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アトリエシリーズの主人公が主に錬金術士である理由 ――『ソフィーのアトリエ』からの小検討

2016.06.05 15:43|アトリエシリーズ
ソフィーのアトリエにおいては錬金術が、
「素材の願いを聴き、それを叶えることでものを創り出す技術」として提示されていました。
私が忘れているだけかも知れませんが、
いずれにしてもこういう表し方でここまで強調されたのは、
本作が初めてであったのではと思います。

錬金術のこの側面の強調は、
初代の「世界を救うのはもうやめた」からの「世界を救うより大切なこと」を描く流れを、
本作において再び持ち出したアトリエシリーズが、
何故錬金術士を主人公として据えているのかという疑問に、
ある程度は答えるものであったのではないかと思います。

というのも、アトリエシリーズが「世界を救うより大切なこと」として、
「自分の夢を叶えること」をテーマとして描く場合において、
何故主人公が錬金術士なのかということは、大きな疑問足り得ると思うんですよね。
夢を叶えるだけなら、他の職業でもいいのではないか。
何故錬金術士であるべきなのか。

比較として、「世界を救うこと」をテーマとして描く作品であれば、
何故その主人公が主人公であるかということについてはほとんど自明であり、
程度の差こそあれど、その主人公が「世界を救うこと」に関与してくるからこそ、
主人公として扱われるのです。

しかし、「世界を救うこと」を対岸にとって、
「自分の夢を叶えること」をテーマとする場合においては、
自分の夢を叶えようとする者であれば、主人公が誰であっても構わないはずです。
然るに、アトリエシリーズは、そのほとんど全ての作品において錬金術士を主人公に据えています。

これは何故かということは、アトリエシリーズを理解しようとする上で、
避けられない問題であると思います。
そして、『ソフィーのアトリエ』の考え方を踏まえると、
これは錬金術士が「夢を叶えることで夢を叶える職業」に他ならないためであると考えられます。

つまり、錬金術士は素材の願いを聴き、その願いを叶える点において、
「夢を叶えること」に極めて深く関わる職業と言います。
このため、錬金術士は、「夢を叶えること」をテーマとして描く物語の中で、
中心に据えられる代表者としてふさわしいと考えられるのです。

それは「世界を救うこと」を描く物語で、「世界を救うこと」に最も深く関わるような者が、
その中心的人物となりやすいことと同様であり、
「夢を叶えること」を描く物語では、「夢を叶えること」に最も深く関わるような者で有り得る、
錬金術士が中心的人物となるというだけの話なのです。

結論として、『ソフィーのアトリエ』において提示された、
錬金術は「素材の願いを聴き、それを叶えることでものを創り出す技術」ということを踏まえると、
アトリエシリーズで主に錬金術士が主人公である理由について、一つには、
その技術自体が「夢を叶えること」に深く関連しているためであると考えることができます。


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テーマ:アトリエシリーズ
ジャンル:ゲーム

アトリエシリーズが「世界を救うこと」を描く意味 ――「夢を叶えること」の延長線上に

2016.01.02 14:15|アトリエシリーズ
今回は、特定の作品ではなく、アトリエシリーズ一般について考えます。
テーマは、「アトリエシリーズが世界を救うことを描くこと」についてです。
アトリエシリーズは、「世界を救うのはもう辞めた」、
「世界を救うより大事なこと」をキャッチコピーに、
世界を救う王道のRPGから距離を取って、
主人公の錬金術士が人との関わりの中で成長し、
夢を叶えていく様を主に描いていく作品です。
昨年は、新地に舞台を移した『ソフィーのアトリエ』が、
十七番目のナンバリングタイトルとして発売されました。
この作品の発売に当たっては、プロモーションムービーにおいて、
「そろそろ世界を救うのにも飽きてきた。」という言葉が掲げられています。
ここに、第一作目のキャッチコピーが、幾年も隔てた現在においても、
シリーズ内で未だに生き続けているということを見出せます。

しかし、それにもかかわらず、アトリエシリーズは、
「世界を救うこと」と見なせることを度々描いてきました。
先述した『ソフィーのアトリエ』においても、その物語のクライマックスは、
やはり彼女たちの世界を守り、救うというところに帰着したのです。
これらのことを如何に考えるかということは、
アトリエシリーズに触れ、同シリーズを考えるに当たって、
避けることができない極めて重要な疑問と言えます。
アトリエシリーズが「世界を救うこと」を描くとき、
それは第一作目のキャッチコピーである「世界を救うのはもう辞めた」に、
あるいは「世界を救うより大事なこと」に背いて、
別の事柄を描いていると考えるべきなのでしょうか。

この記事では、このことについて私見を明らかにしようと思います。
けだし、この問いに答えるためのヒントとなるのは、
第一作目の『マリーのアトリエ』から、
第二作目の『エリーのアトリエ』への間における微妙な変化です。
まずはここから、先の問題について思索を始めてみることにしましょう。
シリーズ経験者の方は、これまでの作品を思い出しつつ、
シリーズ未経験者の方は、もし万一いたとしたら、
アトリエシリーズの大枠の紹介文を読む気持ちで、お付き合いいただければ幸いです。

さて、アトリエシリーズにおいて、
自分の夢を叶えることが何故「世界を救うより大事なこと」なのかという理由については、
『マリーのアトリエ』から『エリーのアトリエ』への間に微妙に変化している気がします。
『マリーのアトリエ』のときは、純粋に世界を救うことを対岸に置いて、
対立する二項として明確に捉えていました。

これは、『マリーのアトリエ』の冒頭の語りに表れています。

「光と闇、秩序と混沌 そして剣と魔法の入り交じる世界があった
 伝説的な英雄と世紀末的な怪物が激しくぶつかり合う世界……
 今まさに、世界の興亡は彼ら――選ばれた者たちの手に委ねられようとしていた
 だが――そんな英雄物語は彼らに任せておけばよいのだ
 世界の大半の人間には英雄も怪物も関係ない
 自分たちに出来ることをやり 今日を平和に生きることが出来れば
 皆それで満足なのだから……」 (『マリーのアトリエ』)


これに対して『エリーのアトリエ』においては、
冒頭の語りの立ち位置が変化しています。
というのも、勇者も錬金術士も、初めは無力でしたが、
夢を追い続けたからこそ名を残すことになったという具合に述べて、
世界を救うことに深く関連する「勇者」を対岸に置かずに、
自分の夢を叶えることの中に内包しているのです。


「初めは誰もが無力だった。
 不死身の勇者も、高名なる錬金術士も、王室料理人も
 初めは何の力もないごく普通の人間だったのだ。
 だが、彼らは誰よりも夢や希望を強く抱き、追い続けた。
 だからこそ世に名を轟かすほどの存在になれたのだ
 夢は追いかけていればいつか必ず叶うものなのだから・・・」 (『エリーのアトリエ』)


こういう転換を踏まえて鑑みると、「世界を救うのはもう辞めた」というのは、
世界を救うことは夢を叶えることの対局にあるという意識の下に後者を取るのではなく、
世界を救うことは夢を叶えることに内包されるという意識の下に、
後者に作品のテーマの根を置くということなのです。
「世界を救うこと⇔夢を叶えること」でなく、
「世界を救うこと<夢を叶えること」という図式がそこにはあります。

ゆえに、アトリエは「夢を叶えること」を描く作品として、
当然「世界を救うこと」から剥離し得るのですが、
同時に「夢を叶えること」を描く中で、
「世界を救うこと」に近いことをやってのけるということも、ままあり得るのです。

よって、アトリエが世界を救うことに近いことを描いたとして、
それが、当初の世界を救うより大事なことというテーマに背いていると直ちには言えません。
実際、(場合によっては結果的に)町を救うというようなことは、
魔王や巨大ぷにの件等、ザールブルグの頃から描かれてきました。

その一見、矛盾に満ちた展開を説明する理屈は、
「世界を救うこと⇔夢を叶えること」という考え方にはなく、
「世界を救うこと<夢を叶えること」という考え方にあると思います。
アトリエシリーズのテーマは、たとえ世界を救うことを描いたとしても、
結局のところそこに落ち着いているような気がするのです。

結論として、アトリエシリーズが「世界を救うこと」を描いた場合、
それは「世界を救うのはもう辞めた」という言葉に表れているテーマに、
直ちに反しているというわけではないと解せられます。
アトリエシリーズが描く「世界を救うこと」は、
それすら包摂する、より広いテーマであるところの、
「夢を叶えること」の延長線上に描かれているに過ぎないのです。

現に『ソフィーのアトリエ』においても、「世界を救うこと」は、
ソフィーが夢を叶えていく過程に位置づけられていたと考えられます。
「世界を救うこと」の裏にある、主人公たちの成長や夢こそが、
アトリエシリーズにおいてテーマとされているものなのです。


テーマ:アトリエシリーズ
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ウィルベルに見出せるフィルツベルク魂 ――痩せ細った黄昏の大地で (エスカ&ロジーのアトリエ)

2015.11.01 16:39|アトリエシリーズ
今回は、ちょうどアトリエシリーズの最新作が今月に発売するということもあるので、
『エスカ&ロジーのアトリエ』におけるウィルベルのイベントについて考えたいと思います。
注目するのは、コルセイトにやって来たウィルベルが、
自分で作った魔女のお菓子を、地元の子供たちに配るイベントです。

これは、特に重要な意味を持っているようには見えないイベントですが、
『アーシャのアトリエ』のイベントを踏まえて考えてみると、
極めて重要なテーマを描いたイベントであることが分かると思います。
この記事では、短くはありますが、そのことについて指摘していきます。

それでは、このイベントについて考えてみましょう。
考える上で重要なのは、『アーシャのアトリエ』におけるイベントのうち、
かつてフィルツベルクを襲った食糧難に関するものです。
ハリーは、アーシャに食糧難の時代があったことを語ります。

「そうだね。掘り出し物合戦で、君に戦いを挑むも連戦連敗…。自分を見つめ直したくなって、ここに来たというわけだよ。長年見慣れた風景だ。そしたらふと、昔の事を思い出してしまった。昔話になるんだけどね。ボクの話、聞いてくれないか?」
「昔のお話ですか。わたしでよければ、お聞きします。」
「ありがとう。あれは、今から30年も前になるかな。まだ君が生まれてもいない頃、この街も今ほどは大きくなく、ボクもまだ子どもだった。その頃は凶作が続いていてね、多くの人が飢え、食べる物に困る年が多くあった。ウチは代々商会をやっていて、それなりに裕福だったんだけど…。それでも、食に関しては我慢しなければならない事が多くあったんだ。」
「そんな時代があったんですね…。」
「うん。それでもボクの母親は、何とか工夫して、ボクにお菓子を作ってくれた。腹一杯には食えない時代だから、せめて味はと考えてくれていたのだろう。ふふ。母は強し、というところかな。時代は流れ、大人になってそれなりに食料が供給されるようになり、少なくとも空腹に困る事はなくなった。けど…。あのとき、母が作ってくれた、お菓子の味が、忘れられなくてね。」
 (『アーシャのアトリエ~黄昏の大地の錬金術士~ シナリオコレクション』、170ページ)


ハリーはこのときの経験を受けて、十年後に再度生じた大凶作の際には、
私財を投げ売って食糧を集め、飢えた人々に分け与えたと言います。
このときの大凶作のことを、フレッドがアーシャに語っています。

「うん。ハリーさんの思い出の焼き菓子、何とかなるかもしれないな。それにしても、あの大凶作の年は、私もよく覚えているよ。当時、私は12歳かそこらだったかな。その年は本当に穀物が獲れなかったんだ。元々、実りが少ない土地だから、蓄えもない。飢える人も多かったんだよ。そんな中、ハリーさんから食料を託されたパン職人…私の師匠が貧しい村を回って、パンを焼いては配っていたんだ。私も、当時パンをもらった一人だよ」
 (『アーシャのアトリエ~黄昏の大地の錬金術士~ シナリオコレクション』、172ページ)


そしてフレッドも、このときの経験を受けて、
今度は自分が気前よくパンを配る側として登場しています。
ウィルベルにパンを無料であげる場面は印象的です。

「うわあ! なになに? ただパンを見てただけ! 別に悪いことなんかしてないよ?」
「おびえることはない。…さあ、このパンを食べなさい。」
「…くれるの? あたし、お金持ってないよ?」
ははは。次は買ってくれればいいよ。お腹が空いているんだろ?私の作ったパンで良ければ、さあ、食べておくれ。ほおら、このネコさんパンは甘くて君くらいの子供に大人気なんだよ。」
 (『アーシャのアトリエ~黄昏の大地の錬金術士~ シナリオコレクション』、194ページ)


この後、ウィルベルは一貫してフレッドにパンをもらう側として登場していきます。
ウィルベルが近所の子供たちにお菓子をあげるイベントは、
ちょっとしたイベントのように見えて、かつてフレッドにパンをもらっていた、
ウィルベルがお菓子をあげるというところに大きな意味があります。

あのイベントでウィルベルは、フレッドのような、
「フィルツベルクの人」として現れていたと言えるのではないでしょうか。

食糧難の黄昏の大地で、かつてフレッドがハリーと彼の師匠にやってもらったように、
パンを気前よくウィルベルたちに振る舞ったのと同様に、
ウィルベルもまた、作るのに労力がかかると渋っていたはずのお菓子を、
気前よく子どもたちに振る舞っているのです。
これにより表されているのは、ウィルベルが成長して、
振る舞ってもらう側から振る舞う側へと転換したということだけではありません。
痩せ細っていく黄昏の大地と、それに対抗してきた人の繋がりも、
このイベントによって示されていると考えられます。

『エスカ&ロジーのアトリエ』においても、例えば酒場関係のイベントで、
食糧の少なさは問題として提示されています。
そのような大地でウィルベルがお菓子を配るというところに、
ハリーやフレッドに見出せる「フィルツベルク魂」とでも言うべきものが見出せます。
ウィルベルは第一に魔女として登場してくる少女ですが、
『エスカ&ロジーのアトリエ』では、あの町の一員であった者としても登場しているのです。

『アーシャのアトリエ』も登場人物それぞれの生き方を描いていましたが、
『エスカ&ロジーのアトリエ』では、そのそれぞれの生き方が、
不可避に「黄昏の大地」と結びついているということが、
より鮮明に描き出されていた気がします。
そういった大地の上で生きるからこそ、
このように生きているのであるという感じが強いのです。

例えばルシルの薬を配って各地を回るエンディングは、
アトリエシリーズ全体としてはマリーとエリーを思い出させますが、
ルシルの場合、その生き方は彼女の生きる「黄昏の大地」と切り離しては考えられません。
病に苦しむ人を助けて回るという道は、彼女の生い立ちからだけ出て来たものではないのです。

一言で言えば、一作目が示したのが「黄昏の大地の上で」このように生きるということだとしたら、
二作目は「黄昏の大地だから」このように生きるということであったと思うのです。
ハリーやフレッドのような生き方が多く示されています。
公務に携わる人が多かったということもあるのかもしれません。
そうした『エスカ&ロジーのアトリエ』という作品の中で、
ウィルベルもまた、特に子供たちにお菓子を配る場面において、
黄昏の大地で生きるからこその在り方を示していたと思います。

本人はあまり意識していなさそうですが、凄まじい食糧難の時代を経験して、
そのとき助けられたからこそ、今気前よく助けるハリーやフレッドの先に、
ウィルベルもいたのだと考えることができます。
痩せ細った黄昏の大地で、繋がってきた「フィルツベルク魂」です。
大地の斜陽の時代において、こうしたやり取りが人の関係を通して繋がっていくということが、
黄昏三部作に通底してきた温かいテーマであったのではないでしょうか。


テーマ:アトリエシリーズ
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