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繭にとっての「約束」エンドについての一考 ――必ずしも最良ではない、不確定なはじまりを描くもの

2016.04.10 14:59|零シリーズ
今回は、零シリーズのうちの『眞紅の蝶』について考えていきます。
この作品においては、主に五つのエンディングが用意されています。
「紅い蝶」、「虚」、「約束」、「陰祭」、「凍蝶」エンドの五つです。
今回は、この中でも澪にとって明らかに最良のエンドである「約束」エンドについて、
繭にとってどのようなものであるかという視点で改めて考えてみたいと思います。
これにより、単なるハッピーエンドではない「約束」エンドの側面を、
浮き彫りにすることができるのではないかと考えます。
けだし、他のエンドと比較して、「約束」エンドは極めて特異な位置にあります。
それだけは、二人の行く末を確定させる類のエンドではなかったのです。
以下では、主にこの側面について比較しつつ論じていくつもりです。
もしよろしければ、ゲームの内容を思い出しつつ、お付き合いいただけると幸いです。

それでは、「約束」エンドについて考えていきましょう。
「約束」エンドは、澪にとっては最良のエンドですが、
繭にとってはそれだけでは最良のエンドではないと考えられます。
それは、澪と繭の間で約束が結び直されるだけに過ぎず、
二人が後年一緒に死ぬ時になって初めて、
繭にとってもそれがハッピーエンドとして確定されるのではないでしょうか。

繭にとっては、「一つになる」こと、あるいは「一緒にいる」ことが、
撤回されずに確定される「紅い蝶」、「陰祭」エンドや、
ほぼ確定される「虚」エンドこそ、至上のハッピーエンドだったと思います。
「約束」エンドは繭にとっては始まりでしかなく、
「一緒にいること」が確定される二人の死の間際にこそ、
ハッピーエンドが獲得されると考えられます。

しかし、その私の繭の解釈には、「澪に一人で無事に逃げ帰る」ことを勧めた、
澪を思いやる姉としての繭を看過しているとの批判を当てられるかも知れません。
ああいう場面に現れていた姉としての繭にとっては、
二人で帰ることができた「約束」エンドが紛うことなきハッピーエンドであったと言えるでしょう。

作中において繭は、一つの強固な想いを持つ者として描写されておらず、
様々な、場合によっては相互に対立するような想いを、
同時に複雑に抱え込んでいる者として描写されているので、
繭にとっての「約束」エンドについても一概には評価できないのです。
繭は、それを最良と捉えられそうであり、かつ、捉えられなそうでもある。

ただ眞紅の蝶においては、繭が自分だけ澪に対して置いてかれ得る、
マイナス状態であるという意識を持ってもいたのは確かです。
そして、この不安定状態が唯一解消されるエンドは、
澪が視力を失う「虚」エンドに他ならなかったと思います。
繰り返しになりますが、「約束」エンドは、繭の心理的な不安定状態を必ずしも解消しないので、
その意味では彼女にとって必ずしも最良の選択ではないのです。

だからこそ、「約束」エンドの繭は、微妙な表情で明ける夜を見送るのではないでしょうか。
繭にとっては、自身の足の被傷に対応する澪の被傷によって、
「ずっと一緒にいる」ことが「確定」される「虚」、「凍蝶」エンドと比較して、
澪と繭の間の約束が結び直されたに過ぎず、
相対的に繭の最良とは言えないからこそ微妙な表情をしているのではないかと思います。

そういう感覚を抱きつつ、「陰祭」エンドについて考えてみましょう。
作中の繭の基本的な二つの希望は、①澪と一つになること(紅い蝶)と、
②澪とずっと一緒にいられる保証を得る(虚、凍蝶)ことであり、
澪の最大の希望は、繭と一緒にいられる(約束)ことであるので、
一緒に死ぬという「陰祭」エンドの結論は、
二人の希望が両立されているエンドであると言えると思います。


考えてみると「陰祭」エンドは、「約束」エンドの向こう側を見せてくれたとも思うのです。
仮に生涯にわたり約束が果たされて、繭と澪がともに死ぬことができるのだとしたら、
そのときにこそ初めて二人(特に繭)は、
「陰祭」エンドの二人のように安らかな表情で眠り救われるはずです。
その意味では、「約束」エンドは、今後のハッピーエンドに続き得るエンドであり、
「陰祭」エンドは、その今後のハッピーエンドを仄めかすようなエンドです。

実際、陰祭エンドにおける繭の幸福そうな姿は、
最後まで澪と一緒にいられたという「確定」の事実によると解釈でき、
その点から見ると、「約束」エンドは澪にとっては最良のエンドですが、
繭にとっては終わりでなくはじまりに過ぎず、
その後二人で死ぬ時にこそ最良のエンドになるのだと思います。

さて、ここまでは、「約束」エンドのいわば「不確定性」を取り上げ、
それゆえに繭にとっては最良ではないのではないかということを論じてきましたが、
それでは何故、繭はその不確定な約束を目下受け入れることができたのかを考えてみましょう。

繭にとって、「澪とずっと一緒にいる」ということは不可能に近いからこそ、「一つになる」(紅い蝶)か、
「ずっと一緒にいられる保証(確定)を得る」(虚、凍蝶、陰祭)を望むに至ったと解釈できますが、
そうすると「約束」エンドで、繭が一度は信じられなくなった約束に、
何故回帰できたかということが問題になります。

それに関しては、けだし繭が、最後までずっと意志を同じくして、
遂に悲願を達成した幸せな紗重と八重を実際に見たためです。

だから、澪の「私たちは一つになれないけれど」、
「もうこの手を離さない」という約束を再び信じることができたのではないでしょうか。
紗重と八重が、それは達成できるのだということを繭に実証したのです。
そう考えると、「約束」エンドは、他のエンドのように二人が一緒にい続けることを確定し、
また十分に担保しないけれども、い続けることを繭も夢見ることはできるような、
それだけの希望に満ちたエンドでもあると考えることができるのだと思います。

結論として、「約束」エンドは、澪と一緒にい続けることを確定しないという意味で、
繭にとっては必ずしも最良のエンドではないと言えます。
澪と一緒にい続けることを確定し、または高度に保証する、
他の四つのエンドに対して、「約束」エンドだけは「不確定」なものなのです。
それは、澪と繭の結び直された約束の「はじまり」を描いたに過ぎません。
単なるハッピーエンドではない、そうした側面を見出せるのではないでしょうか。



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   零シリーズの底に残る「儀式の原因」の謎 ――説明し得ない偉大な所与

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   朔夜が救われず止められる理由 (零~月蝕の仮面~)
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テーマ:零シリーズ
ジャンル:ゲーム

零シリーズの底に残る「儀式の原因」の謎 ――説明し得ない偉大な所与

2015.01.18 17:02|零シリーズ
零 ~濡鴉ノ巫女~零 ~濡鴉ノ巫女~
(2014/09/27)
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今回は、これまでの零シリーズ全体を俯瞰して、その特徴について考えます。
零シリーズは、既に人の住んでいた或る土地が壊滅していて、
そこに主人公たちが紛れ込んでしまうところから始まります。
そして、この壊滅を引き起こした悲劇と、その原因が作中で語られていきます。
これは、零シリーズに共通する物語の型と言えるでしょう。
ただし、この型は零シリーズの持つ一つの特徴に過ぎないと思います。
悲劇に焦点が当たるからこそ、隠れてしまい得るもう一つの特徴があります。
それは、作中で悲劇が説明された後に、理不尽な謎が残されているということです。
以下では、この点について私見を述べてみたいと思います。

それでは、零シリーズの底に見出せる理不尽な謎に注目してみましょう。
零シリーズの全作品において共通なのは、その「悲劇」には人が関連していますが、
その人的な要因を全て取っ払ったところにも、悲劇の源が残るということです。
つまり、零シリーズで執り行われる「儀式」は、人間の「迷信」に基づくのではありませんでした。
あるいは、湧いて出た「狂気」に基づくものでもない。
それは、その土地が元々現世と隠世の境にあるような土地柄であるために、
人の理の範囲外より不可避なものとして要請されてきたものであったのです。
凄惨な儀式は、当主たちの迷信に基づくものではなく、
その土地が本当に必要とするものであったというのが零シリーズの特徴と言えます。

悲劇の原因と違って儀式の原因については、もっともな理由を付けて説明されません。
『眞紅の蝶』で言えば、何故村が永遠の夜に閉ざされたのかということは、
作中において説明されますが、何故村に虚があったのかということは説明されません。
それは、ただそこにありました。
『濡鴉の巫女』で言えば、何故日上山に巫女の霊が徘徊するようになったかということは、
作中において説明されていますが、何故黒き澤があったのかということは説明されません。
それは、おそらくずっと昔から、ただそこにあったのです。
何故この地域には黄泉と繋がる場所があって、
何故それに関連する儀式があるのかということ。

それは、人間の領域では説明できないものとして登場しています。
そして思うに、零の描く本当のホラーは、ここにこそ見出せるのです。

すなわち、人間が「迷信に基づき」行った何らかの禁忌の儀式や、
怪物を生み出す非人道的な実験などが基となっている、
全てを人間の領域で説明できてしまうようなホラーを零は描きません。
人知の範疇に属さない、理不尽なコミットを内に含んでいるのが零であると言えます。
最終的に怖い人間が怖いのではありません。
もちろんそれも要素としてはあるのですが、最終的に恐怖の源泉として出会うのは、
人間の論理の外の存在である、人間が係らざるを得ないような「何か」です。

何故この集団がこのような悲惨な状態に陥ってしまったのかと言うことに関しては、
零においても説明しています、というより、それを中心に明かしていくのが零とも言えます。
この「悲劇」の原因については人間の範疇です。
過去これがあったから、今このような惨状である。
しかし、この論理から逸脱したところに残るものがある。
それが、何故この土地ではそのような儀式が行われる必要があったのかということです。

それは、零シリーズが抱える「偉大な所与」に他なりません。
過去にその土地の人が何らかの罪を犯してしまって、
その報いとして惨い儀式を必要とするというような因果応報、
あるいは原罪の論理に基づくものではありません。
そういったところから逸脱した、理由なく、ただそこにあるものなのです。
そうした理不尽にそこに位置するもの、人間の領域ならざるものが、
零シリーズをクリアしたときに、どの作品においても共通に底に見える恐怖の源なのです。



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テーマ:零シリーズ
ジャンル:ゲーム

誰かに「残される」のではなく、私が「残る」ということ

2014.10.19 17:47|零シリーズ
零 ~濡鴉ノ巫女~零 ~濡鴉ノ巫女~
(2014/09/27)
Nintendo Wii U

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今回は、先日発売しました『零』の最新作について考えていきます。
以下、物語についての言及が含まれますので、これからプレイされる方はご注意ください。
もしよろしければ、少々お付き合いいただければ幸いです。

それでは、『零~濡鴉の巫女~』について考えていきましょう。
今回は、夕莉に関する次の問題に焦点を当てていこうと思います。
すなわち、夕莉は交通事故でただ一人「残された」人物でありながら、
何故そのことについて、作中でほとんど言及がないのかという問題です。
ここは、これまでの『零』、特に刺青の聲との対比の中で、
極めて特異に映る部分であると思います。
家族を事故で亡くしたということは、夕莉の物語にほとんど絡んできていません。
このことが意味するものとは何であったのでしょうか。
今回は、このようなことについて掘り下げて考えてみたいと思います。

まずは、彼女の物語を簡単に確認いたします。
濡鴉の巫女は、交通事故で家族を亡くしてから、
「ありえないもの」を見てしまうようになった夕莉が主人公の一人として、
自分を救ってくれた恩人である密花を探すというのが物語の軸になっています。
夕莉は最終的に密花を発見して連れ戻すことに成功しますが、
日上山と深く関わり過ぎた彼女は山に惹き寄せられ、
自分と似た境遇の濡鴉の巫女・逢瀬の前で一つの決断をします。

行くのか残るのか。

逢瀬の二重の想いのいずれかを読み取った夕莉は、
彼女とともに堕ちていき、又は密花とともに現世に居残ることになるのです。
これが夕莉の物語の、非常に簡潔な流れと言えましょう。
彼女については、人物についてのメモに次の記述があります。

交通事故で家族を亡くし、自分一人だけが生き残った時から、
死者の姿や、他人の記憶・想いなど「ありえないもの」が見えるようになった。
その後、普通の生活に戻ろうと努めたが、
周囲や医師にはその症状がショックによる一時的なものとしか理解されず、
次第に孤立していった。 (「人物:不来方夕莉 二」)


重要なのは、夕莉は家族の中で唯一現世に「残された」人物であるということです。
「交通事故で家族を亡くし、自分一人だけが生き残った」という部分は、
刺青の聲における怜を思い出させます。
怜の物語もまた、交通事故で優雨を亡くしたところから始まったのでした。

しかし、夕莉が特徴的なのは、彼女は「残された」人物でありながら、
このことが全然強調されていないということです。
すなわち、亡くした優雨への気持ちが強調されていた怜とは異なり、
夕莉の場合は、亡くした家族への気持ちが全く強調されていないのです。

夕莉は家族を事故で失ったということは上述のとおり明らかになっていますが、
家族との関係については物語中でほとんどノータッチであり、よく分かりません。
これについては物語中でほぼ省略されていると言えましょう。

このような一見奇妙な省略は、月蝕の仮面でも行われていたところです。
すなわち、月蝕の仮面においては、流歌と、
円香たちの間に関わりがあったのは明らかになっているわけですが、
ここについて物語中ではほとんどノータッチでした。
この理由については、それ以上に強調すべき事柄があったためと整理できます。
流歌の場合、それは「両親との関係」でした。

つまり、流歌が円歌たちと面識を持っているにもかかわらず、
海咲と円香とは対照的に、物語中でほとんど関わりを持たないのは、
彼女の物語の主軸が両親との関係、
特に父親の記憶という部分にあったためであったと考えられます。
流歌の物語はあくまで親子の物語であったために、
円香たちとの関係まで言及がされなかったのです。

同じように夕莉が家族のことが語られず省略されている点に、
夕莉の物語が「残された」こととは別にテーマを持つものであることを見出せます。
現に自殺に際しても、「残された」ことはほぼ言及されていないのです。

夕莉の自殺未遂の直接の原因は、死の側が見えることにより抱かれた、
自分がいるべきなのはこちらではないという意識であって(「夕莉のノート 二」)、
例えば、家族を失った罪悪感が原因という形では語られていません。
先に引用した「人物:不来方夕莉 二」から分かるように、
夕莉は事故にあって残された時点では、
「普通の生活に戻ろう」とすることができていました。
夕莉の自殺の直接の契機は、家族に残されたことではなく、
「死の風景」に触れ続けたことであったことが分かります。

つまり、夕莉の自殺には家族に「残された」ということがほとんど絡んでいません。
夕莉の物語においては、交通事故で家族に残されたことよりも、
交通事故を契機にありえないものが見えるようになったことが重要で、
そのことが一貫して強調されているのです(「不来方夕莉:死の風景」)。


とは言え、「残される」ことが全く強調されていないわけではありません。
九ノ雫で深羽に連れ戻された後、夕莉は彼女との会話の中で次のように語っています。

「どうしてここに?」
「私も…見えるから…多分、あなたより
 人と違うものがみえるのが怖い?
 私には何もない だから、何も怖くない」
…いえ、あなたも怖いはずよ 一人で残されるのが」 (九ノ雫)


ここで夕莉は「あなた”も”」と言っており、
自分も一人で残されるのが怖いことを暗に認めています。
ここと、密花を取り返そうとする夕莉の姿を合わせて鑑みると、
夕莉は密花との関係においては、「残される」ことを考えているのです。

しかし、夕莉は物語中で確実に密花を助けて早々に連れ戻すことができます。
「残される」可能性を恐れながらも、実際に「残される」ことはなかったのです。
終ノ雫で問題となるのは、あくまで夕莉自身がどう決断するかということで、
既に誰かに「残される」ということではなくなっていました。
以上を踏まえると、夕莉の物語で「残される」ということは、
全く物語中で取り上げられないわけではありませんが、
やはり中心的なテーマではなかったと言えるでしょう。
これは『零』作品の中においては、極めて特徴的な点であると思います。

というのも、『零』はどの作品においても、「残される」ということを強く描いてきました。
真冬に遺された深紅、繭に遺された澪、優雨に遺された怜。
月蝕の仮面においては、海咲が朔夜や円香に遺されました。
あるいは、流歌も、その顔をやっと思い出したまさにその瞬間に、
父親に置いていかれてしまうのです。
このように『零』はシリーズを通して、「残される」ということを描いてきました。

この流れに従うのであれば、主人公はむしろ密花の方であったのではないでしょうか。
現に最後に残されるか否かというぎりぎりのところに立たされるのは彼女であるためです。
それが濡鴉の巫女では、夕莉の方が主人公で、自分が行くのか残るのかを決めるのです。
ここが、濡鴉の巫女という作品が、これまでの作品と一線を画するところだと思います。
誰かに「残される」のでなく、私が「残る」ということを描く。

結論として、これまでの作品とは対照的に、
夕莉の物語は「残された」を主なテーマとしていません。
夕莉の物語は、むしろ「残る」ということをテーマとしています。
他律的な「残される」でない、自律的な「残る」。
自分で行くのか残るのかを決めることが、テーマであること。
このことが、夕莉は交通事故で「残された」にもかかわらず、
それについて作中でほとんど言及がないことから分かるのではないでしょうか。



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テーマ:零シリーズ
ジャンル:ゲーム

真冬が霧絵のところに残ることの意味

2014.07.13 10:36|零シリーズ
零~zero~零~zero~
(2001/12/13)
PlayStation2

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今回は、エンディングの後、再び災厄は起こり得ないのかという、
零シリーズの全作品に通じる問題を取り上げていきます。
そしてその視点から、無印で真冬が霧絵と共に残ることの意味を考えていくつもりです。
もうすぐ新作の映画も公開となる予定ですが、その前に原点に立ち返って、
特に無印について改めて考えてみたいと思います。
もしよろしければ、各作品を振り返りつつ、お付き合いください。



○真冬が霧絵のところに残ることの意味:災厄の再発生の可能性から


零シリーズの根本的な疑問として、災厄の元となる門を封印して終わるのはいいとして、
「それがいつか再び解けてしまうのではないか」というものがあると思います。
実際、これまで儀式は一度で済まず、門が疼く度に何度も繰り返してきたことが、
各作品の作中では明示されています。

ということは、エンディングの末に閉じられた門が、
そのままずっと大人しくしているという保証は全くないと言えます。
物語の末に円満に儀式が履行されたとして、
果たしてそれがどこまで効力を持つのかということは触れられていません。
ここは零シリーズの一つの考えどころであると思います。

この問題は、無印において特に鋭く刺さってきます。
というのも、災厄が人の「病」という形で発生する月蝕は、島に人がいなくなった時点で、
また、近しい人を亡くした人たちの痛みを引き受ける刺青は、
引き受けさせる風習が途絶えた時点で、惨劇が再発生しないと確信できるためです。
この二つの作品においては、その場所に人がいることが、
災厄の発生には必要不可欠でした。

それゆえに、人がいなくなったことで問題は起こり得ないと考えられます。

しかし、ただその場所が理不尽に儀式を必要とする、
黄泉に近い場所であった無印と紅い蝶においては、
その場所が再び騒ぎ出し問題を起こすことは有り得ます。
刺青や月蝕のように、そこに住んでいた人がいなくなったことによって、
当然に円満な解決が果たされるわけではないのです。

それでも紅い蝶の場合は、村がエンディングの後に水没しています。
ゆえに虚が残り続けるとしても、それが人に影響を及ぼす可能性は極小であると言えるでしょう。
よって、ただ無印において、エンディング後の再発が大きな問題で有り得るのです。

というのも零無印においては、氷室邸の付近に「ふもとの村」が存在し、
そこでは氷室邸に近付かないようにという風にはなっているものの、
いつ誰かが巻き込まれてもおかしくないということが、
真冬のメモの内容等によって確認されています。

 もし、このメモを読んだのなら、協力して欲しい。

 氷室家の呪いの元凶は、霧絵という女性だ。
 ある儀式で生贄になった彼女の悲しい記憶が、
 黄泉からあふれだした瘴気にさらされ、全てを呪う存在となってしまったようだ。

 彼女はどうやら、想いをよせていた男性の面影を私に重ねているらしい。
 彼女がふれた時、そのことがわかった…

 私はこのまま、彼女に会うつもりだ。

 そうしなければ、この屋敷は犠牲者を出しつづけるだろう。


ここでは氷室邸の場所自体は、
犠牲者を出し続けることができる位置にあることが提示されています。
仮に再び門が開けば、誰もその影響を受けないとは言い切れないのです。

以上のように考えていくと、深紅は真冬と共に帰ることはできませんでしたが、
少なくとも氷室邸の問題については解決されたという、
一般的であろう理解は、それだけでは不十分なのではないかと考えられます。
問題は当面解決されましたが、今後についてはどうなるのか分からないのです。

では、結局氷室邸の問題も解決されず、エンディングの光景も、
当面の平穏の奪還であったとしか考えられないのかというと、そういうわけではありません。
なぜなら無印は、霧絵の目を覚まさせて、これまでに何度も繰り返してきたように、
彼女一人に門を閉じる役目を託したというわけではなかったためです。

無印は、かつて失敗した儀式を再現するだけでなくて、
その「儀式の先」をいっているのです。
つまり、これまでは一人で巫女が門を封じていましたが、
今回は一人ではなく、真冬が残って傍にいるのです。
ここに、門が再び開かない可能性を見つけることができます。

確かに、巫女が一人で門を封じ続けるのであれば限界があり、
これまでと同じように、やがて封印が解けてしまうかも知れません。
しかし、二人であればどうかということについては分かりません。
それはこれまでにやったことがないのです。
これまではむしろ、現世に執着してしまうという理由で、
巫女が誰かと共にあることは徹底的に否定してきたのでした。
そうしたこれまでとの剥離が、真冬が残ったからこそ生まれています。

結論として、再び惨劇が起こってしまう可能性は、
無印において特に問題になると考えられます。
しかし無印においては、これまでの儀式と異なる点、すなわち、
真冬が霧絵と共にあるという点が一条の光となっていると考えられます。

それは、巫女が「未来永劫」門を閉じ続けるという、
これまでの儀式の度に達成できず、
そもそも目標にすらされなかった過酷な大目標に対する、
ただ一つの希望になっているのです。
逆に言えば、真冬がそれでも霧絵のもとに残ったことには、
そのような意味を見出すことができると言えるでしょう。



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朔夜が救われず、止められる理由 (零-月蝕の仮面-)

2014.05.11 16:39|零シリーズ
零 ~月蝕の仮面~零 ~月蝕の仮面~
(2008/07/31)
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今回は、『零-月蝕の仮面-』のエンディングについて考えてみたいと思います。
けだし、零シリーズの中で月蝕の仮面だけは、最後に対峙する相手を救う形を取りません。
すなわち、朔夜は主人公たちに「救われる」のではなく、単に「止められる」のです。
ここは月蝕の仮面という作品の特異な点と言える気がします。
まずは歴代の作品のエンディングを振り返りつつ、このことについて説明していきます。



○『零-月蝕の仮面-』:朔夜が救われず、止められる理由


まずは、第一作目の霧絵の場合を振り返ってみましょう。
この作品では、彼女の想い人に似ていた真冬が霧絵とともに残ることにします。
その場面において、真冬が霧絵を「救う」という形式が提示されています。

「深紅、やっぱり僕は行かなくては」
「何を言ってるの、兄さん!?」
「僕にしかできないことがあるんだ」(中略)

「深紅、霧絵に導かれてる間、ずっと彼女の悲鳴が聞こえていたんだ。
 助けてと。縄の巫女として門を封じる宿命。
 想う人とともにいたいという気持ち。
 その狭間で、彼女は引き裂かれていた。
 それが禍刻を招いてしまった。
 瘴気を浴びた彼女の霊は、自分と同じ苦しみを与えるだけの存在になっていた。
 瘴気から解放された今、彼女は縄の巫女の役目を果たそうとしている。
 彼女の魂は、未来永劫、この門を封じなければならないんだ。
 たった一人で。途切れることのない苦しみ。
 その苦しみが少しでも軽くなるのなら、彼女の望みが少しでも叶えられれば、
 僕は、彼女の傍で、少しでも力になりたいんだ。深紅……」
「兄さん……。ああ。魂たちが、還っていく」
「深紅、どうしてここに導かれたのか、今なら分かる気がする。
 僕はこの運命を、受け入れようと思う。深紅、今までありがとう」

――あの日から、私が、あり得ないものを見ることはなくなったのです。 (零)


霧絵がそれで実際に救われるのかという部分は明らかではありませんが、
ここで霧絵は止められるだけではないことがはっきりと示されています。
『零』は瘴気を浴びた霧絵を深紅が止めるだけでなく、
真冬が救いもする物語として現れてくるのです。

八重が紗重のところに帰ってくる『零-紅い蝶-』でも、同じことが言えるでしょう。
少なくとも紅い蝶エンドにおいては、紗重を救う側面が大きいと考えられます。
紗重は、儀式のやり直しで「止められる」というより「救われる」のです。
そして、『零-刺青の聲-』についても、零華は止められるだけではありません。

もう、目を閉じていいから……

「ゆきなさよ はたて ゆきなさよ はたて
 ゆきぶね ゆらして はたて
 このきし ひらいて はたて
 ろうろう みわたり かのきしに
 ゆきなさよ はたて ゆきなさよ はたて」 (零-刺青の聲-)


怜が目を閉じさせることで、確かに零華は救われるのです。
このように、零は最後に対峙する相手を救う物語であったと言えます。
それぞれの作品で、真冬が霧絵を、八重が紗重を、
怜が零華を救うという形になっていることが分かります。

然るに、『零-月蝕の仮面-』においては事情が明らかに異なっています。
上述の引用部に表れているような、「救い」の形式が全く取られていないのです。
朔夜は単に、止められて向こうに還っていくことになります。
彼女が「救われる」というような描かれ方がされていません。
この月蝕の仮面の特異性というのはどこからくるのでしょうか。

けだしこれは、朔夜を救う「資格」を持つ人物が既にいなかったというところから生じています。
無印は想い人の面影を有する真冬が、蝶は紗重が待ち続けていた八重が、
聲は零華の悲しみを十分に知った怜がいましたが、
月蝕では朔夜を救えるような人物が既にいなかったのではないでしょうか。
強いていえば、朔夜と深い関係を持つ海咲であれば救えたかも知れませんが、
彼女は子どもの頃より朔夜に「救われる」側であって、
その関係は海咲が戻ってきた時点においても変わってはいませんでした。
つまり、朔夜が止められたまさにそのとき、海咲は彼女に閉じ込められていたのです。

おそらく朔夜を「救う」資格があったのは、他の誰でもない耀だけでした。
その耀が絶望し、朔夜とともに全てが咲くのを受け入れてしまったからこそ、
朔夜はよもや救われず、単に止められるしかなかったのではないでしょうか。

耀の諦念は、長四郎との「鬼ごっこ」を止めにするところから推察できます。

「霧島か… 鬼ごっこも… 結構面白かったな でも… もう終わりだ」(中略)

「もう鬼ごっこはお仕舞いだ 全部無くなるんだ 俺も あんたも」 (零-月蝕の仮面-)

 
長四郎が仮面の欠片を流歌に渡した後からの言葉です。
既に「全部無くなる」ということを受け入れていることが分かります。
彼は結局朔夜を救うことができず、そのことについて諦めてしまった。
だからこそ、耀の思惑に対抗するものとしての長四郎が、朔夜を「止める」ことになります。
長四郎には朔夜を救う資格を持つほどの、彼女との縁は持ってはいません。
ただし、以前の記事で述べたように、彼には灰原家を止める資格はあります。

ゆえに、朔夜は「救われる」のではなく「止められる」のだと思います。
月蝕の仮面は儀式の失敗の後の物語ですが、
その失敗の際に彼女の「救われる物語」は完結しているのです。
耀の失敗と絶望という、最悪の結果でもって。
だからこそ、主人公たちがやって来た時点においては、
朔夜が長四郎たちによって「止められる物語」だけが進行します。
月蝕の仮面はこれまでの作品とは異なり、
救うべき者が、救うことを諦めた後の物語でした。
そこが月蝕の仮面の結末の特異性を生んでいると考えられます。



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  主人公三人の役割と長四郎が朔夜を止める理由

   月蝕の仮面のラストで、何故長四郎が朔夜を止める役を引き受けるのかを考えました。


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天秤と申します。
アニメや漫画など、好きなものについて考えたことを書き込みます。
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