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商店街のライブに見るセルフプロデュースの意味 ――私ならではの、私だからこそのプロデュース (アイカツスターズ!第三十七話考察)

2017.01.15 15:16|アイカツ!
今回は、昨年最後に放送された『アイカツスターズ!』第37話を考えます。
S4のライブ、幹部のパーティという先輩たちの活動を受けて、
自分たちも何かをやろうと思い立つゆめたち。
彼女たちが至ったのは、S4とも幹部とも毛色の異なる、「商店街」でのライブという企画でした。
結果として、M4も含めて、三種のクリスマスのアイカツが並行して描かれていたと思います。
「ライブ会場」での活動、「学園」での活動、そして「商店街」での活動です。
私は、この話の中で、セルフプロデュースとはどのようなものであるかということが、
明白に示されていたと思います。
けだし、それは単純に「私による私のプロデュース」と表すだけでは不十分な代物です。
この記事では、第37話において描かれたセルフプロデュースについて考えたいと思います。
もしよろしければ、お付き合いいただけると幸いです。

第37話のゆめたちのクリスマスのセルフプロデュースは、
「ライブ会場」でも「学園」でもなく「商店街」に帰着した点において、
S4やM4、幹部たちの活動とは一線を画するもので、
「人と同じこと」ではありませんでした。
この意味で第37話は、三つの別の活動を描いたものです。

「商店街」でのライブが「ライブ会場」でのライブと区別されるのは、
ゆめの劇中の言を踏まえると、その場所の近さ故に、
「仕事やお店で忙しい人」にもアクセスしやすいという点にあります。
ライブ会場が「ファンに来てもらう」面が強いのに対し、
商店街は「アイドルが行く」面が強いと捉えられます。

ここで肝要なのは、そういった「商店街」でのライブは、
ゆめにとってはライブ会場が取れなかったがゆえの、
苦肉の策ではなかったということです。
ゆめは、商店街の許可を取る際に語ったように、
ライブ会場でなく商店街でやる意義を見つけていて、
それゆえに商店街でやることを提案したのです。

そして、その商店街でやる意義は、
ゆめが洋菓子屋の子であるがゆえに思い至れたものでした。
仕事だけでない、これまでのゆめがあってこそ、
ゆめが提案できた企画であったのです。
ここに、セルフプロデュースの意味が端的に表れていたと思います。

つまり、セルフプロデュースを、「私による、私のプロデュース」と考えるとすると、
ここで言う「私による」とは、単純に「私による」というだけではなくて、
「私ならではの」とか「私だからこその」という意味も含まれるのではないでしょうか。
そうしたゆめならではの企画が、S4や幹部に並ぶ、第三の企画に成り得るのです。

結論として、第37話は、ゆめがゆめだからこそ行えるセルフプロデュースでもって、
S4やM4のライブ会場でのライブとも、幹部の学園でのパーティとも異なる、
第三の企画を提示し得た話であったと言えるでしょう。
そこで表されたのは、ゆめによる「私ならではの」、
「私だからこその」プロデュースであったと思います。


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テーマ:アイカツ!
ジャンル:アニメ・コミック

劇場版が描いたあかりの物語のもう一つの到達点について ――「いちごとステージに立つこと」と並置される「皆とステージに立つこと」

2016.12.04 16:50|アイカツ!
今回は、先の劇場版『アイカツスターズ!』と同時上映された『アイカツ!』の物語を考えます。
あかりが、いちごが監督を務める映画の主役を務めることとなるこの話の中では、
当初の台本とおり撮影は進まず、他の撮影をしていたアイドルたちを巻き込みつつ、
最終的にはあかりが「皆とステージに立ちたい」と願って、皆でステージに立つこととなりました。
他のアイドルたちがあかりたちの映画に次々と巻き込まれていく展開は、
ドタバタコメディの様相を呈しています。
しかし、その中で描き出されたのは、テレビ版の最終話で描き出されたことに対応する、
『アイカツ!』という作品のもう一つの結論とでも言うべきものであったと思います。
この記事では、『アイカツ!』という作品を振り返りつつ、
ドタバタコメディに見える劇場版の物語を捉えなおしていきます。

テレビ版の最終話におけるあかりの「いちごとステージに立ちたい」という願いと、
劇場版における「皆とステージに立ちたい」という願いは、
『アイカツ!』という作品の両輪で、一方で先輩に追いつきそれ以上に輝く物語の筋と、
他方で色々なアイドルと関わり共に輝く物語の筋と関連しています。

そして、前者はアイドルの個の輝きに焦点が当たっているという意味で、
「星の物語」とでも呼ぶべきもので、
後者はアイドル界全体の輝きに焦点が当たってくるという意味で、
(星の輝く場所である)「空の物語」とでも呼ぶべきものであると思います。
そして、あかり世代の物語に特に託されたのが後者です。

象徴的なのは、いちごがセイラとWMに勝ったときに、
美月がアイカツ界全体のことを語るシーンです。
あそこで美月は、アイカツ界全体のことを語る点において、
いちごたちに先んじている感がありました。
いちご世代の最後に、美月に勝ったその先に、それが課題として提出されていました。

この課題に対していちごは、あかり世代に移った後において、
劇場版、そして最終的には第146話から第150話の流れの中で答えていくことになります。
そこでいちごは、「アイカツに、もっともっと盛り上がって欲しい」から、
三人組で競い合うという企画を持っていくことになります。

それであかりも、こういうアイカツ界を盛り上げるという流れの中で、
各地のアイドルと繋がっていくことになります。
それがアイドルに会いに行く全国ツアーで、これによりあかりは、空の範囲を広げていくのです。
空で共に輝けるよう、星々を引き上げていく。

それは、これまで『アイカツ!』という物語の範疇に入らなかった、
地方のアイドルを巻き込んだという意味だけに留まらず、
あかりは実際に全国ツアー以前に、スミレやひなき等、つまづいたときの助けとなるとともに、
全国ツアーにより、ののやリサ等、一歩を踏み出す助けともなり、実際に空を広げているのです。

何が言いたいかというと、先の同時上映の劇場版の『アイカツ!』は、
単なるドタバタコメディでなくて、そういった文脈の先にある、
あかり世代のもう一つの到達点を描いたものに他ならなかったということです。
あの映画の物語の内容は、あかりの道程を象徴するものに他なりません。

つまり、当初セットで撮影していた物語の一つでしかなかったあかり主演の物語が、
期せずして他の物語をその内に含み拡大していく様は、
当初あかりの物語が小さな星の灯の物語であったところから、
最後には他の物語と繋がる中心的な物語となっていったことの比喩であったと思います。

そして、冒頭で台本からの逸脱が起こったときに、
続行の指示を出す監督としてのいちごが際立っています。
あかりの物語が多くの物語のうちの一つでしかなかったところから、
他の物語を繋いでいく主人公の物語となるのに欠かせなかったのは、
第101話であかりに夢を再認識させたいちごの存在でした。

そして、そうしてあかりの物語を想起させるような、
劇中のあかり主演の物語の末に提示されるのが「皆とステージに立ちたい」とあかりが願い、
皆でステージに立つ様で、それは、テレビ版の最終話で描かれたものに対置される、
もう一つの到達点に他ならなかったと思います。

先ほどの言葉で言えば、テレビ最終話の、あかりがいちごとステージに立つことを望み、
ユニットとしてステージに立つ様は、あかりの星の物語の結論であって、
劇場版の、あかりが皆とステージに立つことを望み、皆とステージに立つ様は、
あかりの空の物語の結論であったのではないでしょうか。

劇場版の物語は、あかりが全国ツアーを企画し、様々なアイドルと出会い、
空の範囲を広げてきたことを想起させつつ、
最後に、テレビ版における「いちごとステージに立ちたい」という願いを持ち、
実際にいちごとユニットを組んでステージに立ったあかりに相当すべき、
「皆とステージに立ちたい」という願いを持ち、
実際に皆とステージに立ったあかりを描くものであったと考えられます。


テーマ:アイカツ!
ジャンル:アニメ・コミック

舞台裏の光景を舞台に上げる、その過程について ――ローラと同じ問題に直面したゆめ (アイカツスターズ!第二十五話考察)

2016.11.13 16:43|アイカツ!
今回は、『アイカツスターズ!』第二十五話について考えます。
ゆめがツバサの助手として、舞台を成功させるため奮闘した今回の話。
一つ面白いのは、アイドルのステージだけでなく、
そこに至るまでの舞台裏を重視して取り扱ってきた『アイカツスターズ!』という作品が、
作品中で舞台裏の光景をステージに上げる様を描いて見せたということです。
ゆめが、お客さんにとっても興味深いものであろうと考え、舞台に上げた舞台裏の光景は、
そのまま『アイカツスターズ!』という作品が作品中という舞台に上げてきたものでした。
この意味で第二十五話は、ゆめが舞台裏を舞台上にと考える展開は、
『アイカツスターズ!』という作品の自己言及であったと見ることができるでしょう。

しかし、第二十五話で、舞台裏を舞台に上げたことについては、
その結果と同様にそれまでの過程も重要であったという気がします。
つまり、本番ぎりぎりで変更する必要が生じて、咄嗟に対応をする。
その過程こそが主題の一つであったのではないかと思うのです。

というのも、本番ぎりぎりに機材トラブルのために予定どおりにいかなくなるという状況は、
第十六話でローラが直面したものそのままなのです。
今回、幸花堂初出の第九話を想起させるような面々が久々に登場したことを合わせても、
そこを描きたかったのではないかという感があります。

つまり、第二十五話は、第十六話でローラが直面した、
本番ぎりぎりで機材トラブルに見舞われるという問題を、
あのときローラがローラのやり方で乗り越えたように、今度はゆめが乗り越える話で、
その意味で第十八話や第二十三話に連なる面があったのではないかと思います。

考えてみると、第十八話はローラが第十六話で直面した二つの仕事に同時に当たらなければならない状況、
第二十三話はローラが第七話で直面した個性の問題に、今度はゆめが直面する話でした。
このように二クール目は、ゆめが歌組一年二位として、ローラを追いかける面が色濃くあったと思います。

それを受けて第二十五話は、ローラが既に直面した最たる問題である、
ぎりぎりのところでの機材トラブルを持ってきたのではないかと思うのです。
映像を舞台上での実演に切り替えたことは、
その過程をこそ描くためでもあったのです。
ゆめが舞台裏を舞台上に持ち出したことと同様に、
実際にそれを舞台上に持ち出すまでの過程もテーマの一つであった。

だから、第二十五話では、ひめとローラが他の面々に比べて、
相対的に目立っていない気がしないでもないんですよね。
今回は、ゆめがかつてローラの直面した問題に当たり、
それをローラのように自分で乗り越えることに焦点を当てるために、
ゆめの最大の助言者である二人が物語本筋には絡まず、
自分の仕事に集中していた感があったような気がします。

結論として、第二十五話は、舞台裏の光景を舞台に上げるという際立った結果の裏に、
ゆめが困難を乗り越えてそれを舞台に上げるまでの過程があったのであり、
それもテーマの一つであったと読むことができます。
ローラと極めて似通った状況に置かれたゆめが、
自分でそれを乗り越えるでもあったということを改めて強調しておきたいと思います。


テーマ:アイカツ!
ジャンル:アニメ・コミック

同じ課題に直面した私たちから ――「アイカツ」における教えることの連続性 (アイカツスターズ!第二十四話考察)

2016.10.16 17:30|アイカツ!
今回は、第二十四話について考えていきたいと思います。
第二十四話は、ゆめたちがゆめの家に赴き、
母親とぶつかってしまったレイナの背中を押す場面が印象的です。
第二十四話で、ゆめたちがレイナに本当のキモチを伝えること等を教える場面は、
四人がそのことを教える点につっこみを入れ得るところであると思います。
つまり、ゆめたちは劇場版で「本当のキモチで臨むこと」を学び、
真昼は第15話で「本当のキモチを伝えること」を学び、
あこは第17話等を通してゆめたちに対して「素直」になり始めたという中で、
彼女たちがレイナにそれを教えることは、つっこもうと思えばつっこめるところでしょう。
しかし私は、そういった彼女たちが教える点こそ、極めて「アイカツ」らしかったと思います。
教える側と教えられる側を分断された二項で捉えていないのです。 
 
すなわち、「自分がかつて教えられ、学んだこと」、あるいは、
「自分にとっても課題であること」を誰かに教えるということは、
『アイカツ!』から続く教え方の描き方であると思うのですよね。
特徴は、教える側と教えられる側を規定し、両者を分断しないことです 
 
「教える者/教えられる者」、「先達/後進」という、
分断の図式でもって語るのではなく、
「教える者→教えられる者」、「先達→後進」という連続性の図式でもって語るのが、
アイカツシリーズにおける教え方の特徴であるのではないでしょうか。
今誰かに教える私は、誰かに教えられた私であるということ。

何かを教えるということは、それにふさわしい単純な傑物がそうするというわけではなくて、
かつてそれを教えられた人、学んだ人こそがそうするものなのです。
そしてそのとき教えられた人が、更に誰かに教えていく。
そういう繋がりの「ライン」でもって「教える」ということが描かれてきました。
 
 『アイカツ!』で言えば、第八九話のユリカとちまきの話が想起されます。
そこでユリカは、自分がかつて先達から学んだことを、ちまきに教えるに至っています。
まさしくああいった、「受け継ぐ」ということと同義の「教える」なのです。

『アイカツスターズ!』で言えば、第三話のツバサや第十八話の有莉が想起されます。
誰かが誰かに教えるときに、その教える側が、
教えるところのことを学んだ経緯がきっちり描かれていきます。
その意味で、先輩から後輩へと続く学びの連続性なのです。
 
第二十四話においては、大(ゆめの父親)が、要旨、
お客さんを笑顔にするような仕事をするべきということをゆめたちに教えますが、
大自身はそれを、幼少期のゆめから学んでいます。
大もまた、かつて学んだ者として、ゆめたちに教えているのです。

それで、第二十四話で、ゆめとローラは劇場版での経験を踏まえて、
真昼は第十五話の経験を踏まえて、
レイナに教えているということは言わずもがなですが、
そこで、あこはどうなのかということが問題になると思います。
あこが「素直が一番」と教える意味は、何であったのでしょうか。

ここには、分かりやすいゆめたちの影に隠れて、
非常に多くの含意があったのではないかと思います。
まず、あこが「素直が一番」と教えるのは、
一方でローラのつっこみのとおり「それ、自分で言う?」というところなのですが、
他方でこれほどの適任はいないと考えられるのです。 
 
というのも、確かにあこはゆめたちに対しては「素直」になり切れてはおらず、
第二十四話でも一度ゆめの家に行くのを断ってから付いてくるという塩梅なのですが、
すばるに対してはどうしようもないくらいに「素直」であって、
第十七話においては、本番中に卵料理を送ったりしています。
 
だから、レイナが「大切な人に自分の作ったものを送る」という文脈において、
「素直が一番」と伝えるのは、あこにこそふさわしくもあると言えます。
第十七話で実際にそれを実践してしまっているあこだからこそ、
レイナのキモチに共感してそう教えることに説得力があるのです。
 
つまり、「素直が一番」ということは、
一方で「それをあこが言うのか?」ということでもあるのですが、
他方で「それはあこだから言える」ということでもあると言えます。
その意味においてあこは、他の三人と同様にレイナに教えるのにふさわしい存在なのです。
 
また、あこがレイナに教える場面についてもう一つ言及しておくべきなのは、
あこの「ここは、それでいいんですの」というあこの言葉です。
この何気ない一言には、あこの成長が見い出せると思います。
というのも、こういった「選択」こそ、これまであこができなかったことだからです。 
 
あこは、ステージや演技や料理のスペックがことごとく高いにもかかわらず、
「素直でいることの選択」が上手くできず、
第十六話で応援を突っぱねたり(素直に応援を求められない)、
第十七話で本番中にすばるに猛アタックしてしまったり(過剰に素直であり過ぎる)しています。9月24日

劇場版においても、すばるに対してアタックしようとして、
小春に今はダメと静止されています。
こういう姿を鑑みると、そのあこが、第二十四話で「ここは、それでいいんですの」と、
自分で適当な選択を成し得ている点は、彼女の課題解決への一歩に他ならなかったと思います。
 
結論として、つい先日そのことを学んだゆめたちが、
レイナに本当のキモチであることを教えることには、
かつて学んだ者が今誰かに教えるという「アイカツ」式の教え方の描き方が見出せます。
また、その中であこが「素直が一番」と教える点には、
彼女が少しは素直でいることを選択できるようになったことを見出せます。
四人がそれぞれレイナに教える側に立つことによって、
四人が既に学んだ者であることを強調し、
それによって四人の成長を表す第二十四話であったのではないでしょうか。


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ジャンル:アニメ・コミック

能力の代償以上の問題点としてのゆめのキモチの取り違え ――劇場版の物語の先の物語へ (アイカツスターズ!第二十一話考察)

2016.09.19 14:50|アイカツ!
今回は、『アイカツスターズ!』第二十一話を考えていきたいと思います。
第二十一話においては、ゆめがローラに勝ちたいというキモチで進んで、
それゆえに普段以上の力が出せる能力に頼ってしまう様が描かれていました。
結果的にローラに勝利したゆめではありましたが、
その勝利は危ういものとして示されていたように思います。

この第二十一話の物語が相当憎い点は、
「勝ちたいキモチ」というサブタイトルに表れているように、
この話がゆめの「勝ちたい」という本当のキモチを描いたに他ならない点であると思います。
劇場版で正しい道として示された、
「自分の本当のキモチで臨む」ということに、
早くもある程度の疑義が付されているように見えます。

あの劇場版の物語をやっておいて、そことの繋がりを意識させながら、
自分の本当のキモチで進んで、今にも陥穽に落ちそうなゆめを描くことの強烈さがあります。
ゆめは本当のキモチでローラと対峙したのに、
何故それが誤りであるかのように描かれたのかという問いが叩き付けられるのです。

しかし、第二十一話は、一見上述のように「本当のキモチで臨むこと」を描いた、
劇場版に挑戦する話に見えるのですが、その実そのことを否定する話ではないと思います。

本当のキモチで進んだゆめがここまで危うく描かれているのは、
彼女が自分の本当のキモチを「取り違えている」からです。

つまり、「ローラに勝ちたい」というキモチは、
確かにゆめの本当のキモチに他ならないのですが、
それは、「あのときみたいなステージを」、「今だけでいいから」やってみせて、
それでもって勝ちたいということではなかったはずなのです。
ゆめもローラに、本当は実力で勝ちたかったはずです。

しかしゆめは、目前のCDデビューのかかったオーディションのために、
自分の「ローラに勝ちたい」というキモチの奥にあるはずの、
「ローラに実力で勝ちたい」ということを、
「ローラに今勝ちたい」ということと取り違えてしまったと考えられます。

そこにこそ第二十一話のゆめの危うさがあったのです。

特に重要なのは、第二十一話は、一見そう見えもするのだけど、
「本当のキモチ」よりも優先すべきことがあることを提示する物語ではないということです。
それはおそらく、学園長がゆめを妨害する論理なのですが、
キモチよりも身体が大事だからキモチを否定すべきということではない。

第二十一話は、自分のキモチを取り違えて、代償を伴う力の行使を選択するゆめを描き、
「本当のキモチ」の重要性を念頭に置いて、
「本当のキモチを取り違えないこと」を提示していくきっかけの話であったのだと思います。
仮に代償がなくとも、ゆめがそれを選択するのは誤りであったはずなのです。

だからこそ、今回のひめの「ゆめちゃんは、なんのために歌っているの?」という問いがあります。
一番の問題は、「ゆめの力に代償があること」ではなく、
ゆめが「自分の本当のキモチを取り違えていること」なのです。
綻びは、その結果でしかないと言えます。

そして、ここでこそ、第二十一話は劇場版と接続され、同時に劇場版に挑戦するのです。
すなわち、「本当のキモチで臨む」大切さをテーマとして引き継ぎつつ、
「本当のキモチを取り違え得る」ことを描いていく。
その意味で、劇場版の物語の先を描いたには他なりませんでした。
しかし、それは、劇場版を「本当のキモチ以上に大事なものがある」と否定する形ではなく、
「本当のキモチを取り違えることがある」と示していく形であったのです。



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   ――ゆめとローラのできることの向こうに (第十六話)
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