風浦可符香と終盤の展開についての私見 (最終巻発売記念)
ついにコミックス30巻が発売されました。
さよなら絶望先生(30)<完> (講談社コミックス) (2012/08/17) 久米田 康治 商品詳細を見る |
私は発売日仕事でしたので、最寄の本屋で帰りに買おうと寄ったのですが、
何故かそこには売っておらず、わざわざ電車で大きな本屋まで行って、
ようやく手に取った次第です。
帰りの電車の中でひとまず30X話を読みながら、
言葉にならない声をあげて、にやにやする様はさしずめ変な人に見えたでしょう。
「わあ」とか「うう」とか言っていたと思います。
家に帰って、最後に紙ブログを読み、
本当にこれで終わりなのだということをはっきりと認識いたしました。
非常に最終話が綺麗に終わっていただけに、
そして30X話が非常に「らしい」終わり方だっただけに、
一層寂しさが込み上げて来ました。
しかし、作品の終わりは、作品を考えるスタート地点でもあります。
今回私は、これまでの関連記事も踏まえて、
私が連載中からずっと向き合ってきたテーマ、すなわち、
風浦可符香という少女について、論じてみようと思います。
風浦可符香とはどのように特徴づけられるのか。
風浦可符香は、物語の中でどのような立場であったのか。
そして、その視座から見ると、『さよなら絶望先生』という作品の最後を、
どのように読むことができるのか。
以上の問いに対する答えを自分なりに掲げられればいいと思います。
七年間の感謝を込めて。
相変わらず「ん、まあ・・・・」上等です。
それでは、もしよろしければお付き合いください。
①風浦可符香を特徴付けるもの:「ポジティブ思考」と「作り手のイメージ」
まずは、作品を全体的に見て、風浦可符香という少女を考えて見ましょう。
彼女はどのような特徴を付与されているのでしょうか。
これに答えるのは容易いことではありません。
30巻にも及ぶ長期連載の中で、彼女は様々な様相を我々に呈してきました。
その全てを洗い、そこから特徴を見出すことは困難でしょう。
しかし、大まかに捉えるのならば不可能ではないと思います。
今回は、「名前」から特徴と思われるものの二つを提示しようと思います。
風浦可符香は、ご存じのとおり、赤木杏だった少女でもありました。
「赤木杏」と、「風浦可符香」という二つの名前。
ここに、彼女の特徴が明確に表れているように思います。
第一は、「赤毛のアン」から導かれる、「圧倒的なポジティブ思考」です。
これは指摘するまでもないでしょう。
特に初期に色濃く出たこの特徴は、誰にとっても絶望的に見える状況すら、
ポジティブに解釈してしまう人物として彼女を作中に描き出しました。
首吊りですらポジティブに捉える彼女の姿は、どこか人間の思考を超えており、
非論理的、というより超論理的ですらあったと言うことができると思います。
けだし、彼女が「電波」や「信仰」に至るのはここにおいてです。
この性質は、シャフトによるアニメ一期でかなり重視されていたように思います。
それを象徴するのが、可符香(と芽留)のキャラクターソングである『神様との約束』です。
この歌はいわゆる電波ソングと呼び得るような内容であり、
彼女が超論理的なポジティブ思考の結果として、
電波に至ったり、信仰に至ったりする面を強調するものと言うことができます。
一期は初めの頃の話を中心に扱っていたので、これは妥当な内容とも言えるのですが、
私の同輩の中には、可符香の「黒い」側面が軽視されていると当時憤る人もいました。
この可符香の「黒い」というイメージ。
それは彼女の持つ第二の特徴の方に関連するように思います。
その第二の特徴とは、「フランツ・カフカ」から導かれる「作り手のイメージ」です。
フランツ・カフカという小説家のような、
「作り手」として作中に顕現しているということを指します。
可符香は、実際にこの「作り手のイメージ」を有しています。
そのことを象徴するのが、「風浦可符香」というペンネームです。
300話において様々な事実が明らかになった今においては、
「PN」が、ペンネームだけを示す記号ではないことが分かっているわけですが、
可符香は実際に創作者として作中に現れています。
尻尾のついたサインを使って、漫画を描くなどしているわけです。
また、300話の命と刑事の会話を参照することができます。
実際彼女と物理的接触をしたものや
彼女が書き記した文章や絵画が残っている(300話)
可符香が何らかの作品の作者として作中に確かに存在したことを、
短いものではありますが、端的にこの一文が示していると言えます。
何らかの作品を書く作者であるということに代表される、
この「作り手のイメージ」が、作中に現れる可符香の様相に結びつきます。
先程申し上げた「黒い」というイメージも、ここに結び付きます。
彼女は作中で、まるで黒幕のような役割を演じることがあります。
時に彼女は、まるで物語を外部から操っているかのように見えるのです。
事実、彼女が唆すことで、望や絶望少女たちが酷い目に遭うことは少なくありませんでした。
また、彼女はそのようにコミットしておきながら、
彼女自身が何らかの被害者になるということはほとんどありません。
特に千里が暴走した場合、クラスメイトの多くは被害を受けますが、
可符香が被害を受けることは極端に少なくなっています。
可符香が物語に登場しながら、その外部から物語を作る、あるいは操るという点に、
「作り手のイメージ」を見出すことができると言えないでしょうか。
結論として、作中に登場する可符香は二つの要素で特徴づけられています。
「ポジティブ思考」と「作り手のイメージ」です。
それぞれ、赤木杏と風浦可符香という二つの名前から導かれる特徴でした。
特に、可符香に伴う「作り手のイメージ」。
これは彼女を理解する上で重要な観点であるように私には思えます。
物語の内部に登場しながら、その作り手のように外から作る、操るような役割を担うということ。
それは彼女が物語に内在していながら、外在してもいるということです。
換言すれば、物語に登場しているのにもかかわらず、可符香は「外部性」を持っている。
この奇妙な特徴こそ、最終話付近の物語の核心に繋がってくる部分であると思うのです。
②物語終盤の三つの論点:「死者」、「卒業」、そして「可符香」
作品終盤における一連の暴露の中で、様々なことが明らかにされます。
絶望少女たちとは何であったのか。
風浦可符香とは何であったのか。
3のへ(3.1のへ)からの卒業は何を意味していたのか。
その他、多くの真実が一挙に語られていきました。
その終盤の語りの中で、特に注意しなければならないことが三つあるように思います。
第一に、死者はあくまで物語の外部の存在とされていることです。
作中で、死者は成仏すべきものとして描かれています。
死者には死者の赴く場所があって、この世に留まるべきではないということです。
縁の言葉から引用します。
死後婚は離縁なんだよ
浮かばれぬ魂がこの世との縁を絶つ離縁なんだよ(第297話)
また、絶望少女たちによっても以下のように語られています。
死後結婚と同様
卒業できずに死んでいった魂を供養する儀式・・死後卒業
私達は彼女達の依り代 巫やイタコのような存在
彼女達を成仏させるため代わりに学園生活を送っていた(第299話)
死んでいった魂は供養され、成仏すべきであるということが暗黙のうちに語られています。
つまり、『さよなら絶望先生』という作品が描いているのが主に現世である以上、
そこに(ネタとしてではないのであれば)死者が存在すべきではありません。
本来そこにいるべきではない、現世の「外部」の存在として、死者は作中に現れています。
現世の「外部」の存在であるということは、その現世を描く対象としている、
『さよなら絶望先生』という物語の「外部」の存在でもあると言えます。
死者は、本来『さよなら絶望先生』という作品の「外部」に存在する。
ゆえに、作中に死者が登場するためには何らかの生者との関係が必要となります。
絶望少女たちと交が担うことになった「依り代」というのはその関係性の一つです。
生きる者を媒介として、死者は間接的に物語に現れることを許されます。
このことは、終盤に明らかにされることの中でも重要な事実の一つであると思います。
第二に、望のクラスからの卒業は、死者と生者を分離することを意味するということです。
望のクラスからの卒業は、同時にこの世からの「卒業」でもあります。
それは望自身の以下の言葉に特に明確に表れています。
・・・・・・現世からの卒業
未練があり漂っているヒロシくんの魂をこの世から成仏させてあげるのです
(第299話)
この後、交が依り代になってクラスメイトの一人になることからも分かるように、
望のクラスへの死者の入学が、生きる者との融合を契機とするのに対し、
卒業はその生きる者と死者の明確な分離(を行うことができること)が契機となります。
既に満足して生きる者との融合をやめ、成仏してもいいと思うこと。
それがおそらくただ一つの卒業の条件であるのだから、
卒業は生きる者と死んだ者の間の曖昧な状況を断じることであると言えます。
この結果として、死者は本来あるべき場所、すなわち現世の「外部」、
あるいは『さよなら絶望先生』という物語の「外部」に姿を消すことになります。
このことは絶望少女たちの様子を見れば分かることです。
それまでの彼女たちの行動は、死んだ少女のものであり、
かつ依り代となった生きている少女のものでもあるという位置付けでした。
しかし、卒業によって絶望少女たちの行動は、生きている彼女たちだけのものとなります。
そのことを象徴するのが、最終話における千里の台詞であると思います。
やっぱり、卒業だけだと、成仏できないと思うんです。
死後結婚もさせてあげないと。(最終話)
ここで、千里は死んだ方の少女の意志を推測して話しています。
「推測している」という点に分離を見ることができます。
彼女は卒業によって既に自分の「外部」にあるから、推測して話しているのです。
卒業によって生きる少女と、死んだ少女の間がはっきりと分離されていることが見て取れます。
厳密に表現を見るのであれば、縁は霊が成仏できたかを、
「証明のしようがない」(第300話)と語っており、
実際に卒業によって、成仏と分離が行われたかということに関しては、
かなり作中で曖昧にされていると言えます。
けれども、形式的に分離しているということは、
千里の上述の言葉から見て間違いないものであるように思います。
ハコの中に集められた、生と死の間で非常に曖昧な状況にある少女たち。
彼女たちが卒業によって、その曖昧な状況から明瞭に分離された状況へと、
移行していることが作中の表現から読み取れるように思います。
「卒業」は、死者と生者の交じり合った状況を打開するものです。
第三に、可符香も死者であり、物語から消失する運命にあるということです。
しかし、これにはすぐに異議が付されるかも知れません。
作中の表現を見ると、可符香に関しては生きる者であることが強調されているからです。
最も強くそのことが示されている智恵の台詞を例示しましょう。
陳腐な言い方かも知れませんが風浦カフカは
今も彼女達の中で生き続けているんです
実際有機体として(最終話)
彼女が臓器など全てを移植したことにより、
絶望少女たちの中で生き続けているということが強調されています。
ここが、他の死者たちと可符香を分ける契機になっています。
第30X話の展開も、可符香が生きていることを強調するようなものです。
しかし、可符香は赤木杏として一度死んでおり、
生きていると明言されるのは限定的な修飾語を伴う場合においてのみです。
彼女は「絶望少女の中で」生き続ける。
「あるイミ」生者(第30X話)。
その前には「死んでいるけれども」という言葉を置くことができます。
絶望少女たちの中で生きる可符香は、命を渡した少女でもあります(第300話)。
死んでいるから、望が責任を感じ得るのです(第30X話)。
けだし、この点は看過されてはならない。
風浦可符香は、生き続ける者でもあるけれども、死者である。
望が新たに「卒業」させるべき、死者であるヒロシに、
可符香と同様の「白い羽」が使われているところは象徴的です。
生者でもあり死者でもあるからこそ、彼女はクラスの一員足り得たと言えます。
死者でありながら、生者でもある。
この曖昧な状況こそ、望のクラスへの編入条件であり、
死者でありながら依り代とともにあることで生者でもある、
他の少女たちと可符香は似通っていると言えると思います。
もちろん、完全に一致するわけではありません。
確かに、作中で彼女が現世に未練を持っていたかは明言されず、
「あとがき」でこの世ならぬところにいたことが暗示されていることを考えると、
あるいは赤木杏という名前から由来する「ポジティブ思考」を考えると、
未練を持っていなかったのだろうと推察できる点では、
他の死者たちと可符香は区別されるべきではあります。
しかし、死者が生者に宿っているという点では類似性を持ちます。
作中で「作り手のイメージ」とともに表れてきた、
可符香の「外部性」とでも言えるようなものが、
今度は死者であることとの関連で表れてくることになります。
彼女は本来、現世の、そして物語の「外部」の存在であるということ。
「暗い闇の底」に存在するものであったということ(あとがき)。
そのために、彼女は「卒業」という生者と死者の分離の瞬間において、
やはり消失していく運命を背負っています。
しかし、その行程は可符香は未練があって現世に留まっているとは考えにくいので、
絶望少女たちが依り代として受け入れた少女たちとは異なり、
絶望少女たちの「気付き」、そして「同一化」によってなされることになります。
それまで疑いもなく可符香になっていたけれども、気付きによってなれなくなる。
それまで普通だったのに、他の少女が可符香に見えることに違和感を覚えるようになる。
この「気付き」によって、絶望少女たちは可符香を次第に演じられなくなり、
可符香から見れば出現することが困難になったと考えられます。
絶望少女たちの中で、卒業が近づくに連れ、自己と他者が分離し始めたのです。
それと同時に、ある意味それとは逆方向の運動も起こります。
絶望少女たちの中で、自己と他者が完全に同一化してしまうという運動です。
智恵の説明を引用しておきましょう。
やがて彼女たちはカフカさんの存在を忘れてしまうでしょうね
各自の思い出に置き換えて忘れてしまうでしょうね
でもそれは決してカフカさんが消えてしまうのではなく・・・・
融合し同化し彼女にとっての転生・・・・(最終話)
確かに、彼女は消滅することはないのでしょう。
しかし、気付くことで、あるいは同一化することで、
これまでのように物語の中に彼女が現れるということはなくなってしまいます。
物語の中からは間違いなく「消えてしまう」のです。
卒業を契機に、曖昧な状況は淘汰され、やはりしっかり分離されることになる。
終盤、可符香が物語にコミットすることがほとんどなくなってしまうのは確かなのです。
結論として、可符香は絶望少女たちに憑いていた少女たちとは異なるけれども、
死者ではあるために、卒業という分離のプロセスを通して、
やはり物語の「外部」へと完全に消失してしまいます。
「さよなら風浦カフカ」。
『さよなら絶望先生』とは、卒業によって死者である絶望少女たちと別れ、
そして可符香とも別れる、「分離への物語」だったのです。
最終話のラストシーンまでは。
③最終話のラストシーン:「許された可符香」と「マリアの円光」
可符香は死者であるからして、卒業を契機に現世から、
ないし物語の中から消滅していく運命にある。
『さよなら絶望先生』は、彼女との別れの物語である。
この結論は、お分かりの通り、最終話のラストシーンを全く説明していません。
消えたのであれば、何故再び望の前に顕現できたのか。
最後にこの問いに答えようと思います。
可符香は、物語の上での卒業によって、
確かに絶望少女の中に出現することはできなくなりました。
死者であるけれども同時に生者でもあるような、あのやり方で、
物語の中にコミットすることができなくなってしまったのです。
先に申し上げた通り、私の考えでは、卒業は死者と生者を分かつものであり、
それを絶望少女たちが経たこととほぼ同時に、結果的に可符香は消失しました。
具体的には、少女たちの中で生き続けている可符香は、
ほとんど絶望少女たちと同化してしまったことにより、消えました。
可符香は、死者でもあり生者でもあるものとして、
物語の中に顕現することができなくなってしまったのです。
以上が私の考えでした。
ゆえに私は、ラストシーンで現れた可符香は、
絶望少女たちの内の誰かの中に現れた彼女ではなく、
ただ単に可符香、杏だった少女本人として現れたものと考えています。
彼女の周りにこれまで以上に無数に舞う「白い羽」は示唆的です。
ヒロシにも使われていた、死者の徴としての「白い羽」。
これがここまで多く描かれているということの意味を考えると、
彼女は現世の住人ではない、死者、あるいは天使としての可符香です。
しかし、「外部」の存在である死者は、生者を媒介にしてしか、
現世に、そしてそれを描く『さよなら絶望先生』に登場できないと私は述べたはずです。
彼女が絶望少女の中に出現した可符香ではないというのなら、
どのような方法を以て作中に登場したというのでしょうか。
そしてそれはどのようにして論理的に正当化されるのでしょうか。
私は、望と可符香が出会った舞台である島の特異性を指摘することで、
最後のシーンの可符香が絶望少女たちの中に出現したものではないことを、
彼女が特例で「外部」からやってきたものであると説明しようと思います。
第30X話で「臓物島」という懐かしい名前を付けられることになる、
あの島のいわくについてはある人物によって語られることになります。
まずは、この語り手について述べておく必要があります。
久藤准です。
彼は作中で、可符香に非常に近いイメージを持って登場しています。
小説家フランツ・カフカの持つような、「作り手のイメージ」です。
准はたびたび「天才ストーリーテラー」として物語の内側に登場しました。
この「語り手」という立ち位置は、可符香の「作り手のイメージ」、
物語の内部に登場しながら、どこか同時に「外部」にあるというような、
イメージに通ずるところがあります。
彼は物語の中で、物語を伝えるのです。
この可符香ととても近い特徴を持つ少年によって、
自分の事情、そして島の事情が以下のように語られることになります。
僕は死んだ子とされてたんです 輸血を受けたから
僕は自殺も輸血も許されない教えの家に生まれたんです
この島は融合に寛容なんです
キリシタン神社やマリア観音なんてあるくらいですから
元々は隠れキリシタンのカモフラージュのためにあった神道や仏教の教えが
時を経て融合し独特の教えと変化し伝承され受け継がれてきたんです
隠れる必要のない現代においても原点の教えに回帰するわけでもなく
僕はここでは生きることを許されたんです(最終話)
准は一度輸血という融合によって、死んだことにされました。
それは現世にいることを認められなかったということです。
しかし、この島はそのような状況の彼を受け入れてくれました。
融合の事実があるからこそ、むしろ寛容に許し、
生きる者、つまり現世に在るものとして認めてくれたのです。
島で主流である信仰対象の神が、あるいは宗教がそうさせてくれたのでした。
そのため、准は首に十字架をかけています。
島に許されたからこそ、彼は十字架を首にかけるのだと思います。
そこに彼のどのような心情があったかは全く語られませんが、
「許されたから」それをかけているということは確実であると言えるでしょう。
許されたことを示す証としての十字架。
これが、ラストシーンの可符香の首にもかけられました。
ここから一つの仮説が生まれます。
すなわち、「彼女も島に許されたのではないか」という仮説です。
だから、彼女も自分から首に十字架をかけた。
それでは、可符香は何を島によって許されたのでしょう。
ここで注目するのは、准の抱えていた事情です。
これは、可符香とは異なるものの、可符香の状況に関連するものではあります。
この辺りは死の定義による問題でもあり、かつ作中で可符香、
というより杏の具体的な状況が明記されていないために、
言い方に何かしらの問題はあるかも知れませんが、
移植という融合措置により、命を渡すことで(第300話)、
可符香は自分の命を終了させて死んでしまいました。
当然、現世に留まることは認められず、
「暗い闇の底」(あとがき)に潜って眠ることになります。
ただし、絶望少女の中において、顕現することはできるようになりました。
しかしそれも卒業を契機にして次第にできなくなり、
彼女は同一化を以てして完全に物語からは消失することとなります。
トロイメライの歌詞を絶望少女たちが口ずさむシーンは、
彼女たちの中に可符香が有機体として生き続けていることを示しますが、
彼女たちが可符香として歌っていないことで、
同一化がほぼ完遂されたことを示してもいるように思います。
結果、死者として、現世の、物語の「外部」に戻っていってしまう。
そのタイミングで可符香は、「融合」の事実によって、島に許されたのではないでしょうか。
彼女は現世に留まることが認められない状況にあるけれども、
似通った特徴を持ち、かつ似通った状況にあった准と同様に、
融合の事実によって、生きる者として、現世に、物語に登場するものとして、
ドレスを着て、望の前に現れることを特例で認められたのではないでしょうか。
そこにいる可符香は、絶望少女たちの誰かの「中に」現れるものではありません。
他の絶望少女たちと同じようにドレスを着て、望に会うことを許された、
絶望少女たちとは「異なり」、かつ「同列の」可符香です。
望とその可符香との出会いが、『トロイメライ』に彩られたことは意味ありげです。
かつて奈美を不安定にし、現実ならぬものを見させた夜の学校。
その象徴として、真っ先に挙げられたのがトロイメライでした。
特に「不安定」を象徴する可符香の歌詞付きのそれは、
その場がまさに不安定で、「夢」のような状況、
現世の存在である望と、現世の「外部」の存在であったはずの可符香が、
あろうことか再会した状況を示していると受け取れるように思います。
結論として、最終話の准の意味ありげな登場、
そして島についての語りに注目するのであれば、
ラストシーンの可符香は准と同じく島に「許された可符香」です。
彼女はそれまでの表現を鑑みると、絶望少女たちの中に顕現したのでもなく、
単に可符香そのものとして、望の前に会いに来たと読めると思います。
『人間失格』で、大庭葉蔵は「人間でも、女性でもない」、
「淫売婦」にこそ「マリヤの円光」を見出していました。
しかし、「終わることば」で同じように「マリアの円光」を現実に見た望は、
死者、あるいは天使を表象する白い羽を振りまきながら、
眼前に舞い降りた可符香その人にそれを見たのではないでしょうか。
おわりに
非常に長くなってしまいましたが、ひとまずこれで終了です。
六月に行った考察に肉付けをして、何とか書き終えることができました。
ラストシーンの可符香は、絶望少女たちの中に出現したものではなく、
可符香その人でしかなかったと結論しておきながらあれですが、
実際ラストシーンの可符香が誰であったのかということは、
重要でないような気もしているんですよね。
もちろん、重要であると思ったからこそ長々と書いたというのはあるのですが。
というのも、絶望少女たちから逃げている状況で、
目の前に絶望少女たちのうちの誰かと考えられる可符香が顕現したのにもかかわらず、
望は悠長に「あなたは誰の中のカフカさんですか?」と尋ねているわけです。
同じくドレスを着ているのに、彼女からだけは逃げない。
ここに望の答えが表れているように思います。
結論 出ちゃってるんじゃないですか?
この辺りが、第30X話に繋がってくる。
望の心情は彼によって直接的に表明されないものの、
最終話で悠長に質問をしている時点で明らかなように思えます。
さて、最後になりますが、ラストシーンの可符香は望に何か語ったのでしょうか。
語ったのだとすれば、何をどのように語ったのでしょう。
その内容によって、30X話にも繋がれば、他の可能性にも繋がるように思います。
私は、以下のような言葉であったことを祈らないわけには参りません。
「私は幸せでした」。
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