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何かに成り切れないからこそ主人公であるということ ――あかりと京子の対照性から (『ゆるゆり さん☆ハイ!』第十二話考察)

2016.01.17 11:38|ゆるゆり
今回は、先日最終回を迎えました『ゆるゆり さん☆ハイ!』から、
『ゆるゆり』という作品について改めて考えてみたいと思います。
テーマは、あかりが『ゆるゆり』の主人公であることについてです。
アニメ三期第十二話は、このことを改めて強調するものであったと言えると思います。
最後の京子のごらく部の面々に対する気持ちの告白が、
あかりと京子の差異を浮き彫りにして、
主人公としてのあかりを間接的に描き出していたのです。
この記事では、第十二話の京子の語りから話に入って、
あかりが『ゆるゆり』の主人公であることについて考えたいと思います。
けだし、あかりは京子のようにきっちり主人公然とはしていられないからこそ、
この『ゆるゆり』という作品の主人公であったのではないでしょうか。
もしよろしければ、お付き合いいただければ幸いです。

アニメ三期は京子の語りで締めていましたが、
これは「なちゅやすみ」の最後のあかりの語りに対応していると思います。
そこからの一連の流れの中で、今回のアニメは、
あかりを『ゆるゆり』の描く世界の主役として表す一方で、
京子をごらく部の主役として、対置させていた気がします。


他方で、原作においても確かに描写され、かつ、前回のアニメが強調したような、
あかりの「主人公にまだ成り切れない主人公」の側面を保持して、
例えば「なちゅやすみ」と噛み、
例えば第十二話で「主役」を最後にカモに取られるあかりの姿をも描いているのが、
今回のアニメであったと考えられます。
第十二話の京子の語りでは、あかりのように噛むようなことはありませんでした。
これによって、あかりが噛んで、きっちり締められなかったことが際立ってきます。

つまり、今回のアニメはあかりを、「ごらく部の主役」としての京子に対置される、
『ゆるゆり』の主人公として提示しながら、同時に、
「どこか主人公になり切れない主人公」としてあかりを描き出していると言えます。
特に今回のアニメでの重要な視点であったのは、前者の側面であった気がします。

そう考えると、三期第一話の話のチョイスは、
まさしく最終話のその対照を際立てるためのものであったと読めなくもありません。
そこでは、一方で、話の中心にいてゲームを提案するなりして盛り上げる京子が描かれ、
他方で、花子に対してお姉さんに成り切れないあかりが描かれていました。

最終話に繋がる対照です。

私は、あかりの「主人公でありながらまだ主人公になり切れない」側面は、
『ゆるゆり』という作品の根幹に関わっていると考えています。
とはいっても、よく言われるように、あかりが主人公なのに「空気」であることが、
『ゆるゆり』の根幹にかかわると考えているわけではありません。

そうではなくて、「何かに成り切ることができない」あかりの側面こそ、
『ゆるゆり』の根幹に関わる要素であって、
それゆえにあかりは主人公であると思うのです。
あかりのそういった側面が、敢えて「ゆり」に「ゆる」を付した、
『ゆるゆり』という作品における象徴であると言えると思います。

あかりの「何かに成り切ることができない」側面
――その一つの表現が、特に主人公に成り切れないことです――は、
あかりが「まだ未成熟」であること、換言すれば、
これから成長し得ることを示唆する特徴です。
この未成熟性は、花子に対してお姉さんに成り切れない話で顕著でした。

『ゆるゆり』という作品は、見方によっては、
そういった「未成熟性」があってこそ「”ゆる”ゆり」であるに違いありません。
「ゆり」があることを前提に、そこに「ゆる」を付した同作品にて描かれる百合は、
「まだ未成熟」な百合であると考えられます。

「まだ未成熟性な百合」と言っても、それは、
単に今後更に展開し得ると言ったニュートラルな意味であって、
作中で描かれる種々の想いが形容なしの「百合」には劣ると言った意味では絶対にありません。
その意味で、百合にまだ成り切れず、成り切らない百合なのです。

そして、そういった意味で「ゆるい百合」を描く『ゆるゆり』に対応して、
「ゆるい主人公」として存在するのがあかりに他ならないのです。

あかりが、百合に関連しても、最も象徴的な「ゆるさ」、
「成り切れなさ」を抱えていることは言うまでもありません。

あかりについては、専ら主人公に成り切れない所謂「空気」な側面が取り沙汰されがちですが、
それは実は、あかりが『ゆるゆり』の主人公として有するところの「まだ何かに成り切れない」、
「まだ未成熟な」側面の、一つの現れ方であるのではないでしょうか。



○関連記事

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ジャンル:アニメ・コミック

想いゆえに、一歩踏み出すことと踏みとどまること (『ゆるゆり さん☆ハイ!』第七話考察)

2015.12.06 16:39|ゆるゆり
今回は、先日放送された『ゆるゆり さん☆ハイ!』第七話について考えます。
綾乃と京子、あかりとちなつ、結衣とちなつ、それぞれの二人きりが描かれた本話。
原作で言えば、「81★劇場版・恋のクラゲンジャー」(第十二巻33ページから)、
「intermission.9★初恋シミュレーション」(第九巻5ページから)、
「78★お泊まり、二人きり。」(第十一巻103ページから)がもとになっていました。
また、綾乃と京子が見ていたミラクるんの映画の予告は、第九巻のおまけまんがからの内容です。
この記事では、主に以下の三つのことを論じていきたいと思います。
すなわち第一に、綾乃と京子の映画館デートの話と、
結衣とちなつのお泊まりの話の対照性を取り上げ、
この二つの話が同じ一話のうちで描かれたことにより際立った点を論じます。
第二に、綾乃と京子の映画館デートの話が、
三期第二話の綾乃が京子と偶然出会う話があってこそであたことを論じます。
第三に、あかりとちなつのデートの予行練習の話が、
結衣とちなつのデートの話(※)があってこそであったことを論じます。
このように、「各話の横の繋がりと縦の繋がり」を踏まえて見ることで、
登場人物の関係や物語の展開を理解し、一層楽しめるように思います。
もしよろしければ、内容を思い出しつつ、お付き合いいただければ幸いです。

(1) 想いゆえに、一歩踏み出すことと踏みとどまること

綾乃と京子の映画館デートの話と、
結衣とちなつのお泊まりの話を合わせてきたアニメ三期第七話ですが、
あの二つの話は、一見好対照な話であると思います。
一方で綾乃が自分に正直に一歩踏み出す話で、
他方でちなつが自分の気持ちを抑えて一歩踏みとどまる話というような。

つまり、綾乃と京子のデートの話においては、
当初躊躇っていた綾乃が、最終的に京子を映画に誘うまでが描かれているのに対して、
結衣とちなつの話においては、当初結衣にキスしようとしていたちなつが、
最終的に踏みとどまるという点で、正反対の軌跡を辿っているのです。

しかし、そうした一見好対照な二つの話を一つにまとめることで際立ったのは、
綾乃とちなつがそれぞれ、普段の自分から逸脱したきっかけには、
同じく相手を想う気持ちがあったということに他ならないと思います。

好対照な二つの話における、共通点が強調されていたのではないでしょうか。

すなわち、綾乃は京子への想いゆえに、
なかなか映画に誘えない普段の自分から逸脱して、京子を映画に誘ったのに対し、
ちなつは結衣への想いゆえに、いけいけどんどんで推していく普段の自分から逸脱して、
結衣へのキスを踏みとどまるのであって、その意味では対照でないのです。

(2) 引き継がれた「自分に正直に」

それと第七話においては、第二話の綾乃が京子と偶然出会う話と、
綾乃が京子と映画に行く話を明確に接続していて、
その話あっての今回の話という形を打ち出しているところが特徴的だと思います。
「自分に正直に」というテーマも、京子が綾乃をミラクるんに誘った件も、
第二話あってに他ならないものでした。

というのも、ミラクるんの件については、第二話で京子が綾乃にミラクるんの話を出して、
その後綾乃にミラクるんを貸した(第二話アニメ公式web予告)からこそ、
綾乃を誘ったと考えられるわけで、
その意味で第二話あっての京子の誘いであったと言えるのです。

(3) 躊躇わない彼女と彼女のデート

あかりとちなつのデートの話は、
一方でこれまでのあかりとちなつの二人の話の一つの集大成的な話ですが、
他方で結衣とちなつのデートの先にある話に他ならないと思います。
変な語感ですが、結衣とのデートあってこその、今回の結衣とのデートの予行練習なのです。

というのも、結衣とのデートに当たっては、ちなつがふとした瞬間人目が気になって、
自分の恋愛について思い悩む一瞬がありました。
そういった気持ちを描いているという点において、
あの話は『ゆるゆり』全体で見ても極めて珍しく、かつ、重要な話であったと思います。

ただちなつは、それでずっと思い悩んでいたわけでなく、
結衣とのデートの中で結衣が好きなことを再認識して、
自分の気持ちを全力で肯定することになります。
こういった、思い悩んでいたところからの復活を経た上での、
今回のあかりとの予行練習に他ならなかったのではないでしょうか。
というのも、ちなつはあかりとのデートの予行練習の中で、
一瞬たりとも人目を気にするということはなく、
最初から最後まで人前か否かを問わず、ずっと彼女と彼女のデートを満喫していました。

ここを見るに、この話は結衣とのデートの話の上にあると言えるのです。

以上、今回は第七話の各話について、
一方で相互にどのように関連しているかという横の繋がりを考え、
他方でこれまでの話とどのように関連しているかという縦の繋がりを考えました。
『ゆるゆり』は、形式としては一話完結の短編の形を取りますが、
その中で各話は密接に関連し合っています。
そういった意識で眺めることで、『ゆるゆり』は一層深く、
面白い作品として受け取ることができるようになると思います。



 ※ 「Special★4 もうゆるいゆりなんて言わせないっ!!」(第六巻47ページから、二期第八話)



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   アニメの改変による「ちなつの答え」の変化 (第八話)

  アニメ三期の記事

   あかりと花子の関わりの中に見出せること
    ――意識せずお姉さんらしく振舞えるあかり (第一話)


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あかりと花子の関わりの中に見出せること ――意識せずお姉さんらしく振舞えるあかり (『ゆるゆり さん☆ハイ!』第一話考察)

2015.10.12 21:13|ゆるゆり
今回は、先日第一話が放送されました、『ゆるゆり さん☆ハイ!』を考えます。
揃ってキャンプに行った夏休み後、二学期が始まるところからスタートする一話。
基となっているのは主に、「56★女王様ゲーム!!」(第8巻、61ページから)、
「69★京子ちゃんの女子力」(第10巻、103ページから)、
「intermission 19★お姉さんだよぉ だし」(第10.5巻、33ページから)の三話です。
ごらく部の面々が王様ゲームをしているところに、
生徒会の面々がやってきたりと、漫画から種々の改変が加わっていましたが、
今回は最後のあかりと花子の話に純粋にフィーチャーしてみたいと思います。
この話は、お姉さんらしく振舞おうとして空回りしてしまい、
むしろ花子に助けられてしまうあかりの姿が非常に際立っていますが、
それでいて、そればかりを描いた話ではなかったのではないでしょうか。

この記事ではこのことについて、以下で論じていこうと思います。
もしよろしければ、アニメや漫画の内容を思い出しつつ、お付き合いください。

三期第一話のあかりと花子の話は、
お姉さんらしく振舞おうとしてむしろ花子に助けられるあかりの姿が印象的ですが、
他方であかりのお姉さんらしい優しさも強調されている話であると思います。
あかりが「意識してできなかった」お姉さんらしい振舞いは、
それが「意識する前にできていた」ことを強調してはいないでしょうか。

つまり、確かにあかりはお姉さんらしく振舞おうと意識してから後は、
全然お姉さんらしく振舞えず、むしろ花子に助けられているのですが、
そのことは、振舞おうと意識する前にあかりが花子に対してやったことが、
完全にお姉さんらしかったということを気付かせてくれます。

あの場面で、あかりは意識すると、
全然お姉さんらしく振舞えないことが提示されていたのですが、
同時に、意識しないとお姉さんらしく振舞えることも提示されていたのです。
あかりと花子の話は、あかりのこの両側面を描き出した話であると、私は思います。

加えてあかりは、花子があかりに対してやって見せた「助ける」から、
一歩進んだ「助ける」を花子に対してやっていたと言えなくもありません。
というのも、あかりは花子を「助ける」に当たって、花子に気を遣わせないために、
助けたのではないという体を装って助けています。

つまり、偶然自分が花子の買ったジュースが欲しかったので、
私のためにも交換することにしようということにしているのです。

この、あかりの「助けられたと気を遣わせないような助け方」の意義は、
最終的にあかりが花子に助けられて、そのことを気にすることになっているため、
そこにおいて浮かび上がってきています。
その意味でやはり、この話は、あかりが花子に助けられる話でありながら、
同時に花子があかりに助けられる話でもあるのです。

更に言えば、花子があかりを助けることになるのも、
あかりが花子を助けたことがあってこそであったと考えられます。
花子もいい子なので、誰かが眼前で困っていたら、
自分がその人に助けられずとも助けたでしょうが、
あの時そもそも花子が公園に残ったのは、あかりに助けられたからと考えられるためです。

というのも、あのとき花子が公園に来たのは、
撫子のコーヒーを買いに来ていたためなので、櫻子ならともかく、
花子が敢えて公園に残ったことには相応の理由があると見るべきだと思うんですよね。
花子なら普通、お使いを頼まれたら、速やかにそれを撫子に届けようとするでしょう。

そこでそうしなかった理由を考えてみると、やはり、
自分を助けてくれた「お姉さん」が、
自分を助けたがゆえにグロッキーな状態になっているからと考えられます。

その意味で花子は、あかりに助けられたからこそ公園に残り、
その後にあかりを助けることになったと言えます。

よって、結論として、あかりは花子に色々と助けられ、
他方で自分は「なにひとつお姉さんっぽいことできなかった」ことを気にしているのですが、
その実お姉さんっぽいことをしているし、花子があかりを助けたのも、
まさしくあかりが花子を助けたからこそであったと言えると思います。

それにもかかわらず、あかり自身が物語中で、
「なにひとつお姉さんっぽいことできなかった」と締め括ったことで強調されるのは、
彼女の不憫さなどではなく、お姉さんらしく振舞おうと意識する以前に、
自然体でお姉さんらしく花子を助けることができる、
あかりの「お姉さんとしての側面」であったのではないでしょうか。



○関連記事

  『ゆるゆり』一般の記事

   撫子の彼女についての考察
   『ゆるゆり』を百合作品として読む ――ちなつとあかりの関係から

  アニメ二期の記事

   「物語の外部の主人公」としてのあかり (第一話「帰って来た主人公」)
   『ゆるゆり』の日常を描いた二話 (第二話「ゆるゆりなる日々なるなり」)
   「対岸の比喩」で見るバレンタイン回 (第三話「チョコと涙と女と女と磯辺揚げ」)
   千歳と綾乃、先生と会長、それぞれの関係性 (第四話「ひっちゅ」)
   五話から見る、京子とあかりの差異 (第五話「日本の夏、ゆるゆりの夏」)
   六話は「コムケ回」ではないということ (第六話「【速報】ゆるゆり完売」)
   「ゆるゆり」の本質的条件としての「中学生」 (第七話「姉妹事情あれこれそれどれ」)
   アニメの改変による「ちなつの答え」の変化 (第八話「ちなつ無双」)
   「幼さ」という観点からの櫻子と京子の比較 (第九話「何かありそうで何もなさそうな日」)
   あかりとちなつの間の「距離」の演出について (第十話「修学旅行R」)
   あかりは「想われている」ということ (第十一話「時をかけるあかり」)
   終わらない『ゆるゆり』の日常 (第十二話「さようなら主人公、また会う日まで」)


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ジャンル:アニメ・コミック

終わらない『ゆるゆり』の日常 (ゆるゆり♪♪:十二話感想)

2012.09.18 23:05|ゆるゆり
さて、来週は三期予告ですね、分かっています。

と、若干逃避気味なわけですが、今週も十二話について、
考えたことを語っていきましょう。

本当の最終回です。
タイトルは「さようなら主人公、また会う日まで」。
どことなく、「一旦終わり」であることを強調するようなものですね。

何だかんだで毎週感想記事を書いていましたが、
長いようで短いような三か月間だったと思います。
しっかり眺めてみると、色々なことが読み取り得るのだということが分かったため、
非常に楽しい三か月間でした。

さて、12話は大きく分けて二つの部分で構成されていました。
前半は、京子が蛇のおもちゃを持ってくる、intermission.1「天使の悪戯」、
後半は、これまでの話を踏まえた劇を全員で演じる話となっています。
観客席にあかねさんを始めとする姉妹ズもいたので、
まさに最終回というにふさわしい、全員出演の回となっています。

特に気に入ったシーンは、劇でちなつの絵が背景として出て来たときに、
あかねさんが衝撃を受けて固まっていたシーンでしょうか。


周りの観客も引いてはいるのですが、彼女たちは青くなっているのに対して、
あかねさんは一人だけ、顔に影を落としているんですよね。
どうやらちなつの絵は、赤座家の血に特に作用するようにできているようです。
あかりの家に泊まりにいった回(七巻、八巻)辺りで、
ちなつはあかねさんに苦手意識を持っていそうですが、
今回の一件で、あかねさんもちなつに苦手意識を持ったかも知れません。
胸はあつくなり、本はうすくなりますね。

さて、今回は『ゆるゆり♪♪』の最後を飾った、
上述の劇について、今までの話も踏まえながら考えていきたいと思います。
今後も『ゆるゆり』関連の記事はときどき書くでしょうが、
『ゆるゆり♪♪』に関しては一区切りなので、気合を入れていきます。

もしよろしければ、少しお付き合いいただけると幸いです。



○アニメ終盤における「二人の主人公」:あかりと京子の「きずな」

第一に指摘したいのは、12話の最後、カーテンコールの場面で、
あかりは京子にハイタッチをするということです。

ここは文字だけブログなので分かり辛いのですが、
カーテンコールのときに、一人だけ上から降りてくるあかりは、
着地後まず京子とハイタッチをしています。
見ていただければ分かるのですが、何てことのないシーンです。
しかし、私はここに意味を見出すことができるように思うのです。

結論から言いましょう。
私は、アニメが「あかりと京子のきずな」を終盤の裏のテーマとして、
描いていると読み取れるように思っています。
順序立てて、説明していきましょう。

最初に、あかりと京子の関係は、作中である程度の緊張を含むものです。
それは、あかりと京子の仲が悪いということではありません。
もちろん、当人たちは仲のいい幼馴染ですが、
それを見る我々にとっては、「主人公」という位置を巡って、
緊張のある関係に見えないこともないということです。

現にあかりの存在感の薄さが取り沙汰されるとき、
比較対象として用いられやすいのは京子以外にはありません。
しかも作中では京子が存在感のことであかりをいじることが多いため、
一層高まった緊張が二人の間には鎮座していると取れます。

しかしアニメ終盤においては、そのような緊張を孕んでいるように見える二人の間に、
「きずな」が描かれていると読めるように思います。


特に、11話において、京子はあかりを主人公とした話を書きました。
前回の感想記事でも書いたように、この話は、
「あかりがみんなに想われている」ということを京子が書いたことによって、
「あかりが京子にも想われている」ということを示しています。
いつもあかりのことを色々といじる京子ですが、
彼女の根底にはあかりへの想いがあるということです。

現在に帰ってきたあかりに対して、まず泣きながら向かっていく京子。
それを描いたところに、あかりへの想いは見出せると思います。

この京子への返答という意味が、12話のカーテンコールで、
あかりが京子にハイタッチしに行く場面には託されていると読めると思うのです。
上から降りてきて、まず京子にハイタッチをするあかり。
ここには、あかりの京子への想いを見出すことができます。

観客に対して一礼をする前に、京子だけと、あかりはハイタッチをするのです。
当然、二人の位置が偶然近かっただけとも取れるのですが、
結衣でもちなつでもなく、京子だったところに、私は意味を見出したいと思います。

11話では、現在に帰ってきたあかりに対して、まず京子が駆け寄り、
12話では、降りてきたあかりが、京子だけにハイタッチをするということ。


この二つの場面は同様に「二人のきずな」を端的に表しています。
そして、二つの場面は対照的でもあり、片や京子のあかりへの想いを表象し、
片やあかりの京子への想いを示すものです。
相互の想いによって、月並みな言い方ではありますが、「きずな」が素描されています。

先にも述べたように、あかりと京子は、
「主人公」をめぐって緊張関係にあると解されやすい二人です。
あかりの存在感が薄い分、京子が真の主人公のように見えるというのは、
原作でも時に提示される事実ですし、一期でも強調された事実でした。
そして、今回の12話でも、シンデレラを京子が演じ、
「特徴がないことが特徴妖精」をあかりが演じることで再確認されています。


しかし、アニメが二期の最後で描いたのは、
京子という真の主人公の影に隠れて、
不憫な想いをするあかりという、それぞれの姿ではありません。
「きずな」という紐帯によって繋がれた、「二人の主人公」の姿をこそ、
アニメは最後に描いたと言えるのではないでしょうか。

今回の話のタイトルは、「さようなら主人公、また会う日まで」です。

ここで言われている主人公は、私にはあかりでも京子でもなく、
背中合わせにタッグを組む「二人」であったように思われるのです。




○「劇中劇」という終わり方:「これまで」を振り返り「これから」を仄めかす

第二に指摘したいのは、最終話が「劇中劇」で終わるということです。

12話は、最後に「劇中劇」を持ってきています。
つまり、『ゆるゆり』という物語の中で、
さらに劇が行われる話を持ってきているということです。
全員で大いに改変された白雪姫を演じることが『ゆるゆり♪♪』の末尾でした。
このことが持つ意味について順番に論じたいと思います。

まず、劇中劇はこれまでを振り返らせるために挿入されたのだと思います。
というのも、劇中劇は『ゆるゆり♪♪』を特徴づけるものであるためです。
印象に残る回では、「劇中劇に相当するもの」が常に使われていました。

例えば、一話は「あかりの夢」から始まりました。
これは、あかりが無意識に作った劇であると言うことができます。
非常に『ゆるゆり』らしくない(原作サイドでは『がちゆり』と名付けられる)、
あかりがみんなに大人気になる劇中劇です。

また、6話は「ミラクるん」の劇中劇から始まりました。
京子がコムケのために作ったアニメーションです。
これも劇中劇に相当する制作物と言うことができます。

そして、同様に京子が脚本を書いた劇中劇と言えば、
11話の「SFチックな紙芝居」があります。
あかりが過去に戻ってしまうという劇中劇です。

このように、『ゆるゆり♪♪』においては、
劇中劇という形式が一つの特徴と言えるほどに多く使われていました。

そもそも冒頭の「アッカリーン」パートも、あかりが出ている裏に「カメラさん」がいて、
京子(たち)がそこで色々と糸を引いているように見える点では、
「小さな劇中劇」と捉えられるかも知れません。
劇中劇は、『ゆるゆり♪♪』の主要な一部なのです。
二期のOPが、垂幕の前に立つごらく部の面々に、
順番にスポットライトが当たっていくという、
劇を想起させるものであることは偶然ではないでしょう。
『ゆるゆり♪♪』は劇(劇中劇)のイメージを持ったアニメと言えます。

12話の後半が白雪姫の劇だったことは、
最後に『ゆるゆり♪♪』の要素である「劇中劇」を入れてきたことを示します。

これにより、視聴者はこれまでを振り返ることが可能となります。
形式的に劇に近い、前述の11話などを思い出すことができるのです。
最終話の「劇中劇」は、振り返ることを促す効果を持つと思います。

そして、その形式からしてこれまでを想起させる「劇中劇」とともに、
劇の内容もこれまでを振り返らせるようなものとなっていました。
1話の「あかりの夢」という劇中劇とは対照的に、
非常に『ゆるゆり』らしい内容の劇が演じられたのです。


トマト、綾乃に差し出されたプリンを櫻子が空気を読まずに食べる、
あかりのちなつ(仮)とのキスなど、
今一つ一つ例を枚挙していく暇はありませんが、
これまでの内容をふんだんに使った劇になっていたことは明らかです。

この内容を見ても、これまでを振り返らせることを意識していたのは分かるので、
最終話の「劇中劇」は、「振り返らせるツール」として使われたとまず言えます。


次に、これが最も強調したいことだったのですが、
「劇中劇」が最後を飾ったことにより、
「劇」自体は終わらず続いていくということを示したと考えられます。


12話はカーテンコールの最中で終わってしまいます。
具体的には爆発オチの直前に切られてしまうわけです。
劇中劇の終わりと、アニメの終わりがほぼ同時に訪れています。
このことによって、アニメが終わっても、
劇(『ゆるゆり』という物語)の中の日常は、
アニメ外で続いていくということが仄めかされています。

通常、劇中劇の後には、劇の中への引き戻しが行われます。
これは『ゆるゆり♪♪』中でも例外ではありませんでした。
1話では「あかりの夢」という劇中劇から、
旅館へ向かう電車の中という劇の領域に引き戻されます。
11話も、最終的に京子が紙芝居をめくっている劇中に引き戻されます。

しかし、12話だけ、劇中への引き戻しがありません。
劇中劇(カーテンコール)のまま終わってしまいます。

劇中劇の終わりとアニメの終わりが重ねられたからです。

これによって、アニメ内では「劇の終わり」は描かれなかったと言えます。
けれども、劇中劇が終わった後には、当然劇が来ると考えられるため、
アニメ外で「劇中の日常」は続いていると考える余地が生まれるのです。
劇中劇の終わりとアニメの終わりが重ねられたことで、
劇は終わらず、その日常は続いていく。
最後に劇中劇を持ってきたことで、このような効果が生まれます。

このことの説明を助けるものとして、「爆発オチ」があります。
12話の末尾は、そこまで描かれませんでしたが、明らかに爆発オチでした。

お姉ちゃんたち、うしろ、うしろー!

え?


爆発オチというのは、11話でも劇中劇の中で選択されたものでした。
京子の紙芝居の中で、先生の手を経たタイムマシンは爆発して、
ごらく部室が吹き飛び、物語は劇中劇から劇中に戻されます。
ここで爆発オチは、「劇中劇から劇中へと戻る契機」として用いられているのです。
それが、直後の12話でも使われているということ。
描かれなかったオチの後に、劇中の日常への回帰があることを示していると取れます。
そこで、『ゆるゆり』の日常は続いていく。

最後が「劇中劇」であり、その終わりとアニメの終わりが重なったことにより、
アニメの中で劇の終わりは描かれず、『ゆるゆり』の日常は、
この後も変わらず続いていくことが示されたのだと思います。


結論として、「劇中劇」は、
まず「これまでを振り返らせる」役割を担い、
次に「『ゆるゆり』の日常はこれからも続く」ことを示すきっかけになったと言えます。

「これまで」と「これから」を示す標識として、「劇中劇」があったのではないでしょうか。



以上です。
「劇中劇」のパートを中心に語ってみました。

他にも色々興味深い部分はありました。
例えば、あかりが蛇のおもちゃを踏んでしまった場面です。
踏まれた「ヘビさん」に思いを馳せていたことを説明するあかりを彩っていたのは、
やはりあの天使を表象するようなBGMでした。

5話辺りから、あのBGMはほとんど「あかりのテーマ」として使われていましたが、
今回、ある意味もっとも正しい使い方がされたように思うのです。


これまでは、あかりが不憫な目に遭う際によく使われていました。
それはそれでよかったのですが、それに対して、
今回は純粋にあかりの「天使性」を表すために、あのBGMが合せられていました。
まさしくBGMと表現する場面が、ぴったり符号していたように思います。
「天使としてのあかり」

また劇も細かいところまで見ると、ほっこりする場面は結構あって、
鏡を演じていた会長が、先生相手にむっとするところや、
ともこさんが「あかねちゃん」呼びするところや、
撫子はともかく、花子も「櫻子がにぶい」と気付いているところは、
何故か説明はし辛いのですが、何となく微笑ましく、印象に残ったシーンと言えます。

それでは、そろそろ締めに入ることにしましょう。

仮に、ここまで読んで下さった方がいるのだとしたら、
みなさまにとって、『ゆるゆり♪♪』という作品はどのようなものだったでしょうか。
当然いいアニメであったかという問いに対しては、両面の意見があるでしょうが、

私にとっては、原作の『ゆるゆり』という作品を改めて考える契機となり、
かつ特にオリジナルパートでは、『ゆるゆり♪♪』というアニメの『ゆるゆり』観や、
キャラクターの解釈を見出すことができたため、非常に興味深い作品でした。


アニメを見る中で、時にうなずき、時に描写に疑問を抱く中で、
『ゆるゆり』という作品自体と色々な面で対話することができたように思います。
その意味で、私にとってはかけがえのない作品でした。
最大限の感謝をここに表します。

ありがとうアニメ『ゆるゆり』、また会う日まで。

テーマ:ゆるゆり
ジャンル:アニメ・コミック

あかりは「想われている」ということ (ゆるゆり♪♪:十一話感想)

2012.09.11 20:44|ゆるゆり
「あかりは想われている」ということが全力で提示された一話。

十一話「時をかけるあかり」は、一言でそう表せると思います。

今回あかりが「主役」になれたかと問われれば、それは微妙なところです。
あかりは過去を能動的に主役として動いていたように見えて、
それは結局のところ、京子の紙芝居でしかありませんでした。
実際は、京子が「主役」で紙芝居をひたすらめくっていたとも言えます。
その意味では「あかりが主役になった回」と単純に言ってしまうことはできません。

この辺りは、私が一話の感想で述べたことに関連します。
ここで私は、あかりが「外部においては主人公になる」と言いました。
すなわち、あかりはどこか別のところに本筋があるときに、
「物語(本筋)の外部」において主人公になるということです。

その代表が、一話の「あかりの夢」の話であり、
また五話の、あかりが一人電車に乗り遅れて取り残される話でした。
両方とも、提示されるあかりの物語とは別に、本筋とでも呼べるような物語があります。
一話の場合、あかり以外のメンバーは起きていて電車に乗っていました。
あかりが参加していないそこで、何らかの物語があったはずです。
五話の場合は、もっと明確で、他のメンバーはプールで楽しんでいました。
あかりが参画していた物語とは別に、他のみんなが登場する物語があったのです。
この限りにおいて、あかりは「主人公」ないし「主役」となる。


11話もその範疇で語ることができます。
過去で奮闘するあかりの裏には、他のみんなが参画する現在の物語があった。
あかり捜索のためのビラを作成する、別の物語があったわけです。
また、京子が紙芝居を聞かせるという、現実における第二の別の物語もありました。
以上のように、「他のところに物語がある限りにおいて」
あかりは主人公として非常に目立つことになります。
11話も、あかりは「外部において」主役でした。

さて、11話であかりが「主役」だったかと問われたとき、
以上の考えから、私は単純には首肯できないように思います。
その意味では、11話を「あかり回」と呼ぶのにも一定の留保が必要です。

しかし、そのように考えたとしても、確固たる事実が一つだけあります。

十一話が、「あかりが想われている」ということを主題にしていたということです。
その意味では今回の話は、間違いなく「あかり回」でした。
このことは、非常にぼかされてはいる。
しかし、間違いなく読み取ることができます。
今回の記事ではそのことについて考えを述べていきたいと思います。

ある意味、真の最終回である今回の話。
もしよろしければ、お付き合い下さい。



○あかりは「想われている」ということ:みんなに、京子に、そして――

今回の話であかりは、二人に、というより物語の中で二重に、
「想われているということ」が示されていたと読むことができると思います。
それを順番に論じていきたいと思います。

第一に、京子が書いた物語の中にだけ注目してみましょう。
ここでは、あかりが「みんなに」想われているということが提示されました。
それを、内容を振り返りつつ確認したいと思います。

過去において、あかりは二つのことを天秤にかけることになります。
過去の改変か、過去の保存という、二つの行為の間での逡巡です。
それぞれ、「存在感が薄いという現在の自分を変えること」と、
「今までのみんなとの思い出を保持すること」という利益に繋がっています。
最後の最後まで、あかりはこの間で悩むことになります。
そして、ぎりぎりのところで以下のように決断します。

やっぱり、みんなとの思い出を変えることはできない。
できないよ。

結局、過去を変えなかったけど、いいの?

うん、存在感は、未来で勝ち取ってみせるよ!


それでは、何故あかりはあれ程気にしていた「存在感の薄さ」の払拭よりも、
「みんなとの思い出」を選び取ることができたのでしょうか。
その答えが、挿入歌「みんなだいすきのうた」にこれ以上なく表れています。

みんなの 笑ってる顔を 思い出し目を閉じて
ふかふか お布団かぶった なんでかな涙が出た

楽しいおしゃべり 何でもない時間 今日も過ぎてくけど
大切な想い 伝えたい 伝えたいんだよぉ

大好きだよ みんなのこと いつまでもいっしょで笑ってたい
だから明日 また会おうね それまでちょっとだけ おやすみ

大好きだよ 明日また会えるね それまでちょっとだけ おやすみ


みんなのことが「大好き」だからです。
みんなのことが大好きだから、そのみんなとのかけがえのない思い出が、
存在感の獲得よりも遥かに意味のあるものになり得るのです。

未来に帰るあかりの表情に、後悔は全くありませんでした。
彼女は自分で満足できる、正しい決断ができたと考えているのだと思います。

みんなが「大好き」だから、過去の改変は行わない。
このあかりの答えに応える形で、みんなはあかりを迎えることになります。

あかりの予想に反して、みんなが心配してビラまで作ってくれたことが分かるのです。

過去であかりが大好きなみんなを想っていたように、
みんなもあかりのことを想っていた。


過去であかりが流した涙は、みんなを想っての、みんなのための涙でしたが、
再会したときのみんなの涙も、あかりのための涙でした。
以上のように、あかりの想いに対して「みんなの想い」が返されます。
これが第一に示された、あかりはみんなに想われているということです。

しかし、これだけでは物語は終わりません。
最後になって、この物語が「京子の書いたもの」と暴露されることになりました。
ちなつの画力が初披露された話を思い出させる展開です。
当然のことながら、前述の展開に感動した視聴者は肩透かしを喰らうことになります。
少し探したところ、やはりこのオチには賛否があるようでした。
先述した「あかりがみんなに想われている」ということを、
事実ではなく、単なる創作上の出来事に押し込んでしまったというわけです。

けれども、私はあのオチが「あかりがみんなに想われている」ということを、
「所詮創作上のこと」にしてしまうために入れられたという考え方とは、
別の考え方ができると思います。


むしろ、あかりが想われているということを、
二重に提示するために入れられたと考えることができるのではないでしょうか。
つまり、あかりはみんなに想われているだけではなく、「京子にも想われていた」
このことを示すためのオチだったと解釈できるように思います。

というわけで、第二に、京子が書いていたというところまで含めて、
今回の11話全体を考えて見ることにしましょう。
ここで提示されるのは、あかりが「京子に」想われていたということです。

京子の紙芝居の中で、あかりを迎えるシーンは感動的なものになっていましたが、
このようなラストにしたのは、他でもない、物語の書き手である京子です。
しかも、敢えて別のラストを提示しながら、京子は感動のラストを選択しています。
あかりが現在に帰るシーンでの、あかりの予想を引用してみましょう。

ただいま、みんな!

あ、あかり。
帰って来たね。
あかりちゃん、お土産は?

って、みんな少しは心配した?

存在感が薄いから、ちょっと忘れてたよ。


これは非常にありそうなことです。
少しあかりが不憫な形になって、終わる。
特に最後の京子の言葉が、京子らしい一言と言えます。
京子はあかりを、影が薄いことでいじることが特に多いキャラクターだからです。
しかし、実際はこのラストは選択されませんでした。

あ、あかり。
あかり!
どこ行ってたんだー!


存在感が薄いことをネタにするのではなく、
京子は最初に涙し、最初にあかりの方へと飛びつきます。
これを京子が書いているということは重要なことだと思います。

作中では、何を考えて京子が書いたかは語られません。
語られたとしても、映画を見て触発されたということくらいのことです。

しかし、物語の最も大きな強調点として、
京子は、自分を含めたみんながあかりを「死ぬほど心配した」こと、
つまりみんながあかりのことを想っているということを選んでいます。


普段、存在感が薄いことで最もあかりをいじる京子がです。
ここにあまり表に出ることはない、京子の想いを読むことができると思います。
京子はあかりをよくいじるけれども、彼女のことを想っている。
紙芝居のこととされることにより、この読みが成立すると言えます。

紙芝居オチは、あかりが想われていたということを非現実にするとも読めますが、
作中に別の想いを導入する契機になっているとも読めるのではないでしょうか。
私はこのことを強調しておきたいと思います。

結論として11話は、二つの意味であかりが「想われている」ことを描いた話でした。
まず、あかりがみんなを想うように、「みんなもあかりを想っている」ということが、
あかりの過去への遡行を通じて語られることになります。
次に、それを描いたとされる京子、普段誰よりも影が薄いことであかりをいじる京子が、
そのような話を書いたことで、「京子があかりを想っている」ということが提示されます。
以上二つの想いを描いたのが、11話であったと言えます。

そしてここから、さらに外部を見ることも可能だと思うのです。
アニメ一期の内容は、原作でも最初の方、およそ四巻までを描いたこともあって、
あかりの存在感が薄いということなどが強調された面がありました。
アニメのこのような部分に批判的な意見も一期の頃には特に多かったように思います。
しかし、二期の「真の最終回」とされる重要な回に、
「あかりが想われていること」を示す話を持ってきたということ。

私は作り手のことを色々と推測するのは好きではないのですが、敢えて言えば、
そこにアニメの作り手が「あかりを想っている」ということも見いだせるのかも知れません。




以上です。
少し風邪気味で文章が崩れているかも知れませんが、ご容赦下さい。

これまでも一期の内容を思い出させるような話は多くありましたが、
今回は一期の一話二話をそのまま踏まえた話だったので、
一年前のことを思い出しながら見た人も多かったのではないでしょうか。

先週の話が、一期の修学旅行の話を思い出させるような話であったことは、
今回の話の準備を視聴者に促すためであったとも取れるように思います。

また、あかりが過去で助力を求めて未来から来たことを暴露した三人は、
一期の二話までに登場しておらず、かつあかりとの関係が、
ある程度深い人物という条件に基づくと、あの三人で最大でした。

千鶴が出てもいいかなとも思ったのですが、原作を確認すると、
彼女とあかりは意外なことにほぼ出会っていないんですね。
アニメでも同じだったか、かなりうろ覚えですが、仮に二人が出会ったとしたら、
千鶴はあかりに姉のような雰囲気を感じ取りそうであると思います。

さて、次回は本当に最終回ということで、どのようなものになるのか楽しみです。
予告を見る限り、いつも通りな内容に戻る気がしますが、何かあるのでしょうか。

テーマ:ゆるゆり
ジャンル:アニメ・コミック

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よろしくお願いいたします。

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