分の「個性」で勝負することが大事と提示したのですが、
そこで生じうる一つの疑問に対して明確な解を与えるものとして、
漫画五巻の双海亜美編があったに違いないと思うのです。

その疑問というのは、アニメ第二話において、「大人」対「個性」の構図の中で、
まるで後者を選んでいったように見えるアイドルたちは、
「大人」らしくないのか、あるいは、彼女たちが「大人」になったら彼女たちの「個性」、
またそこから生じている魅力は失われるのかということです。

アニメ第二話は、大人と個性を対置させて、後者を選んでいく形に見えるので、
では亜美たちは「大人」らしくないのか、あるいは、大人になったら「個性」が失われて、
そこにあるとされた魅力が失われるのかといった疑問が呈され得ると思うのです。

漫画五巻は、こうした疑問への解を提示する側面を持っていて、
亜美たちの「個性」の中に「大人」な部分があることをPが指摘するとともに、
同級生視点で見て亜美がライブで「大人」に見え、
学校で「子供」にも見えることを提示していました。

「大人」と亜美の「個性」は対立しないのです。

「個性」の上に、子どもっぽくもあり大人っぽくもある、
きちんとしたアイドルでもありやはり普通の中学生でもある、
亜美は成り立つことを示す漫画五巻であったと思うんですよね。
「個性」と「大人」らしさは対立するのでなく、
「個性」の上に「大人」らしさもあるというテーマです。


このテーマに寄り添う形で、亜美たちが物語中で挑戦するのは、
「プロジェクションマッピング」を使ったライブであったのではないでしょうか。
プロジェクションマッピングは、建築物等に映像を投影して、
普段の姿とは全く違う姿に見せるものです。
そこでは、元の建築物等の形は変わらずとも、その姿は変わっていきます。

これと同様に、亜美も、その「個性」はそのままに、投影されるものによって、
子どもっぽくも大人っぽくも映り、
アイドルにも普通の中学生にも映るということが示されたのだと思うのです。
プロジェクションマッピングは、このテーマを象徴するための一種の比喩であったと言えます。

ステージ衣装を着て、スポットライトの下に出て行くことで、
プロジェクションマッピングで映像を投影されたもののように、
同級生をして、普段同じ教室にいる亜美のままでありながらアイドルであると思わしめるのです。
そういった考え方で、第二話の「個性」と「大人」の問題は調停されていたのではないでしょうか。

結論として、漫画第五巻の双海亜美編は、「大人」と「個性」の間の問題が扱われた、
アニメ第二話との関係においても読まれるべきものであったと思います。
亜美の「個性」は、「大人」というイメージと対立するものではなく、
むしろその中に「大人」と「子ども」のイメージの双方を含むものであったのです。
そう考えると、「大人」と「個性」のうち後者を取ったように見えた、アニメ第二話の本意を見えてきます。
すなわち、そこでは「大人」であることに拘って、「個性」をないがしろにすることが否定されたのであり、
決して「大人」のイメージと区別された「個性」が肯定されたわけではなかったのです。

このように、アニメ第二話のテーマを再発見することができる漫画五巻双海亜美編でした。


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アニメや漫画など、好きなものについて考えたことを書き込みます。
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